大宅壮一 炎は流れる1 明治と昭和の谷間 [#改ページ] [#小見出し] ま え が き  本書は�歴史�ではなくて、�旅行記�であり、ルポルタージュの一種である。ことばをかえていえば、タテの紀行文だ。  この十年ばかり、わたくしは主として日本国内や世界各国をたんねんに歩きまわり、世のなかを平面的に見てきた。  もう一つは、人間に関する興味である。わたくしほど�人間くさい人間�は少ないと自分でも考えている。これはわたくしにとって、�動物的習性�のようなものだから、死ぬまでつきまとうであろう。  こういった面で、戦後にわたくしが書いたもののなかから、単行本になって出たものをひろいあげてみると、ざっとつぎの通りである。  A 旅行記およびその副産物   『世界の裏街道を行く』      (中近東・ヨーロッパ・アフリカ篇) 文藝春秋新社   『世界の裏街道を行く』(南北アメリカ篇) 文藝春秋新社   『黄色い革命』(東南アジア紀行)     文藝春秋新社   『ソ連の裏街道を行く』          文藝春秋新社   『東欧の裏街道を行く』          文藝春秋新社   『小国の裏街道を行く』          文藝春秋新社   『共産主義のすすめ』           文藝春秋新社   『フルシチョフ遠征従軍記』           新潮社   『この目で見たソ連』              光文社   『日本の裏街道を行く』          文藝春秋新社   『僕の日本拝見』              中央公論社  B 人物・企業に関するもの   『日本の人物鉱脈』            文藝春秋新社   『昭和怪物伝』                角川書店   『大学の顔役』              文藝春秋新社   『群像断裁』               文藝春秋新社   『人間裸像』                 板垣書店   『仮面と素顔』               東西文明社   『女傑とその周辺』            文藝春秋新社   『日本新おんな系図』            中央公論社   『日本の企業』               朝日新聞社   『続・日本の企業』             朝日新聞社  こういった著作に収められた体験と知識に基づいて、こんどはタテの旅行、�歴史�への旅行に出発することになったのである。�歴史�といっても、あまり古いこと、現在とのつながりの弱いものは、わたくしにはたいして興味がない。  わたくしの主たるねらいは、わたくしにとってもっとも身近な�過去�、わたくしの人間形成がなされた時代、すなわち�大正時代�である。この時代は、�偉大なる明治�と、�現代�ということで今もつづいている昭和との谷間にあって、もっとも混乱した時代、見る人によっては軽蔑されている時代である。しかし、わたくしにとっては、いちばん懐かしい時代である。 �大正人�といっても、大正期に育った人と、大正期に生れた人とは、区別しなければならぬ。明治に生れ、大正に育って世に出た人々で、戦争の嵐をくぐりぬけて生きのこっているものは、今ではほとんど還暦をすぎて、肉体的もしくは精神的に、社会から引退し、退場する時期が近づいているともいえる。  そういう存在の一人として、大正期のことを書きのこす責任があるのではないかとわたくしは考えた。還暦をすぎたらこの仕事にとりかかろうと思って、ぼつぼつと資料をあつめ出してから、かれこれ二十年になる。  ところが、わたくしにはまだ色気がありすぎて、�現代�をそうかんたんにふりきることができなかった。還暦を二年すぎて、外国も国内もほぼ見つくし、やっと気分的にいくらかゆとりができた。�裏街道シリーズ�このかた縁故の深い産経新聞社が、ほかでは望めないような好意と条件を示してくれたので、一九六三年の元旦から筆をとることになったのである。  さて、いよいよ書き出すとなると、正直なところ、何から始めていいか、見当がつかなかった。資料だけはいちおうそろっているが、それがかえってわざわいした。とくに大正期にいたっては、現代と直接つながっているだけに、ジャングルのなかにふみこんだようなもので、どこをどのように切りひらいて通りぬければいいかわからず、迷わざるをえなかった。  窮余の一策として、明治天皇の死から筆をおこし、ひとまず、逆に幕末のほうへさかのぼることにした。これは大正へのプロローグとして、予備知識として、まんざら意義がないわけではあるまいとリクツをつけた。といって、�タイム・マシン�にのったような形で、明治から幕末へ�漫遊�したというのでは、能がなさすぎる。何か一貫したものがなければならない。  わたくしの場合は、日本民族の精神構造——その中核をなしている�忠誠心�の源流をさぐることに重点をおいた。それが封建的なものから脱皮して、近代的な民族主義にまで成長して行く過程を追究し、そこにあらわれた日本的特性をつかもうというわけだ。 「炎は流れる」という題は、この�忠誠心�、民族主義を意味している。『産経新聞』にかかげた「明治天皇と乃木大将」という副題は、�忠誠心�の象徴——これをうけるものとささげるものの代表として、この二人の人物をえらんだのであるが、この二人は同時に�明治日本�を象徴しているのだ。そうはいっても、わたくしの筆が、とんでもない方向にそれてしまう場合があり、明治天皇や乃木大将が行くえ不明のような形になって読者の誤解を招く恐れもあるので、単行本では、わざとこの副題を割愛した。  かさねていうが、これは�歴史�ではなくて、旅行記の一種である。歴史家の書いた歴史の本が、地理学者の書いた地理の本のようなものだとすれば、本書は旅行マニアの書いた紀行文である。旅行だとすれば、一等国や大都市の表通りをタクシーで通り、一流ホテルばかりをえらんで泊り歩いていたのでは意味がない。小さな国の、名もなき町の怪しげな路地裏にまよいこみ、妙な人物にぶっつかることもある。旅の妙味はそこにある。  本書にもそういう面がある、というよりも、これはわたくしのもって生れた性癖で、いつでも、どこへでもつきまとうのだから、どうにもならない。  これまでわたくしが、外国の風景や人物のことを書いたもののなかにも、日本の風景や人物がわりこんでくることが多かった。本書でも、過去から現在へ飛躍する場合が多い。過去と現在の接点、十字路に立って、気のむくままに展望する、というのがわたくしのねらいでもある。  第一巻では、明治天皇、乃木大将の死から筆をおこし、�忠誠心�の源流を求めて「忠臣蔵」にまでさかのぼったが、第二巻以後では、幕末にいたって藩主、幕府、皇室をめぐり�忠誠心�が分裂し、多元化し、衝突する姿、さらに外国船の渡来、日本漁民の漂流、外国への使節派遣などによって、日本民族が欧米の近代文化と接触し、その精神構造にどのような反応を呈したかを検討した上で、明治から大正へと筆をすすめて行くことになっている。  なにしろ、ひとりでぶらりと長途の旅に出たようなもので、どこまで行くのか、どこでどんなことがおこるか、わたくしにも、今のところ見当がつかない。のんきな気持ちでおつきあい願えればありがたい。 [#地付き]大 宅 壮 一  [#改ページ] 目 次    ま え が き [#小見出し] 明治天皇と乃木希典    世界史の奇跡「明治日本」、これを象徴する二人の人間像 [#小見出し] 殉死は浪漫か背徳か    将軍の劇的な自刃をめぐる二つの相反する文化人の反応 [#小見出し] 日本の宗教「武士道」    新渡戸稲造の名著で初めて世界的名物になったブシドー [#小見出し] もう一つの明治典型    将軍と同じ精神的土壌から生まれた左翼殉教の人・河上肇 [#小見出し] 血縁・家系・日本人    血縁的な宿命を地域的な関係の上におく日本の精神構造 [#小見出し] 乃木将軍と赤穂義士    二つの伝説が太平ムードへの覚醒剤の役割をした理由 [#小見出し] 大石良雄という人物    将軍と同じく警世的効果を同時代におよぼした人間の謎 [#小見出し] 江戸町民が見た義士    明治で公認賛美されるに至るまでの義挙の受け取られ方 [#小見出し] 浪曲に生きた二神話    義士伝と乃木の自刃で最高潮に達した大正の浪曲ブーム [#小見出し] ノギイズムの原形質    長州藩の児島高徳という異名をとった忠誠の人・将軍の父 [#小見出し] 明治を形成した群像    維新をリードした下級武士の忠誠が少年乃木に投げた影 [#改ページ] [#中見出し]明治天皇と乃木希典   ——世界史の奇跡「明治日本」、これを象徴する二人の人間像—— [#小見出し] 明治を象徴するふたり �明治の日本�は、なんといっても世界の驚異であった。この時代を象徴する人物として、わたくしはまず明治天皇、ついで乃木希典《のぎまれすけ》大将をあげたい。一九一二年(明治四十五年)に日本は、これら二人の特異な人物をほとんど時を同じうして失ったのである。  この機会に、世界は改めて日本を再認識し、目を見はり、再検討をはじめた。当時、日本はどのように見られていたであろうか。 「黄色い世界は、われわれに二人の天才を紹介した。一人は独裁君主である明治天皇で、もう一人は民主主義者孫逸仙である」=ラッペル紙(パリ)一九一二年八月六日 「日本には個人主義というものがない。各個人は生きるのも、働くのも、考えるのも、死ぬるのも、みな集合体のため、国家のため、神秘的な実在である天皇のためである」=プチト・マルセイエー紙(マルセイユ)一九一二年十二月二十二日 「日本がわれわれ欧州人に示した血なまぐさい名刺には�戦争業�以外の人はなかった」=ノイエス・ウイナー・ターゲブラット紙(ウィーン)一九一二年七月三十日 「日本は西欧の仮面のもとに、いぜんとして旧日本を存続し、その先入観念も、その信念も、またその大発展の因をなした蛮的精力をも温存している」=ノ・ロアジール紙(パリ)一九一二年九月二十二日 「日本人はもはや人形ではなくて戦勝者である。朝鮮とともにわれわれの尊敬をも占領した。ロシアの軍隊と同時にわれわれの軽侮をも敗北せしめた。日本人が単に珍しい芸術家であるにすぎなかったときは、われわれは日本人をわらう権利があったけれど、人をみな殺しにする技術において、その名人となった今日では、世界の尊敬を期待することができる」=ル・ドロア・ジュ・プーブル紙(グルノーブル)一九一二年九月五日 「日本では一時すべて破壊されそうに思われたが、そのなかでただ一つの制度だけがのこり、ますます拡大強化されていった。それは君主政体で、この政体は、排外的憎悪心と、民政の改革と、革命家の野心と、王政復古の神秘的特性とによって、いよいよその地盤を固めた。当時三千万の国民は、宗教をも失ったが、唯一の宗教をのこすことを希望して天皇を崇拝した」=ジュルナル・メーヌ・エ・ロアール紙(アンゼー)一九一二年八月十六日 「欧州人のなかには、日本人を�黄色いプロシア人�と見るものもあれば、�極東のアングロ・サクソン人�だというものもある」=ラッペル紙(パリ)一九一二年八月六日  これがそのころ世界の鏡に映った日本および日本人の姿である。このなかには相当の誤解や誇張もあるが、よかれあしかれ、珍しい国、異様な民族として印象されていたことは争えない。  この民族の中心になっていたのが明治天皇で、一八六八年に即位して以来、約半世紀間、帝位にあって一九一二年七月三十日になくなった。その前から天皇の御製が英訳されていて、単なる�戦争好きの君主�ではなく、詩人的素質も、そなわっていることが認められていた。そして、その死が伝えられると、世界の新聞のなかでも、とくに同盟国イギリスの諸紙は、最大の讃辞を呈して、哀悼の意を表した。 「明治天皇の死によって世界はもっとも偉大なる人物の一人を失った。天皇の治世はおそらく日本の歴史中、もっとも深く記憶すべき時代として永久に伝えられるであろう」=タイムス紙 「明治天皇の治世における日本の発展は、世界の歴史中その類例を見ないほど急速にして、かつ目ざましいものであった」=モーニング・ポスト紙 「いま東西の歴史をあんずるに、各国の元首中、明治天皇のごとく一治世のもとに、その国民のため、かくも偉大なる事業をなしとげたものを知らない」=イーブニング・スタンダード紙 「明治の御代を回顧すれば、記録としてほとんど奇跡でないものはなく、しかもそれが一場の夢ではなくて、真実の成功であったということを知覚するのが困難なくらいである」=グラフィック紙 「明治の時代たるや、神代にはじまり、一躍して二十世紀に達したのであるが、いまやこの不思議な時代に終焉《しゆうえん》をつげることとなった」=デーリー・メール紙  この�奇跡の時代�の聖なる人柱ともいうべき明治天皇を失って、日本はいったいどうなるであろうか。  ちょうどそのころ東京にいたタイムスの通信員は「明治天皇の死とともに、日本の国運は下り坂に向かうであろう」という記事をおくった。これが日本に伝えられて、日本の政府も国民も大きなショックをうけた。  事実、当時の日本は、いろいろな面で重大な危機にあった。そのころの代表的総合雑誌『太陽』の�御大葬記念号�に建部遯吾《たけべとんご》博士の論文が出ているが、そのなかで「先帝無限のご威徳にもかかわらず、明治の末期におよんで、日本はその内部生活において憂うべき幾多の徴候を生じた」 「一時的やりくり財政策は、ついに背負いきれぬほどの外債と、半年間に一億以上の輸入超過をきたして、いよいよ大整理を断行するに非ざれば、財政上の破綻を生ずべき危機がせまっている」とのべている。こういう空気のなかで、明治天皇の�空前の大喪儀�がおこなわれ、しかもその夜、明治を象徴するもう一人の人物乃木大将が、その夫人とともに自らの刃に伏したのである。 [#小見出し] 乃木夫妻の劇的な生涯  明治天皇の御大葬は、一九一二年九月十三日から三日間にわたっておこなわれた。十三日午後八時、一発の砲声を合図に、霊柩《れいきゆう》が大内山を出て、青山葬場殿に到着、ここで大正天皇のさいごの訣別がなされた。そして翌十四日、霊柩は伏見桃山に送られ、十五日の払暁《ふつぎよう》、新しくつくられた御陵におさまった。これで�明治�は永久に歴史の扉のなかにはいったのである。  ところで、ナポレオン一世がモスクワに入城したのは、これよりちょうど百年前の一八一二年の九月十四日である。そして翌十五日にはロシア軍の焦土作戦にあい、これが歴史的な大敗北の因をなしている。そのあとに日本は、勝ちほこるロシアをたたいて、極東への進出をおさえ、ついに�一等国�の仲間入りをしたのである。この一世紀間に、歴史はこのような大きな回転を示したわけだ。  実は九月十三日はわたくしの誕生日で、一九〇〇年のこの日に生をうけた。したがって、明治天皇御大葬の日に、わたくしは満十二歳を迎えたことになる。これは偶然にも、日本の敗戦後、マッカーサー元帥によって、日本民族の政治的年齢といわれたのと同じ年齢である。ここからわたくしは、�大正日本�と歩調をあわせて、人生へのスタートをきったのだ。  年号が明治から大正にかわったとき、田舎の小学生であったわたくしは、とくに強く記憶に残るような感銘はなにひとつうけていない。大きな黒ワクのついた新聞がきたこと、家々に「諒闇《りようあん》」と書いた提灯がつられたこと、着物に喪章をつけて学校の遙拝式《ようはいしき》に出たことをうすぼんやりとおぼえているにすぎない。  しかし、東京では、荘厳きわまりない一大絵巻が展開されたのである。戦後、�人民広場�と呼ばれ、青春男女のデートや�血のメーデー�の場ともなっていた皇居前広場から馬場先門にかけては、日清、日露の戦勝のあとをうけて�凱旋大路《がいせんおおじ》�と呼ばれていたが、要所要所にアーク灯の柱が立ち、まだ夕映えのただよう空に、青白い明治的な光りを放っていた。これにまじって青竹束の太柱が組まれ、その上で篝火《かがりび》が、赤い炎と黒い煙をなびかせていた。  やがて、桜田門外にならんだ近衛砲兵隊が打ち出す弔砲の音は、殷々《いんいん》として、細い月のかかる大空に吸いとられていった。これを合図に、上野の鐘、浅草の鐘をはじめ、各寺院の鐘がいっせいに梵音《ぼんおん》を伝えた。葬列のスタートを伝えるラッパの金属的な音につづいて、近衛軍楽隊の奏でる「哀《かな》しみの極《きわみ》」がきこえてきた。  葬列の両側に、古風な服装をまとうた舎人《とねり》のささげてすすむ松明《たいまつ》の光りは、空地という空地をすべて埋めつくした幾十万の奉送者の顔を照らした。その人たちの間から、期せずして、すすりなきの声がきこえはじめた。それは�六千万のしのび泣き�というよりも、天地そのものが泣いているように思えた。  拝観者の一人はこの瞬間を「神人|冥合《みようごう》の聖境にあるの心地」ということばで描いているが、それは決して誇張ではなかったろう。いまなら、一億国民がラジオやテレビを前にしてシュンとなっているところだが、そういうものはかえってこのような気分をかもし出すさまたげになるかもしれない。いずれにしても、全日本民族が最大限に一体化し、完全に近くとけこんで、厳粛な気分にひたったのは、あとにもさきにも、この瞬間くらいのものかもしれない。  乃木大将夫妻の自刃が決行されたのは、まさにこの瞬間である。この夫妻の劇的な生涯を飾るにふさわしい幕切れであり、またとないチャンスであった。このチャンスをのがさず、生命を賭しての大演技を見ごとにやってのけた乃木夫妻は、世界にも類のない人生ドラマの作者であり、自演者であるという見方もなりたつのである。それは別として、この死が日本の国民大衆に与えたショック、その警世的影響ははかるべからざるものがある。恐らく赤穂浪士四十七人の壮挙が後世におよぼした影響の総和に匹敵するであろう。  ところが、この真相が明るみに出たのは、わたくしの知りえたところによると、偶然のケースのつみかさねによったもので、さもなければ、ヤミからヤミヘ葬り去られるところであった。  絶大なる権力というのは、多くの場合、ヤミを好むものである。戦後の日本にも、下山事件、松川事件など、いまも疑問のベールに包まれて、薄明のなかに投げこまれたままになっているケースがいくつかある。乃木将軍の場合も、孤独に耐えずして発狂し、妻を殺して自殺した哀れな老人の一例として、新聞の一隅を埋めただけで終わるところであった。  これを防いで、真相を明るみに出す最初の因をなしたのは、たまたま山梨県から応援にきた警部補が当日乃木邸付近の警衛の任についていたということである。これが憲兵のくる前に現場を検証し、所轄の赤坂警察署に連絡したのだが、もしもこれが東京の警察官であったならば、陸軍大将が自殺したというので、さっそくその辺をうろうろしていた憲兵をひっぱってきたにちがいない。  つぎに、この事件を手がけた赤坂警察署長は本堂平四郎といって、警視庁きっての硬骨漢として名がとどろいていた男であった。当時、仕立屋銀次というスリの大親分がいたが、これは警視総監も手におえぬ治外法権的存在であった。全国数千人のスリをその配下にもっていたけれど、自分では、スリをしないで、かれらの盗んできたものを一手であつかって暴利をむさぼっていた。彼のところから出ている�豆帳�と称する小切手帳のようなものは、日本中のスリ社会に通用し、どこででもすぐに現金化できるようになっていた。このスリの大元締めを断固として検挙したのが本堂である。この剛腹な男が乃木事件で軍部の前に立ちはだかり、一歩もあとへひかなかったのである。 [#小見出し] 隠された遺書  明治から大正にかけて活躍した特異な文芸批評家|内田魯庵《うちだろあん》は、『気紛れ日記』と題して、そのころのことをつぎのように書いている。  九月十四日  この日は早くおきてご大葬の盛儀を拝読すべく、新聞を待っていたが、いつまでたってもこなかった。そのうちに十時になり、十一時になる。某|縉紳《しんしん》の家に寄寓せる書生きたっていわく、 「昨晩はご大葬を拝観して家へかえると、乃木さんが自殺したという騒ぎで、とうとう寝られませんでした」 「ええ、乃木さんが死んだ?」 「先生、知らないのですか、号外が出ましたぜ」  世間から遠ざかっている太平の遊民たる余は、この一大事のあったのを翌る日の十二時近くまで知らなかったのだ。  昨夜午後八時、霊轜《れいじ》ご発引の号砲と同時に、乃木将軍は見事に切腹し、夫人また自刃すと、書生が語るをきいたときは、何ともいわれない心持がこみあげてきて、涙がポタポタとおちてきた。急いで小婢(女中のこと)を走らせて新聞をとりにやって、恐れ多いがご大葬の記事はあとまわしとして、将軍自刃の顛末《てんまつ》をことごとく目を通したが、どの新聞もきわめて簡略で、何のうることがなかった。  内田魯庵といえば、ロシア文学をいちはやく日本に紹介した人で、当時としてはもっとも進歩的、自由主義的な考えのもち主と思われているのだが、こと皇室とか乃木大将とかいうものにたいしては、このような反応を示している点で興味がある。それに、乃木自殺の情報が、新聞に出る前、一部、縉紳のあいだに流れていたこと、第一報が新聞に出ても、ごくかんたんなものであったというところに、当局の苦心のあとがうかがわれる。当局といっても、主として軍部であるが、なるべく影響力の少ないような形で、社会に伝えようとしたことは明らかである。  また当時朝日新聞記者だった松崎天民は、伏見桃山方面でご大葬の取材をするため、京都に出張中であったが、突然東京本社から、 「君たち驚いてはいかんよ、腰をぬかしてはいかんよ、乃木大将夫妻が……」 と電話がかかってきたと、彼の記者生活の思い出話をあつめた『人間秘語』のなかで書いている。さらに、魯庵の日記をつづけよう。  九月十五日  この日はどの新聞も初めから終りまで乃木将軍の記事を満載している。いくたびもくりかえして、一行一句の末までをも、咀嚼《そしやく》して精読した。そのなかで、将軍の心事は諒とするが、その手段は感服できぬと難じたのが某々の二新聞で、将軍の心事が了解できぬとか、原因がわからぬから批評ができぬとかいった人が三、四人あった。世のなかの一番利口な奴が一番人間らしくない奴だと杜翁(トルストイ)がいったのはこれだ。日本の歴史に養われていささかなりとも乃木将軍の人となりを知っているものなら、コンナ利口ぶったことはいわれぬはずである。この日はほとんど一日の三分の二を、くりかえしくりかえし、新聞の記事を読んでくらした。  魯庵のような人は別として、一般社会的名士たちは、初めちょっと見当がつかなかったらしく、それぞれの立場や信念に基づいて、乃木将軍の死に批判を下した。キリスト教徒は、自殺そのものが罪悪だといった。新聞のなかにも、十五日の夕刊に、乃木はご大葬の役不足で不平のあまり自殺したなどと書いたものもあった。それも不思議ではない。 というのは、自殺の原因を知るのに、もっとも有力な手ががりとなる遺書を軍部がにぎりつぶし、公表することを拒否していたからだ。  これを手に入れるべく、各新聞がいっせいに大活躍を開始したことはいうまでもない。そのころすでに自動車が新聞の取材に利用されるようになっていたが、まだ記者の多くは人力車をつかっていた。いまに比べてマス・コミの力は弱く、とくに軍部にたいしては歯がたたなかった。  日露戦争で、「海の東郷、陸の乃木」とならび称せられ、世界のヒーローとなっていたのに、その一方がハラキリをしたというのでは、日本はまだ野蛮国だということを証明したことにもなる。それに遺書の第一項において、西南戦争で連隊旗をうばわれたことを書いているが、このことはそれまで世間にほとんど知られていなかったので、軍部としては秘密にしておきたかったのであろう。  それよりも軍部が恐れたことは、この自決によって乃木将軍が神格化され、その反動として、明治天皇を擁して権力をほしいままにし、豪奢《ごうしや》な生活をつづけている軍首脳部にたいする批判や非難の声がわきおこってくることである。  そこで、軍にとっていちばんつごうがいいのは、乃木将軍を狂人としてあっさり片づけることであるが、それが不可能とあれば、せめて乃木の遺書を軍の手におさめ、極力その内容を世間にもらすまいとしたことは、想像できなくもない。  ところが、かねてこのことあるを予想していた本堂赤坂署長は、遺書を軍にわたす前に写しをとっていたのである。この写しをわたせ、わたさぬで、憲兵隊員と赤坂署長とのあいだに、あわや血の雨というところまでいったというが、本堂署長は頑として応じなかった。彼が軍を相手に、これほど強い態度を示したというのは一刀流免許皆伝の腕もさることながら、明治維新に薩長のためひどいめにあった南部藩の出身だという事実を見のがすことはできない。これによって乃木将軍は�狂人�転じて�神さま�となり、後にはその宣伝に軍も片棒かつぐにいたったのだ。 [#小見出し] 男にして下さい!  乃木将軍の遺書を手に入れるため、各新聞社は腕ききの記者を動員したが、そのなかに『国民新聞』の座間止水《ざましすい》がいた。彼はもと無政府主義の影響をうけて、幸徳秋水《こうとくしゆうすい》の家に出入りしたりしたこともあるというけれど、その後右翼に転向、平沼|騏《き》一郎の大日本修養団の理事として、国民精神作興運動の片棒をかついだこともある。東京毎日新聞編集局長、読売新聞社会部長としても活躍した新聞界の古強者であるが、当時はまだ若く、第一線の記者だった。  十五日の夕方、社をとび出した座間は歩きながら考えた。遺書の実物は軍の大御所で長閥の巨頭でもある山県有朋《やまがたありとも》、寺内正毅《てらうちせいき》の手にうつっているにちがいない。このほうは歯が立たないけれど、その前に警察で写しをとっていることも考えられる。その写しがあるとすれば、初めに検視した赤坂署長、警視庁官房主事、警視総監、検事局のどこかにあるはずである。検事局は手におえないので、まず官房主事の湯地幸平《ゆちこうへい》にあたってみた。湯地は後に福井県知事から勅選議員にもなった男で、生えぬきの官僚だから口がかたく、とりつくしまがなかった。  そのあと、こんどは赤坂署を訪れた。署長の本堂平四郎はすでに官舎の方へかえっていたが、座間とは旧知のあいだがらなので、こころよく一室に通してくれた。 「きょうは座間止水をあなたの手で男にして頂けるかどうか、命をかけてのご相談があってうかがいました」  いささか芝居がかった調子で、相手の目をじっと見つめながら切りだした。ヤマをかけたのだ。 「問題は何かね」 「あなたは最初に乃木将軍の検視をなさったかたですが、将軍の死をどうお考えになりますか。孤独感から発作的に頭が狂ったのですか、不平不満から出たつらあてですか、それとも亡くなられた明治天皇にたいする純粋の忠誠心から出た殉死ですか。世間ではいろいろと取沙汰していますが、あなた自身はどうお考えになりますか」  いきなり遺書の問題にはふれなかったことが成功して、本堂はこの話につりこまれた。しかもたいへんな意気ごみだったので、座間は心のなかで「しめた!」と思った。 「将軍の死はまったく武士の鑑《かがみ》だ。あんな立派な死にかたはめったにあるものではない」 「どうしてですか?」 「まずヘソの下へ刀をつき立て、左から右へ一文字にかききり、刀のとまったところから一寸ほど上へきりあげて、さらに刀をもちなおし、刃でノドをつらぬき、ツカをジュウタンでささえるようにして、その上へうつぶしになっている。ちゃんと切腹の方式にかなっている」 「夫人の方は?」 「ヒザをしかとくくった上、まず短刀で胸を刺したが、肋骨につきささってうまくいかなかった。そこで二度めにその下をついたが、これも失敗、三度めに左の心臓をめがけて強く刺し、その上にノシかかった。二人の前には、明治天皇のご真影が飾ってあったが、二人ともこれを伏しおがんでいるような形で死んでいた。こんなことはよほどしっかりした精神をもっていなければできることではない」 「すると、その現場を見せれば、将軍の死にたいするまちがった解釈なんか、たちまちふっとんでしまうわけですね」 「そうだよ。しかし今となってはそれもできない」 「何か将軍の気持ちをそのまま国民に伝える物的証拠のようなものがありそうなもんですね。たとえば遺言のような……」 「むろん、それはあるよ。だが、それを公表することは絶対禁止となっていて、どうにもならん」 「それゃおかしいですね」 「ぼくもそう思うが、軍のおえら方のすることはわからん」  これで座間は、本堂署長の手に遺書の写しがあること、その発表を託するに足る信頼すべき人物を求めていることを知った。 「国民はいま、切実に将軍の死の真相を知りたがっています。だのに、これを明るみに出さぬというのは……」 「そんなことをしようものなら、たちまちこれだよ」 といって、本堂署長は右手を自分の首筋にあてた。  もうひと押しだと座間は考えた。それには本堂の正義感に強く訴えるとともに、この発表によっていかなる事態が発生しても、その責任は座間個人が負い、決して本堂にめいわくをかけぬことを強調するほかないと思い、生命にかけてもこれを誓った。  官僚といってもまだ武士|気質《かたぎ》のぬけきらない本堂には、「男子意気に感ず」といったようなところがあって、この作戦はうまうまと図にあたった。  ふるえる手で、乃木将軍の遺書の全文を写しとり、さらに死の前後の状況を本堂署長の口からくわしくききとった座間記者は、武者ぶるいをしながら、赤坂警察署長の官邸を出た。外はもう暗くなっていた。  御大葬の夜には人で埋まっていた大通りも、潮がひいたあとのようにわびしく静まりかえっている。わざとゆっくりと歩をはこびながら、彼は考えた。  今夜のうちにも号外を出して、遺書全文を国民の前にさらけ出してしまえば、それこそ、日本新聞史上かつてない大スクープとなり、自分は業界でたちまち英雄あつかいされるだろう。しかし、それには必ず犠牲者が出るし、本堂署長の信頼を裏切ることになる。けっきょく、国民新聞社にたどりついたときには、つぎのような結論に到達していた。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] A やがて遺書そのものは、全文もしくは一部削除の上で、公式発表の形をとるであろう。これにそなえてわが社は、全文を前もって印刷し、発表寸前に号外として出す。 B 遺書全文の内容を自分の文章のなかにおりこんだものを今夜書き、これで全ページを埋めた特報記事をあすの朝刊にのせる。 C これで問題がおこれば、自分がさっそく自首して出て、全責任を一身に負い、本堂署長はもちろん、新聞社にも累をおよぼさぬ。 [#ここで字下げ終わり]  こうハラがきまってしまえば気分が軽くなった。そこで目立たぬように編集室にはいった。そしてわざと隅っこの机にむかって、何かにつかれたもののようにエンピツを走らせた。 [#小見出し] ごきげんの蘇峰  この記事が翌十六日の紙面を埋めて、全国民を驚かし、異常な感銘を与えたことはいうまでもない。彼が出社すると、社長の徳富蘇峰《とくとみそほう》はたいへんなごきげんで、座間の肩をポンとたたき、 「ありがとう、おかげで溜飲がさがったよ」 といった。権力に弱い蘇峰、とくに長州軍閥とはひそかに接近しつつあった蘇峰が、これで�溜飲をさげる�というのはおかしいが、世論を背負った新聞人として、将軍の死の真相を知らせまいとする軍首脳部の態度には、さすがにハラの虫がおさまらなかったのであろう。それよりも、新聞人として、めったにない大きな特ダネをぬいた喜びをおさえることができなかったのかもしれない。  一方、軍当局も、新聞社側の強い要求に屈して、乃木将軍の遺書を発表することになった。発表の場所として、赤坂新坂町の乃木邸と隣りあっている本戸侯爵邸が選ばれた。いうまでもなく木戸は、乃木と同じく長州の出身だ。当主は維新の元勲|木戸孝允《きどたかよし》の養子|孝正《たかまさ》で、孝正は孝允の甥にあたる来原良蔵の長男である。  来原は吉田松陰門下の逸才だったが、幕末に思想が過激に走りすぎたというので、長藩の江戸邸で切腹を命ぜられた。孝允の死後、良蔵の二男正二郎が木戸家に迎えられてそのあとをついだのであるが、これがなくなったあと、こんどは良蔵の長男が実弟の養子となって侯爵を授けられ、東宮侍従長から宮中顧問官となった。�元勲�の家を守るため、このような複雑怪奇な手続きまでとられたのである。太平洋戦争後、戦犯に問われた幸一は孝正の長男だ。  遺書の発表は、もと東郷元帥の副官で「金波楼主人」その他の筆名による著書も多く、海軍きっての文筆家として知られている海軍中将子爵|小笠原長生《おがさわらちようせい》の名でおこなわれることになった。発表の時刻は午後四時で、むろん夕刊にはまにあわない。しかし、ラジオ・テレビの普及した今とちがって、各社とも号外を出すため、一分一秒を争った時代のことだ。  国民新聞でも、編集部幹部を招集し、徳富社長自らのり出してきて作戦をねったが、取材の面ではもはや競争の余地がないので、いちばん近い家の電話を手に入れるとか、もっとも早い乗りものを用意するとか、印刷機能を最大限に発揮するとか、もっぱら機械設備にたよるほかはなかった。  しかし、その日の特報記事ですっかり気をよくした徳富社長は、殊勲者座間記者を社長室に呼んで、 「きょうの陣頭指揮は君にゆだねる、人間はいくらでも動員して、号外の方でも必勝の作戦を立ててくれたまえ」  座間のハラのなかでは、笑いがこみあげてきたけれど、これをぐっとおさえていった。 「ご安心下さい。きょうも絶対に勝つ自信があります」  徳富は彼の顔色を見て、遺書の全文がすでにその手にあることをよみとった。そこで、座間としては、この際、どうすれば他社に勝つことができるかということではなく、そのことによって生じる犠牲を最小限にくいとめることである。そのため彼は自分の方から進んで社長に条件を提出した。  このような重大な特ダネを前にしては、記者も社長と対等である。かくて徳富社長と座間記者とのあいだに、取り引きが成立した。その条件はつぎの通りであった。  一、乃木将軍の遺書全文をのせた国民新聞の号外は、その公式発表のなされた直後、すなわち一六日午後四時一分を期して発行すること。  一、それ以前にこの号外が一部たりとも社外へもち出されないように、厳重に警戒すること。  そこで座間記者は、大切にしまっていた遺書の写しを社長の前に提出した。さっそく印刷にまわされ、午前十一時ごろには大量の号外が刷りあがった。  一方、遺書発表の場所に指定された木戸邸の表玄関は、報道人で埋められ、いずれも緊張した面もちで、四時がくるのを待ちうけていた。  四時かっきり、小笠原長生子爵が玄関に姿をあらわした。彼の手には巻紙がにぎられている。これこそマス・コミのZ旗ともいうべきものだ。 「第一自分此度御跡を追ひ奉り自殺候処恐入候儀其罪は不軽存候、然る処明治十年役に於て軍旗を失ひ、其後死処を得度心掛候其機を得ず  皇恩の厚に浴し、今日迄過分の御優遇を蒙り、追々老衰最早御役に立候時も無余日候折柄、此度の御大変何共恐入候次第、茲に覚悟相定候事に候…………」 [#小見出し] 伏せられた遺志  この発表がまだ終わらぬ前、威勢のいい鈴の音とともに、「号外! 号外! 乃木将軍の遺書全文掲載!」という叫び声がきこえた。この瞬間、記者の大集団は、近くに砲弾でもおちたようにくずれた。  争ってその号外を手に入れて、たったいま発表されたものと比べてみると、一字一句ちがっていない。  それどころか、小笠原子爵の発表したものには、上に紙をはって伏せられている部分が二か所あるが、号外ではそれもちゃんと生かされている。こうなると記者団は承知しない。この重大なニュースを見ごとにぬかれて完敗した口惜しさも加わって、小笠原への激しい抗議、猛烈な怒りとなって爆発した。 「こんなニュースでもなんでもないものを伝えるために、われわれをここへよせあつめて恥をかかせた責任はだれが負うのだ」 「小笠原、男なら乃木将軍のように腹を切ってわびろ!」 といったような調子で、口々にわめきたてた。 「どうぞ静かにしてください。どうしてこういうことになったか、いずれ取り調べの上お知らせしますが、わたしの方で不公平なあつかいをしたことは断じてありません。これだけは責任をもって申しあげます」  多年、海軍のスポークスマンとして、こういうことには慣れている子爵ではあったが、この事態は容易に収拾できそうもない。このような弁明でひきさがる記者たちではないからだ。  さらに、かれらをいきり立たせたのは、遺言の一部を伏せて発表したことである。その伏せられた部分というのは、第一に、養子その他の相続人を設定せず、乃木伯爵家を断絶するという故将軍の遺志を明示しているところ、第二に、乃木邸は区か市に寄付すべし、とのべているところである。これらの部分を伏せて発表したというのは、明らかに遺書の変造で、発表の前に、裏でいろんな小細工のおこなわれたことを物語っている。ところが、国民新聞の号外には、この部分がそのまま出ているのだから、遺書の内容が事前にもれたというだけの問題ではなくなった。  それにしても、ずいぶんヘマなことをしたものである。そうでなくても、一部にはり紙をして発表すれば、そこになにがかくされているかを知りたいと思うのは人情で、マス・コミがこれを追及するのは当然である。こんなことで通ると考えていたとすれば、当局のマス・コミにたいする無知というよりも、官権とマス・コミとの比重において、現在とは比較にならないほどマス・コミ側が弱かったことを示している。  その後、乃木伯爵家のあとがまをねらう前時代的な策謀はいろいろとなされたが、この遺書によって、いや、その全文の発表によって、ことごとく封じられてしまったのだ。それに、乃木邸が東京都(当時は市)に寄付されて今日まで保存され、その地つづきに乃木神社を建てることもできたのである。  この遺書そのものは、その後、九段の靖国神社境内の遊就館《ゆうしゆうかん》(現在は靖国神社宝物遺品館)に納められたが、はり紙をとりのぞくために汚損した跡がそのままのこっている。この汚損は、権力が人間の意思、正しいニュースを勝手に変造しようとして失敗した事実を立証するものとして、将来「マス・コミ博物館」でもできれば、その方にうつして保存する価値のあるものだ。 [#小見出し] 信念つらぬいた本堂署長  この歴史的な号外発行で、マス・コミ史上にまれにみる大勝利を博した徳富社長のご満悦は、想像を絶するものがあったことはいうまでもない。しかし、そのために困った立場におかれたのは、座間記者と赤坂警察署長本堂平四郎である。  当日、なにくわぬ顔をして、他社の記者たちとともに木戸邸につめかけ、別な期待といちまつの不安をもって、午後四時を待ちうけていた座間は、号外の鈴の音をきいて、まず勝利の快感、ついで他の記者たちとは別な驚きと怒りを感じた。  彼は興奮のルツボのなかから、ひとりこっそりとぬけ出して、大急ぎで国民新聞社にかえり、社長室にとびこんだ。徳富の大きな顔が、ふだんのなん倍も大きくみえた。この顔を喜びでほころばせて、 「座間君ありがとう! この勝利は、単にわが社だけの勝利ではない。日本国民の勝利だ。そして君はその殊勲者だ」 といって、徳富はその大きな手を座間の前に差し出した。しかし、座間はおいそれとこれに応じることができなかった。顔色でその心中を読みとった徳富は、いつもの猫なで声を出していった。 「正直にいうと、君の立場を尊重して、きのうの条件を守る気持ちは十二分にあったのだが、約束通り午後四時まで寝かせておくには、このニュースはあまりにも大きすぎた。君にはなんとも申しわけないが、君も新聞人として、わたしの気持ちはわかってもらえるだろう。むろん、このことによってどのような事態が発生しようとも、その全責任はわたしが負う。決して君にはめいわくをかけない」  こういうばあいにつかう�責任�ということばの意味や内容が、社長の徳富と社員の座間ではちがっている。徳富の方は、ばく然とした社会的責任であるが、座間のばあいは、自分を信頼し、職を賭してこの大きな特ダネをくれた本堂署長を裏切ることになり、人間として耐えられない苦痛である。  しかし、よく考えてみると、署長がこのニュースを自分にまかせてくれた大目的は、いちおうこれで達せられたのである。号外の発行が、午後四時一分であっても、その一時間前であっても、それは形式上のちがいであって、問題はニュースの出どころにあり、その点についてはかわりはないわけだ。  彼としては、はじめからその責任はすべて自分で負うつもりで、すっかり腹をきめてかかっていたのだから、いまとなっては、どっちにしても同じだと考えた。  一方、遺書の秘密が本堂からもれたことは、当局の取り調べをまつまでもなく、すぐ明らかになった。ほかにもれるところがないからだ。  さっそく本堂には上層部の圧迫が加わり、例によって進退伺いとか、始末書とかを出せということになったが、彼は断然これをハネつけた。強い信念に基づき、日本の将来のために正しいと考えてやったことだ、それが悪いというなら、どうにでも好きなように処分するがいいというわけだ。  こう出られては、当局も手のくだしようがなかった。この立場に反対する正当な理由が当局になかった、というよりも、この事件がすでに大きな社会問題と化し、全日本の関心の的となってしまったので、ヘタな小細工をすればかえってヤブヘビになることを、当局の方でも悟ったからである。  これでこの事件は落着したのであるが、その後、本堂は、上野、深川、新宿、牛込などの各警察署長を歴任して大いに腕をふるい、大正七年の米騒動には副総監となって�暴徒�鎮圧の陣頭指揮をした。大正八年に退官したが、牛込署では、読売新聞社主正力松太郎の二代前の署長であった。  退官後、彼は義兄(夫人の兄)の佐々木勝成とともに、資本金十万円で東洋レヂオ株式会社を創立し、大正十一年五月二十五日、企業的な目的の上に立つものとしては、日本ではじめての実験放送をおこなった。佐々木は戦前の報知新聞特派員としてアメリカに駐在中、はじまったばかりの放送事業が将来有望なことに目をつけ、帰国後本堂をさそってこれが企業化をはかったのである。  しかし、この種の放送企業は、大正十二年の関東大震災で全滅したあと、その再建は認められず、半官半民の日本放送協会(NHK)の独占となって戦後にいたった。もしも原敬がもう数年生きていたならば、日本に民間放送がもっと早く生まれていて、本堂が正力よりもずっと早く、開拓者としての地位と栄誉を獲得していたかもしれない。  本堂は原敬や後藤新平と同郷の関係で特別のつながりをもっていた。明治三十五年六月の第七回総選挙に、初陣の原が郷里の岩手県で強敵を倒して奇勝を博した裏では、当時この地方の警察界を牛耳《ぎゆうじ》っていた本堂の陰の力が大いにものをいったのである。  明治・大正新聞史を飾る大特ダネ、乃木将軍遺書発表の裏話と、そのなかで主役を演じた本堂署長と座間記者をめぐる�秘話�はこれでおわるのであるが、実はこれは公認された�秘話�で、この事件の裏にはもっと深い事情、裏の裏があったともいわれている。  [#小見出し]計画的に資料提供?  裏の裏の話というのはこうである。  これより二年前の明治四十三年五月二十五日、�大逆事件�の大検挙があって、その�首魁《しゆかい》�と目された幸徳秋水をはじめ、その関係者はもちろん、幸徳の家に出入りしていたものは一網打尽となった。そのなかに座間止水もはいっていたのである。  当時は無政府主義者、共産主義者、社会主義者など、ひっくるめて�主義者�と呼ばれ、�危険人物�ということになっていた。かれらはたいてい頭を長くのばし、わざと手入れをしなかった。これがかれらの標識——現存社会秩序にたいするレジスタンスの意思表示のようでもあった。そういった青年たちの偶像になっていたのが秋水で、座間も秋水の家に出入りしてはいたけれど、別に無政府主義について深い知識や強い信念をもっていたわけでもない。それでも検挙をまぬがれなかった。その際、取り調べの任にあたったのが、ほかならぬ本堂平四郎であった。  ところが、本堂と座間は、調べるものと調べられるものという立場で、折衝をかさねているうちに、ふしぎに意気投合した。座間も、のちに平沼騏一郎の大日本修養団の幹部におさまったような男だから、本堂とは話がよく通じたらしい。こうなると、右も左もない。共通点はスタミナが高いということだ。共産主義がさかんになると、無政府主義者の多くは転向して右翼団体を結成したが、座間はいわばその先駆といえよう。  わたくしの考えでは、幸徳秋水や大杉栄《おおすぎさかえ》にしても、長く生きのこっていたならば、日本共産党には加わらずに、加わってもすぐ脱退して、もっと右翼的な団体の盟主になっていたろう。片山潜《かたやません》もずっと日本にとどまっていたならば、クレムリンの壁に葬られるようなことにはならずに、安部磯雄《あべいそお》の社会民衆党の産婆役をつとめ、結党後は、その最高顧問におさまっていたろう。  わたくしのこうした推定の理由については、別な機会にくわしくのべるつもりであるが、とにかく座間と本堂との関係は、乃木将軍の遺書事件のおこる前から、かなり深かった。座間が『国民新聞』に入社したのも、本堂が保証人となって徳富社長に推薦したのだという。  こうなると、将軍の遺書の秘密を本堂が座間にもらしたというのは、はじめから計画的に、つまり、本堂の方で座間を呼びつけて、いっさいの資料を提供したのだという見方も成り立つわけで、その方が事実に近いようである。本堂がこのような冒険をあえてしたのも、当時の官僚にはこの程度に剛腹な面があったというよりも、維新に痛めつけられた南部藩出身の本堂は、長州閥の支配する陸軍に、このような形でしっぺがえしをしたと解すべきであろう。この事件のほかにも、本堂は、陸軍の飯盒《はんごう》の発明者として知られた桐原大佐の殺人事件を検挙し、警察界の�硬骨漢�として通っていた。  それは幕臣の雄|小栗上野介《おぐりこうずけのすけ》の甥にあたる蜷川新《にながわしん》博士が、戦後に出した著書のなかで、薩長ばかりでなく、これに利用された天皇や天皇制そのものをものろうような意見を、大胆に発表しているのと同じ心理的基盤から出たものとも見られないこともない。  このように、史実をさぐるということは、ラッキョウの皮をはぐようなもので、ほんとの�真相�をつきとめることはむずかしいものである。  かくて乃木将軍は、�狂人�変じて�神さま�となった。人間の正しい評価は、棺をおおうてのちにきまるというが、実際は死んだあとでもどうかわるか、わかったものではない。明治以後、臣下で神にまつられたものはほかにも少なからずあるが、名実ともに�神�にふさわしいものとして、国民大衆の信仰の対象となったのは、そう幾人もいない。その筆頭になっているのが乃木将軍である。  乃木将軍の神格化は、かれの劇的な死と同時にはじまった。   今日まではすぐれし人と思ひしに        人と生れし神にぞありける  これは『萬朝報』の一記者が、将軍の死を伝える文章のなかにおりこんで発表した歌である。数年前までは、社会主義と非戦論の牙城のように見られていたこの新聞にも、このような記者がいて、このように感動し、しかもその感動をこのように率直に表白しているのである。  さらに、この感動を具体化するための乃木神社建設運動が、全国各地でアラシのようにまきおこった。�乃木神社第一号�というのは、愛知県愛知郡豊明村につくられたもので、同村の浜島伊三郎という人が、将軍夫妻自刃の号外を手にするやいなや、さっそく出入りの大工のところにかけつけて、屋敷内に乃木神社をつくらせた。  その後、本格的な乃木神社が、東京赤坂新坂町の旧乃木邸跡、伏見桃山御陵付近、将軍の郷里である山口県長府、将軍夫妻が田園生活をいとなんだ栃木県の那須など、全国各地に建てられた。これらのなかで東京と桃山のは府社に、長府と那須のは県社になった。  全国的にまつられている人物といえば、まず天満宮の菅原道真、八幡さまの応神天皇ということになるが、乃木将軍はこれにつぐもので、近世日本では珍しい例である。  [#小見出し]浸透した乃木イズム  東京の乃木神社は、皇室から五千円、東京市からの三万円をもとに、阪谷芳郎男爵を会長にいただく「乃木会」が主体となって、全国の大衆からあつめた金によってつくられたものである。その境内になっている赤坂新坂町は、いまでこそ都内でも一流の住宅地になっているが、明治十二年冬、乃木静子夫人の実家の湯地家がここに居を移したころには、近くに竹藪があって、白昼でもタヌキが出没するほどさびしく、すぐ下の坂は�幽霊坂�と呼ばれていたが、その名にふさわしいさびしいところだったという。神社の境内になっている千坪(三三〇〇平方メートル)の土地は、乃木邸と隣りあっている木戸侯爵邸の所有になっていたのを譲りうけたものだ。将軍自刃後�幽霊坂�は�乃木坂�と改められたが、これは赤坂区会の決議によるものである。市電の停留所「赤坂新坂町」も、「乃木神社前」と改称されたが、戦後は「新坂町」にもどされた。  これよりずっと早く、すなわち大正三年に発足して同七年に完成したのは、桃山御陵に近い乃木神社と、これとならんで静子夫人をまつった静魂神社であるが、このほうは一個人が私財を投じてつくったものである。その奇特な人物は、村野山人《むらのやまんど》といって、神戸でも指折りの実業家であった。粒々辛苦して巨万の富を築いたが、これをゆずる実子がなくてさびしい思いをしているうちに、乃木夫妻の死に接していたく感動し、その富と情熱のすべてをかたむけて、乃木夫妻をまつる神社の建立に余生をささげる決意をしたのである。  これには因縁話がある。村野の父の伝之丞は島津藩士だったが、幕末、藩主|斉興《なりおき》の嫡子|斉彬《なりあきら》と妾腹の第五子|久光《ひさみつ》の相続争いにまきこまれ、切腹せざるをえない立場に追いこまれた。山人は父が自決する現場をつぎの間から見ていたという。こどもたちに切腹の方式を知らせることが、武家の家庭的訓育となっていたのであって、乃木自身も同じような環境のなかで育ったのである。  村野が乃木夫妻の死によって、なにものにもまさる強いショックをうけたことは、これでうなずけるわけだが、ひとつは乃木夫人の実家が同じ島津藩に属していたというところからくる特別の親近感もあったろう。  いずれにしても、昭和時代には想像もできないような熱烈な心酔者がでたということは、当時の人びとの心のなかには�明治�が強く生きていた、というよりはむしろ、江戸時代の心理的残影が、まだ消えていなくて、こういう形で息をふきかえしたものと見るべきであろう。  これほどではないが、当時はこれに類する�乃木ファン�が全国いたるところに発生した。自刃直後の新聞記事によると、ある産婆は将軍の至誠に感奮し、自分も世のなかのために少しでも役立ちたいというので、貧しい家にこどもが生まれたばあいには、無料で取り上げることを決意し、他の産婆にも呼びかけて、これをひとつの運動にまで発展させたという。他の業種のなかからも、これに似た動きがあれこれと発生したところをみると、将軍の死がもたらした社会的感動が、いかに強く、その連鎖反応がいかに大きかったかがわかる。  ある軍人は、将軍の墓前で追腹を切ろうとした。かれは将軍と個人的なつながりをもっていて、ふだん訓戒をうけていたものだというが、殉死のまた殉死ということになる。また、ある地方の金持ちの老人で、将軍のあとを追って自殺したものもでたが、これなどは明らかに発作的な狂気と見るべきであろう。  これは、わたくしの想像にすぎないが、元禄十五年、赤穂浪士の仇討ち成功につぐ大きなニュースで、それが当時の社会に与えたショックとその連鎖反応は、まだマス・コミの発達しなかった時代のことだから、正確にはつかめないが、これにまさるとも劣らなかったにちがいない。  神社とは別な形で、将軍の精神を人びとの心のなかばかりでなく、日常生活のすべての面を乃木イズムで統一するために、大衆を組織しようとしたものが「乃木式」である。これは全国に支部をつくり、機関誌などをだして宣伝につとめたもので、「乃木式」ということばは質朴簡素な生活様式の代名詞のようにつかわれるにいたった。一種の宗教にまで発展したわけで、現に「乃木宗」ということばも生まれた。  生前、将軍は外国旅行以外、どこへ行くにもトランクを用いなかった。  小さなカバンに、楊枝《ようじ》、焼塩、手ぬぐい、小形せっけん、半紙のほかには、書物を一、二冊入れて行くだけである。焼塩は歯ミガキの代用品であり、財布のかわりに、ゴム布製の黒い手ぬぐい袋をつかった。カミソリも不用である。というのは、ヒゲはときどきハサミで刈るのだ。「朝日」という巻きタバコを愛用したが、これは一本を二つに切って、古い状袋のなかに入れてもち歩いた。  これが、陸軍大将伯爵の生きかたであり、時代への抵抗でもあった。しかし、まもなく日本に第一次大戦にともなう大ブームがやってきて、「乃木式」も「乃木宗」もどこかへふっとんでしまった。 [#小見出し] はんらんする�乃木劇�  乃木夫妻が神格化される一方、これをあつかった大衆芸術が、たちまち全日本にはんらんした。浪花節、講談、琵琶《びわ》など、当時、これをとり入れないものはないといっていいくらいだった。むろん、このなかにはいいかげんなつくり話も多く、将軍にまつわる�軍国美談�が無数にデッチあげられたのである。たとえばこういった調子だ。  ある地方のさびしい駅に、貧相なじいさんが降りた。うすぎたないメクラ縞《じま》の着物をきて、よれよれの帯をしめ、尻をはしょってワラジをはいていた。  そのじいさんが、駅前の駄菓子屋へはいって、 「このあたりに村田というものの家はあるかね」 といったら、店のばあさんが出てきて、ぞんざいに答えた。 「あるよ、お前さん、そこへ行くのかい」 「その家は、今どうしてくらしているかな」 「あすこの息子が旅順で戦死をしてから、どうにもやっていけなくなっているよ」 「そうかい、気の毒だなあ」 「乃木さんに殺されたというんで、一度乃木というやつにあって恨みのひとつもいってやりたいと、口癖のようにいっとるよ」  これをきいたじいさんの目に涙があふれ、ほおを伝った。そして教えられた道をすごすごと歩いて行った。  それから、将軍とその遺族の対面の場となり、将軍は遺族をねんごろになぐさめた上、多額の弔慰金をおいてかえると、遺族たちはそのうしろ姿を伏しおがむというところで、一席のおわりとなるのである。  これは桜井忠温《さくらいちゆうおん》少将の『将軍乃木』に出てくる話だが、明らかにつくり話である、いくらなんでも乃木将軍は、そんな服装で歩かなかった、といっている。しかし、この種の物語では、乃木将軍は完全に水戸黄門《みとこうもん》化されている。またそうしないと大衆にうけないのである。桜井少将は、日露戦争に中尉で出征して片腕を失い、日露戦後の出版界でベストセラーのトップとなった『肉弾』の著者であるが、この書の題字は乃木将軍が書いた。  そのころ、映画はまだ活動写真といったが、このおあつらえむきの主題を見のがすはずはなかった。松竹では岩田祐吉《いわたゆうきち》の主演で、日活では山本嘉一の主演で、いずれも大当たりをとった。とくに山本の演ずる乃木将軍は天下一品といわれた。このほか「乃木大将と熊さん」といったような作品が無数につくられた。  記録映画(当時は�実写�といった)では、旅順と遼陽の戦闘状況や、旅順の入城式の場面などがのこっていて、戦後に新東宝でつくった「明治天皇と日露大戦争」などにも出てくるが、これは英国のマーバン社が撮影したものだという。当時日本の参謀たちは、まだ活動写真というものをよく知らず、�ハンドルをまわす写真機�と考えていたと、桜井少将は書いている。  乃木将軍が水師営にのりこむところは撮影されているが、ステッセル将軍との会見の場面はない。日本軍の幕僚たちは、この歴史的な光景をぜひ�動く写真�におさめておきたいと思ったけれど、乃木将軍は、敗軍の将の姿を写して、後世に恥をさらさせるのは気の毒だというので、これを思いとどまらせたという。太平洋戦争で、シンガポールの英軍司令官パーシバル中将とわが山下|奉文《ともゆき》中将(のちに大将)との降服調印式の場面は、当時のニュース映画やその後につくられた記録映画で、いまも日本人の頭に強く焼きつけられているが、乃木と山下という二人の司令官、というよりも、ふたつの戦争の性格のちがいというものが、このエピソードのなかによくあらわれている。  ところで、大正のはじめごろ、映画はぐんぐん伸びてはいたが、まだ芝居を圧倒するところまではいってなかった。芝居のほうでも、�乃木劇�ということばができたくらいで、日露戦後の�軍事劇�のあとをうけ、舞台で圧倒的人気を博した。浅草を根城にして軍事物で売っていた明石潮《あかしうしお》の一座は、軍国主義の退潮とともに失いかけた人気を、これでいっきょにとりもどした。近代座までが乃木物をだして、高橋義信の将軍で客を呼んだ。  しかし、なんといっても本格的な�乃木劇�は、歌舞伎座で上演したものである。松居松翁脚色で、市川左団次の乃木将軍、中村歌右衛門の静子夫人というキャストに申し分なく、少々神経質な将軍とおちついた夫人との性格的な対照がよくでているというので大評判になり、連日大入り満員つづきだった。  東郷平八郎元帥が劇化されたのはずっと後で、その数も少ない。昭和二年歌舞伎座で上演した小山内薫《おさないかおる》の『戦艦三笠』、同九年明治座でだした真山青果《まやませいか》の『東郷平八郎閣下』のふたつしかないが、元帥自身は、どっちも見なかった。しかし「松居松翁の『乃木将軍』を上演したときは、どういう気持ちか、見物にでかけました。あとにもさきにも、父が芝居を見たことは、これがはじめてだろうと思います」と、元帥の子息|彪《たけし》が、その著書『吾が父を語る』のなかで語っている。  かくて当時の全マス・コミをあげてあおりたてた結果、乃木ブームは絶頂に達し、一部に気ちがいじみた乃木ファンを生んだ。かつて将軍が那須野(栃木県)で百姓をしていたときにはいたというワラゾウリが、泥のついたまま五百円(今の金にすれば五十万円ぐらい)で買いとられ、日本橋の有名なカツオブシ問屋の家宝として、三方にのせて床の間に飾られたという。  以上のべたところによって、乃木将軍のイメージが、どのような形で日本の大衆のあいだにうえつけられ、新しい偶像となったかということは、ほぼ明らかになったことと思う。 [#改ページ] [#中見出し]殉死は浪漫か背徳か   ——将軍の劇的な自刃をめぐる二つの相反する文化人の反応——  [#小見出し]創造された二柱の�神�  明治日本は、二柱《ふたはしら》の民族の神を創造した。明治天皇と乃木将軍がそれだ。前者が天孫降臨とは別な形で天降ったものとすれば、後者は下のほうから、封建日本の底辺にあった下層武士のなかから、維新の�元勲�たちとは別の形で�神�にまで昇華したものだといえよう。  しかし、これにはぜんぜん抵抗がなかったわけではない。当時の日本には、明治の絶対主義体制のなかで、新しい時代が胎動しつつあった。政治的には、官僚政治から議会政治にうつる過渡期にあったし、経済的には、日露戦争後のブームで孵化したブルジョアジーのヒナ鳥が第一次大戦を前にしてはばたいていた。国民の頭のなかでも、新旧の両時代の対立が、次第にはっきりした形をとりつつあった。明治天皇の死というものがなくても、�明治�はすでに退場しつつあったのだ。乃木将軍の劇的な殉死が、人々の心に眠りかかっていた�明治�をよびおこしたということになる。  将軍の死の直後に出た『日本及日本人』は、その巻頭言のなかで、つぎのごとくのべている。 「議論を超越せる崇高なる大将の死は、明治聖代の最終を飾る光輝にして、また実に先帝により建てられたる鴻業《こうぎよう》の最後の仕上げなり。大将の死はむしろ喜ぶべきを見て悲しむべからず。吾人もし泣く、吾人はただその壮烈に泣かんのみ」  当時の学者、評論家たちは、大将の死をどのように見たか。 「乃木将軍の死は、腐敗堕落せる時代の人心に投げられた清涼剤である。奢侈淫靡《しやしいんび》の風に流れた社会的病弊を外科的に治療する活人刀であった」(加藤玄智《かとうげんち》) 「日本人は、十三日の夜以来覚然として、何物をか得来ったようである。新時代を如何にする。如何なる覚悟を要するかは、大将の死が切実に暗示している」(福本日南《ふくもとにちなん》)  いつの時代にも、こういったショッキングな事件がおこると、マス・コミは、指導的立場にある人々の批判や意見を求めて紹介するが、これらはいわば波頭のようなもので、社会の底によどんでいる国民大衆の気持ちは、もっと複雑なものがある。しかし、その実態はなかなかつかみにくい。  国民大衆のなかには、いろんな層があり、層によってその反応がちがうのは当然である。とくに明冶末期から大正のはじめにかけては、思想的・階級的分裂過程が進行しつつあったときだったから、乃木の死にたいしてどういう反応を示すかということが、いわばリトマス試験紙的な役割りを果たしたことになる。  内田魯庵のことは前にのべたが、当時の知識人のすべてが、将軍の死に接して感激の涙にむせんだわけではない。  生方敏郎《うぶかたとしろう》の『明治大正見聞史』には、明治天皇御大葬の夜の新聞社のなかの空気がまざまざと描かれているが、乃木大将夫妻自刃の第一報がはいっても、はじめはほんとにしなかったし、ほんとだとわかっても、それほど重要なニュースとは思わなかった。それから社内では、乃木将軍の人物評となったけれど、社長までが、 「乃木が死んだってのう、バカなやつじゃ」 といったような調子で、冷笑の対象としてあつかわれたという。生方は大正時代のユーモア作家で、諷刺的・社会主義的傾向を示していたが、戦後|武林無想庵《たけばやしむそうあん》らとともに日本共産党にはいったりしたところを見ると、そのころからそういう素質があったのである。  また将軍の自決前後のいきさつがくわしく出ている大正元年九月十七日の大阪朝日新聞「天声人語」欄は、つぎのように書いている。 「ロンドンの急進新聞デーリー・ニュースが、乃木大将の死は、近代的懐疑論者にサムライの信条を復活せしめんとするものであるといったのは、自分の立場をはなれて公平に観ている▽そうかと思うと外人がわらうだろうなどと気をもむ日本人もある、世は様々だ」  この「世は様々だ」というのは、いまでもマス・コミが好んで用いる結論、いや、結論にならぬ結論であるが、実は意見の多様性、すなわち�日本の分裂�を語り、それを肯定しているのである。  ところで、当時の日本の新聞が、乃木将軍の死にたいして示した反応をいまからふりかえって見て興味のあることは、将軍の死が発表された直後には、近代的・自由主義的な立場からの否定的な批判も相当あったのであるが、日がたつにつれて、肯定的・礼讃的意見が強くなり、まもなく無条件的讃嘆一色でぬりつぶされてしまったことだ。  [#小見出し]時事新報の断定  まず乃木将軍の死を無条件に礼讃したものをあげると、 「吾人がこの大将の立派なる死によりて受けたる教訓は、  一、主義のために殉死したること  二、偉大なる犠牲的精神を発揮したること  三、一点の私慾名誉心を有せざりしこと 等々にして、これらは何人も以て摸範とすべきものなり」=立教大学長 元田作之進《もとださくのしん》 「大将は実に大慈大悲の釈尊に似ている。釈尊は金枝玉葉の身をもって一朝妻子をすて深山に入り、今日までその絶大の感化をのこしたる如く、乃木大将の死もまた我が国民に精神的感化を与えることを疑わぬ」=文学博士 前田|慧雲《けいうん》 「高潔の死といいたい。殉死といいたくない。殉死といえば自ずから議論の域に入る」=教育家 江原|素六《そろく》 「私はまさかのときの死ぬ覚悟に、さっそく死方を学びました。死にかけて死にきれず、のたうちまわって見苦しいさまではとね。それで懐剣を出して見ましたら、錆びておりましたから、さっそく研ぎにやりました」=日本女子商業学校長 嘉悦孝子《かえつたかこ》  今ごろ、こういうことをいう女子教育家がいたとすれば、それこそふくろだたきにあうにちがいない。 「基督《キリスト》は、十字架上で死んだればこそ、救世主と仰がれた。もし彼が死ななかったならば、他の片々たる布教師と何の選ぶところもなかったであろう。西郷南洲(隆盛)が城山で割腹したのは、いかにも馬鹿馬鹿しいようであるが、彼の死が、人心にひびく力は理論以上である。楠公(楠正成)も、湊川で死ななくてもよかったかもしれぬ。しかしその死によって彼はますます大となった。乃木大将の死は議論以上に一種いうべからざる権威がある。無限の意味がある」=文学博士三宅雄二郎 「ただ一筋の武士道的至誠純忠の念は、大将をしてその自刃をあえてせしめたもので、まったく利害軽重などの理性の判断を超絶したもっとも純に、もっとも高い感情によってこれをあえてせられたのであろう。自分はかく見る方がむしろ、乃木大将をしてより偉大ならしむる所以《ゆえん》であろうと信ずる」=文学博士 市村|※[#「王+讚のつくり」、unicode74da]次郎《さんじろう》  ところで、かつて楠正成の死を有名な�楠公権助論�で片づけた福沢諭吉は、明治三十四年になくなっているが、もしも彼が生きていたとすれば、乃木将軍の死をどのように評するであろうか。  この回答にはならないかもしれぬが、当時の慶応義塾の塾長として、福沢精神をもっともよくうけついでいるといっていい、鎌田栄吉は、つぎのような意見をのべている。 「この悲壮なる最期は、一面よく懦夫《だふ》をたたしめ、卑劣漢をして愧死《きし》せしむべしといえども、しかもこの行為を以て一般世人にすすむるほどの権威を有するものに非ず。世上ややもすれば、『一人くらいはかかる人がありてもよろしからん』というものある由なれども、一人ありてよきことは十人ありてもよく、百人千人ありてもよきわけにして、一人はよく百人は悪きなどいう理由あるべからざるが故に、世人はみだりにその悲壮の行為に感奮して、盲目的にすべてを讃仰すべからず。ただそのえがたき赤心のあるところ、醇乎《じゆんこ》として醇なる高潔の志を多として学ばざるべからず。もしそれ自殺殉死の是非いかんにいたっては、世すでに定論あり、余また何をかいわんや」  この議論は、いちおう福沢精神を表現しているようにみえるが、結論がボヤけている。これでは、乃木将軍の死は範とすべきものかどうか、ハッキリしない。少なくとも、福沢の�楠公権助論�のように明快に割りきらずに、「余また何をかいわんや」と逃げている。祖述者とその後継者、ほんものとイミテーションのちがいは、こういうところに出ているともいえる。  そこへいくと、同じ福沢精神に基づいて発行されている時事新報の大正元年九月十五日の社説は、もっと明快な断定を下している。 「大将の自殺につき批評を試みるは私情において忍びざる所なりといえども、世間あるいは理と情とを混同し、乃木将軍はさすがに忠臣なり、先帝に殉死してその終りを全うしたりなどとその死を称讃するものあらんか、大なる心得ちがいといわざるをえず」  今ならなんでもないが、当時としては相当思いきったことをいったもので、このため時事新報社は石を投げられたり、脅迫状がおくられてきたりしたという。  [#小見出し]「大将、凡人にあらず」  一方、明治学界の大御所で、保守的な筋金が通っていると考えられていた加藤弘之が、乃木将軍の死にたいしては、否定的な見解を発表している。 「殉死のことたる昔時の武士道ならば、むろん賞すべきことなれど、これはすでに現代を遠くはなれたる過去のことに属し、時代の進運とは相伴わざる作法なり。しかも何が故に夫妻とも自殺せしや、予はこのことについては故人の徳を傷つくる恐れあるが故に、あえて云々せず。その死真に惜しむべしといえども、予は不幸にして将軍が自己の正直一片なる意思に支配されて、真の武士道を思ういとまなかりしを哀しむ」  これまたずいぶん思いきった発言である。それというのも、弘之の母の父が藩のお家騒動にまきこまれて自刃しているので、これが彼に強い心理的影響を与えているのであろう。  当時の東京帝国大学総長|菊池大麓《きくちだいろく》も、殉死否定の意見をもらしているというウワサが流れた。『銭形平次』の作者野村胡堂も、そのころはまだ報知新聞のかけだし記者で、菊池総長のところヘインタビューにやられた。夜おそく菊池邸の門をたたいたが、菊池はいやな顔もせず、彼を引見した。野村の方では、話のきっかけをつくるため、まず明治天皇の思い出をうかがったところ、あまりにも気持ちよく話してくれたので、 「ときに先生は、乃木大将の殉死に反対だというのは事実ですか」 という質問をついに、口に出しかねた。そのまま社にかえり、殉死問題にはふれず、明治天皇に関する思い出話だけを書いて、お茶をにごした。 「気おくれがしたというのではない。慈父のようなこの学者を、困らせるに忍びなかったのである」 と、『胡堂百話』のなかに書かれているが、今の新聞社ではこんなことではすまされなかったであろう。  高山|樗牛《ちよぎゆう》の親友で宗教学者の姉崎|正治《まさはる》は、 「第一、時においてはなはだ悪し。御大葬の当日に自殺するがごとき、何等か芝居気|染《じ》みたり。乃木大将、凡人にあらず。かくのごとき常人の情を以て忖度《そんたく》すべからず」 といっているが、この「凡人にあらず」のなかに多少皮肉な意味がふくめられているように、うけとれないこともない。  加藤弘之は、明治四十四年に『基督教の害毒』という書物を出しているが、基督教畑の学者のなかには、乃木大将の死にたいしては、自殺を罪悪とする原則論に基づいてこれを否定するか、あるいは沈黙を守るものが多かった。その例として法学博士|浮田和民《うきたかずたみ》の意見をつぎにかかげる。「教育の理想として、また道徳の理想として、なるべく奨励せねばならぬことは、一般国民がこれを真似て且《か》つ実行しうるものでなければならぬ。或る特別の事情、或る特別の境遇にあるものの行動は、たとえその心情には同情しても、奨励すべきではない」  基督教婦人矯風会の創立者矢島|揖子《かじこ》は、三十年間も日本で基督教の伝道をしているというアメリカ婦人の体験談を引きあいに出して、 「どんなに伝道しても基督教にならないのは乃木系の兵士です」 といっているが、この短いことばのなかに、明治以後に日本にはいってきた基督教的国際主義と、その反動として頭をもたげてきた民族主義との微妙な対立が観取される。この民族主義は、乃木将軍の死を契機として攻勢に転じた。少なくともこれを利用して、攻勢に転じようとしたことは明らかである。  一方、軍人のなかでも、反主流派の不平分子は、乃木大将の死にたいして、きわめて同情的であった。そしてその批評にかこつけて、主流派への不満をブチまけた。乃木と同郷で、乃木とはちがった意味で陸軍きっての変わりものといわれた三浦|梧楼《ごろう》の乃木評が、そのいい例である。 「乃木は前から一徹者で、一刻者《いつこくもの》だった。それがためついにかくのごときことに立ちいたったのだ。こんなことはリクツばかりで論じることができない。情をもって論じなくてはいかぬ。乃木はただ青山より桃山まで御霊《みたま》のお伴をするだけでは、情において忍びない、未来永劫先帝の側に奉仕したいと思うて、御後を慕うたので、自らの死の上には一点の疑いもなくして死んだのだよ。  しかし乃木の死は、日本ばかりでなく、世界の問題となるだろうよ。それで我が政府はいかなるいいわけをするか? 万々一こんなことはないと思うが、日本はなお野蛮国であるという外国の非難を恐れて、乃木の殉死を発狂の結果であるとして外国の手前をつくろうがごときことがあったら、乃木にとっては実に気の毒なことだ」  これが当時の日本の国民大衆の最大公約数的な気持ちだったかもしれない。  [#小見出し]谷本博士の�筆禍�  つぎに、当時の代表的政治家たちは、乃木夫妻の死をどのように見たか。  まず、板垣退助は、 「その小心翼々にしてかつまた恪勤《かつきん》厳正なる美質、すなわち将軍のうるわしき人格と、その特殊なる境遇より自然に発してここに至りたるものなれば、理をもってこれを論ずべからず、世上、大将の死はあるいは憤死といい、殉死といい、所論区々であるが、大将は実に玲瓏《れいろう》玉の如き性格をそなえた真の善人であった」  大隈重信となると、いくらか皮肉な見方をしている。 「元来将軍は不遇の人であって、長州出身で、しかも長州陸軍と呼ばれている陸軍のうちにあったにもかかわらず、長州の先輩同僚の間にいれられず、日清戦争以前には少将で休職となっていたのである故、もし戦争がおこらなければ、将軍はついに少将で終わらなければならなかったのである。日清戦後には休職となったのであるから、日露戦争がおこらなければ、中将でたおれてしまうのであった」  犬養毅《いぬかいつよし》にいたっては、もっと批判的である。 「一子にして健在なりせば、夫人の死を緩《ゆる》うしたには相違なきも、将軍はやはり殉死したにちがいない。もしも内大臣侍従長になっていたら、将軍も殉死のことなく、真心をつくして先帝に奉仕し、天寿を全うしたであろう。春秋の筆法をこの点に応用すれば、将軍を殺したるものは藩閥者流である」  将軍の死にたいして、だれよりも痛烈な批判を下したのは、文学博士谷本|富《とめり》である。 「乃木さんは、平生あまり虫の好かない人である。露骨にいえば、はなはだきらいな人である。乃木大将と東郷大将とは同じく日本陸海軍の名将ながら、その人物には大なる相違があって、とうてい同日の談ではない。乃木さんには一種の衒気《げんき》があって、時としていやな感じをおこさしむることはあるが、東郷大将にいたっては、無邪気にして、渾然《こんぜん》玉のごとしとの一般の評である。乃木大将の古武士的質素純直の性格は、いかにも立派なるにかかわらず、何となくわざと飾れるように思われて、心ひそかにこれを快しとしなかった。かつて将軍が少佐か中佐のころのことであったと思うが、余の知れる一年少者が同邸を訪問したとき、あたかも昼食時刻に際しておった。大将はマグロの一大肉塊を無雑作に平鉢にのせてもちきたり、その年少者の面前にて、軍刀をぬいてこれを荒切りにし、剣のさきに肉をつらぬいて、客にすすめたことがあるときく」  さらに進んで、 「概約すれば、乃木さんはむしろ大久保彦左衛門のごとき役割りの人であったろう。とうてい国家実際的政務の紛雑なることを理解し、処理すべき人ではない。されば時勢の進歩とともに、人事のようやく複雑を加うるを見て、慷慨《こうがい》やまず、自殺するに至りしは、気の毒ながら、けだしやむをえざることならんと思う」 といった調子で、おしまいには乃木将軍の人相におよんでいる。 「大将はいわゆる孤相《こそう》である。平たくいえば下賤の相に近いもので、とうてい大将というごとき高職にのぼるべき富貴も天分もなければ、また百歳の寿を保つべき福寿相と見えざるようである。支那の相書に、かくのごときは敗業するにあらずんば、悪死せんなどと書いてあるのに近い相である」 �神さま�もここにいたってはまったく台なしだ。これを読んで、全国の乃木信者が黙っているはずがない。谷本家には連日何百通という脅迫状がまいこみ、その騒ぎは、深沢七郎『風流夢譚』が『中央公論』に出た場合に比して、まさるとも劣るものではなかった。学生間に谷本排斥運動もおこった。深沢は危険を感じてついに警察の保護のもとに身をかくすにいたったが、当時京都帝国大学教授の地位にあった谷本は、このためにけっきょくその地位を退かねばならなかった。見方によっては、これは�世論の勝利�だともいえるし、�社会的暴力�、一種のリンチだともいえる。  京大を退いた谷本博士は、『大阪毎日新聞』に顧問として迎えられた。何か事故をおこして官職を退いた学者、官吏、軍人などが、新聞社に顧問、嘱託、客員などの名義で迎えられる風潮がこのころからはじまり、のちにはそれが流行のようになった。  それがとくに関西系の新聞社に多かったのは、それだけ関西のほうは政府の風あたりが弱かったからだというよりも、古い肩書きにまだいくらか市場価値があると見て、これを利用することを考えたのであろう。  地方新聞のなかでも、たとえば『信濃毎日新聞』のごときは、論説に痛烈な乃木批判を出したところ、読者のはげしい反撃をくって、社主がこの論説と反対の意見をかかげるというような珍事もあった。このような分裂がいたるところでおこったのだ。  [#小見出し]熊楠の�異色論文�  乃木夫妻の殉死の動機やその是非善悪が、各方面で問題にされ、論議の対象となるにつれて、批判の批判もあらわれて、さらに世人の関心をよびおこした。  そのなかでも、大正元年十二月一日号の『日本及日本人』に、�角屋蝙蝠�の名で掲載された「自殺につき」と題する論文は、きわめて異色のあるものである。筆者は日本の学界が生んだ最大のかわりもので、巨人でもある南方熊楠《みなかたくまくす》だ。その内容は、古今東西にわたる自殺の実例や解釈をならべたもので、その博識は驚嘆にあたいする。それが谷本富博士にたいしては、 「予の知人は、みな谷本の名をきくのもいやな気持すと語る。その故をきくに、先年豊太閤の伝を講ずるとて、伊藤|博文《ひろぶみ》の一事一行をほめ、博文が京都の老妓君尾に途中いんぎんにあいさつしたなどという些事《さじ》までも称揚せり。死せる乃木大将をけなして生きたる東郷大将を揚ぐるなど、吾輩庸人にはできぬ芸当なり」 と谷本をののしり、浮田和民博士については、 「田舎住居不便にして、浮田博士の自殺論を読みえざれど、いかなる事情あるにもせよ、自殺者を称讃すると、キリスト教を奉ずる西洋人の評判が悪くなると論ぜられたりときく。いちおうもっともなことなり。さてこれまた伝聞ながら、博士は近年避妊術の必要を説かるるとか、避妊術はキリスト教義に背かざるにや」 と痛いところをついている。  自殺も避妊もキリスト教では禁じているが、日本で産児制限を熱心に唱え出したのは、安部磯雄、浮田和民など、主としてキリスト教系の学者である。有名なマーガレット・サンガー夫人が日本にきたのは大正十一年だが、日本の官憲はその宣伝を許さなかった。  南方は、また谷本の骨相判断を冷やかすために中国の昔話を引きあいに出している。馬のよしあしを判定することを得意とするものがいて、その説によると、その馬の脳をわって見て、それが血のような色だと万里を走り、黄色だと千里を走る、と説いた。しかし、馬がすでに死んでしまったあとで、その馬がなん里走るとわかっても無意義だ。そこで「骨相学の妙を誇らんとするならば、死なぬうちに判断して、人々につげてやり、以て殃《おう》(不祥事)を未然に防がれたきものなり」 と皮肉っている。  仏教系評論家の高嶋米峰《たかしまべいほう》となると、 「谷本博士が乃木大将の人格を非難したがるごときは、乃木大将の平常を知らざるの愚説というべく、また、死者にたいする敬意、人類相互の最終の礼儀をわきまえざる無知をわらうべし。これに反し、かの加藤弘之博士のごとき、浮田和民博士のごとき、もしくは我が徒|境野黄洋《さかいのこうよう》君のごとき、真に国を憂い、社会の風教を思うの至情より、堂々としてその所見を公にしたるものにたいし、異れる立場にたちて、正面よりこれを論難せんとはせず、いたずらにこれを非国民とし、人非人とし、脅迫状を送って口を箝《かん》せんとす。けだしこれ、世の学者をして、曲学阿世にあらずんば、命を保つ能わざらしめんことを思わしむるの態度あり」 といっているが、これは当時の、進歩的といえないまでも、自由主義的な立場を表明したものといえよう。  これで見ると、谷本博士はその世俗的な態度がたたって、左右からたたかれたのであるが、乃木問題については、当時としては限界をこえたと見られるほどのラジカル(過激)な意見をはいて、ついにその官職を失うにいたったのである。昭和九年、斎藤|実《まこと》内閣の商相中島|久万吉《くまきち》が、足利尊氏《あしかがたかうじ》を讃美したというので、その地位を棒にふった事件を思わせるものがある。  また、この高嶋の文章のなかにも出ているように、乃木大将の死にたいして、少しでも批判的な意見をはいたものにたいしては、これを�非国民�呼ばわりし、脅迫状を送って、社会的発言を封じてしまう習慣が、このころはっきりと正面に出てきたことは注目にあたいする。昭和にはいり、�非常時�の声とともに、この傾向はますます強くなったのであるが、この時代にはまだ保守陣営のなかにも、明治的自由主義が完全に失われていなかったことがわかる。  さらに興味のあることは、�曲学阿世�ということばが、ここでもつかわれていることである。いうまでもなく、このことばは、太平洋戦後に吉田茂の口から出て、流行語のようになったものだ。  ところで、高嶋は自由主義的な立場から、保守的な世論に迎合する学者たちにむかってこれをつかっているのに反し、吉田は、逆に保守的な立場から、自由主義者のほうにこれを投げつけた。同じことばでも、時代によって、つかう人によって、まるっきり別なものだ、という一例である。それにしても、日本の民衆は、そんなにおもねられやすいものであろうか。  [#小見出し]※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外の乃木観  日本の作家で、乃木将軍とのつながりがもっとも深く、またもっとも強い親近感を抱いていたのは森※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外であろう。  大正元年九月十八日、青山斎場でおこなわれた将軍夫妻の葬儀に参列してかえったその晩、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外は『興津彌五右衛門の遺書』と題する短編を一気に書きあげて、『中央公論』によせている。これは細川|忠興《ただおき》の家臣が、相役《あいやく》をうちはたして、当然死なねばならぬところを主君に命を助けられ、その後忠勤をはげみ、主君が死ぬとこれに殉じたという話で、乃木将軍の死にヒントをえて書いたというよりも、将軍の霊にささげたと見るべきものだ。  さらにこの年の十一月三十日には、やはり殉死をあつかった小説『阿部一族』を書きあげている。これは、のちに映画化されて強い感銘を与えたものだ。  ※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外が乃木将軍と知りあったのは、明治十九年十一月から約二年間、ドイツに留学していたときのことである。ふたりの結びつきについて、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外の長男|於菟《おと》はつぎのように書いている。 「最初、父は真の武人としての将軍を尊敬し、将軍は父の外国語の力が他に絶しているのを認めた。交際のこまやかなるに従って、父は将軍の単に誠忠なる武人であるのみでなく、詩をよくし、またその思慮周密、着想遠大なるに服した。将軍は父の博識と深遠なる思想に一片|耿々《こうこう》たる皇室尊崇の念が確乎として存在するのを知って深く信頼した」  どっちも、高い官職につきながら、権力をほしいままにするものをひどくきらったこと、皇室尊崇の念の強かったことで一致し、典型的な明治人であった。  日露戦争では、乃木将軍は第三軍の司令官であったが、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外は奥保鞏《おくやすかた》司令官のひきいる第二軍の軍医部長であった。将軍の二男|保典《やすすけ》少尉が旅順で戦死したときの経過を『うた日記』中の長詩『乃木大将』でうたっているが、これは戦前教科書にもはいっていたものだ。  ※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外は、また第三軍のために軍歌をつくっているが、そのなかで旅順のことは、なかなか�おちぬ�というので、評判の�箱入り娘�にたとえ「口説き上手についおとされた」としゃれている。  明治四十四年、英国でジョージ五世の戴冠式がおこなわれ、日本から天皇のご名代として東伏見宮|依仁《よりひと》親王がご差遣となり、これに東郷平八郎、乃木希典の両大将が随行した。その帰りに、乃木大将はバルカン諸国を廻って歩いたが、とくにルーマニアでは、王室に招かれて大いに歓待された。王妃のエリザベートは、カルメン・シルバの筆名で文筆家としても知られていたが、将軍は帰国後、美しいカエデの一枝を妃におくった。その返礼として、妃はその紅葉を手ずから写生し、将軍をたたえる詩をドイツ語で書きそえておくってきた。将軍はさっそくその詩をだれかに訳させたが、だいたいつぎのような意味のものだった。   大英雄の向かうところ勝たざるはなく、   爛々《らんらん》たる眼光は遠く境をも超えつべし。   さるをまた優しくも婦人の心を楽しましめ、   聡《さと》くも児童の心を迎う。  この訳が正しいかどうか気になった将軍は、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外に見てもらった。※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外の語学力にはよほど傾倒していたらしく、外国語にかんすることは、なんでも※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外のところにもちこんで相談した。将軍の長男の勝典《かつすけ》が、ドイツの小説を読みたいといってきたときにも、将軍は※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外にその小説のよしあしを鑑定してもらっている。そのときの将軍の手紙が、森家にのこっているという。  将軍がなくなった年の元日、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外は乃木邸へ年賀に行って、稗《ひえ》飯をごちそうになった。そのときに出たお菜は、イモ、ダイコン、ゴボウをかたく煮しめたもので、これには「決して美食家ではない父もちょっと閉口したらしい」と、於菟が書いている。  明治天皇のなくなる少し前、ウィーンのある彫刻家が、乃木将軍像を銀のレリーフにしておくってきた。※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外がドイツの新聞でこの記事を見て、そのレリーフを見たいといったところ、将軍はそれならさしあげようといった。しかし、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外は辞退した。  御大葬の少し前、将軍が※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外の事務所を訪れて、晴雨計がいるならあげようかといったが、これも断わった。あとになって考えると、レリーフも晴雨計も、形見としておくるつもりだったのだが、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外にはそれが通じなかったのだ。 「墓は�森林太郎墓�の外一字もほるべからず」と書きのこし、国家が彼に与えた一切の栄誉ある肩書を拒否した※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外は、『思想の科学』の橋川文三にいわせると、「天皇に忠に、国家に反逆的な思想をいだいていた点で、乃木と同型の国家観につらぬかれていた」ということになる。  [#小見出し]漱石と芥川の批判  ひとしく明治、大正の文豪といっても夏目漱石は、博士号を拒否したりした点で森※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外に通じるものがあるように思えるが、漱石の精神構成は、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外とはずいぶんちがっている。  漱石の小説『こころ』のなかで、自殺する主人公の心理が、つぎのように描かれている。 「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。そのとき私は、明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。もっとも強く明治の影響をうけた私どもが、その後に生き残っているのは、ひっきょう時勢おくれだという感じが、はげしく私の胸をうちました。私はあからさまに妻にそういいました。妻は笑ってとりあいませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうとからかいました。  それから約一か月ほどたちました。御大葬の夜私は、いつもの通り書斎にすわって、合図の号砲をききました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞えました。あとで考えると、それは乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に、殉死だ殉死だといいました。  私は新聞で、乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争のとき、敵に旗をうばわれて以来、申しわけのために、死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見たとき、私は思わず指を折って乃木さんが死ぬ覚悟をしながら、生きながらえてきた年月を勘定してみました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間、死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人にとって、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へつきたてた一刹那《いつせつな》が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。  それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよくわからないように、あなたにも私の自殺するわけが明らかにのみこめないかも知れませんが、それは時勢の推移からくる人間の相違だから仕方がありません。或は個人のもって生れた性格の相違といったほうが確かかもしれません」  おそらくこれは、明治天皇や乃木将軍の死に接しての漱石の実感であろう。同じ実感から、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外は『興津彌五右衛門の遺書』を書いたのであるが、その内容はこうもちがうのだ。※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外は将軍と心理的にすっかり密着しているのに反し、漱石と将軍との間には、ちょっと埋まりそうもない距離のあることがわかる。  漱石は思いきってシンラツに、将軍の死をからかっているが、これは小説という形でカムフラージュされているからいいものの、この気持ちをまともに表現したならば、谷本富の場合と同じくらい大きなショックを世間に与えたにちがいない。また※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外が自由に筆一本で生きていきたいと思いながらも、最後まで官職にしがみついていたのは、自殺を考えながら生きつづけた乃木将軍に通じるものがある。漱石が学位ばかりでなく、一切の教職もあっさりとすてたのは、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外や乃木にはよくわからない江戸っ子心理から出たものともいえよう。  その点で、同じ江戸っ子の芥川龍之介はもっと徹底していて、ほんとに自分の手で生命を断ってしまった。  芥川の小説『将軍』は、明らかに乃木将軍を頭において書いたものであるが、伏字だらけになっているところを見ても、かなり大胆な軍人および軍国主義にたいする批判がなされていることがわかる。たとえば、 「私は勲章に埋まった人間を見ると、あれだけの勲章を手に入れるには、どのくらい××なことばかりしたか、それが気になってしかたがない」 というスタンダールのことばを引用するかと思えば、一青年の口を借りて、画家レンブラントのほうが、 「N将軍などよりも僕らに近い気もちのある人です」 といわせている。さらに、 「或るアメリカ人が、この有名な将軍の眼には、Monomania(偏執狂)じみたところがあると、無遠慮な批評を下したことがある」 とも書いている。とくに芥川の反感をそそったのは、将軍が死の直前に写真をとらせたことである。「まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られることを——」  意識してやったといわんばかりである。しかし、私が生前の芥川に直接あってうけた印象からいうと、芥川自身が、自分の死が世間にどのようにうけとられるか、ということを気にするような型の人であった。芥川には将軍と同じような面があるからこそ、将軍に強く反発したのであろう。  [#小見出し]学習院出身者の態度  もっと新しいところでは、林房雄にも『乃木大将』という小説がある。これは、柳湖村《やなぎこそん》という隠者めいた民間学者を、作者らしい�私�という男がたずねて、乃木将軍のことを話しあうことになっている。前にのべた芥川龍之介の『将軍』と同じ系統のもので、伏字の多いところも似ている。おそらく、林は芥川の作品にヒントをえて書いたものと思うが、芥川がインテリ自由主義の立場から乃木を批判しているのに反して、林のほうはプロレタリア的である。  芥川がひどくこだわっている写真の問題にしても、林にいわせると、ちっともおかしくないことになる。「大将はつねに、意識的警世家だったのだから、あたりまえだ」写真をのこさなかったら、警世家としての任務をなまけたことになる。「写真をのこしたからこそ、きちんとむすびがついた。顔を描いて眼を入れたことになった」わけだ。  乃木将軍のねらいは�警世家�たることにある。 「大将の野心は、軍人としても、政治家としても、教育者としても、ついにみたされなかった。たとえば桂《かつら》太郎のような後輩が、それらの方面では、ぐんぐんおいこしてゆくのだ。しかし、大将が最後にえらんだ警世家としての役割りは、みごとに——大成功だったのさ」  大衆の崇敬をあつめている歴史的人物にレントゲンをあてて、その動機を個人的野心に還元し、道徳的評価をひっくりかえすのは、太平洋戦争後にもさかんにおこなわれたことだが、大正末期から昭和初期にかけても、同じような風潮があった。林は当時のチャンピオンのひとりだった。その後、彼の思想的立場はずいぶんかわってきているが、現在の林は果して乃木将軍をどう見るであろうか。  それよりも、私たちにとって一層興味のあるのは、学習院出身の作家たち——主として白樺《しらかば》派の乃木将軍観である。かれらは学習院にあって、晩年の乃木将軍に直接ぶつかり、その訓育をうけながら、将軍の人柄や言動を自分の目で見てきたのであるが、かれらの乃木観は、がいして否定的である。少なくとも信仰の対象にはなっていない。  大正元年十二月号の『白樺』に、武者小路|実篤《さねあつ》は、当時の民族主義的評論家三井|甲之《こうし》に与えるというかたちで、つぎのように書いている。 「君は乃木大将をロダンと比較して、いずれが人間本来の生命にふれていると思うのか。乃木大将の殉死が、西洋人の本来の生命をよびさます可能性があると思っているのか。……自分は乃木大将の死を憐《あわれ》んだ。………ゴッホの自殺はそこへゆくと人類的のところがある」  ロダンとか、ゴッホとかをやたら引きあいに出すのは、いかにも武者小路的だが、乃木将軍に好感をもっていなかったことは明らかである。現在の武者小路も、かつての三井甲之に似た立場にたっているが、新しい乃木評をききたいものだ。  乃木大将の死んだとき、武者小路は二十七歳、志賀直哉は二十九歳、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]は二十四歳だった。志賀は、将軍が自殺した翌日の日記に、こう書いている。 「乃木さんが自殺したときいたとき、馬鹿な奴だという気が、丁度下女かなにかが無考えに何かしたとき感じる心持と同じ感じ方で感じられた」  ここでは、乃木将軍が�下女�なみのあつかいをうけている。これも当時発表されたら物議をかもしたろう。  里見の小説『潮風』は、彼の学習院時代に片瀬へ海水浴に行ったことを書いたもので、その際、裸で突っ立っている乃木大将のフンドシの間からはみ出している恥毛に、白毛がまじっていたといった調子で、この老将軍をヤジっている。  このように、そのころ学習院にあって乃木将軍から直接薫陶をうけた貴族や特権階級の御曹司たち、そのなかでも作家を志したようなものは、将軍を尊敬しないばかりか、申し合わせたように強い反発を感じているのはどういうわけか。この年齢層特有のレジスタンスのあらわれだといってしまえばそれまでであるが、両者の心理的な距離があまりにも大きすぎたからではあるまいか。  [#小見出し]天皇のご意思で院長に  乃木将軍が学習院の院長に任命されたのは、明治四十年一月で、これは明治天皇自身の意思にもとづくものである。  明治三十九年七月、参謀総長の児玉源太郎大将がなくなって、その後任に乃木大将をという動きもあったが、天皇はこれをしりぞけて、 「乃木はふたりの子を失っている、そのかわりに多くの子を与えよう」 といって、皇族や華族の子弟の訓練を、彼の手にゆだねたのである。  学習院は、維新前、京都の宮廷内に公卿の教育機関としてつくられたものであるが、朝廷の勢力がのびるとともに、尊皇攘夷のゼミナールのようなものとなった。維新後、華族の子弟教育の目的をもって東京で再建され、ずっと華族会館付属の私立学校となっていたが、明治十七年宮内省直轄の官立学校にかわった。  これに筋金を入れようとしたのは、近衛文麿《このえふみまろ》の父|篤麿《あつまろ》である。篤麿は西園寺公望《さいおんじきんもち》とともに、�長袖《ちようしゆう》界の双璧�、今のことばでいえば、華族界の二大ホープといわれた人物で、かつて維新の元勲たちのあいだで、後継者のことが話題にのぼったとき、三条|実美《さねとみ》公が岩倉具視《いわくらともみ》公に、 「ご心配めさるな、あとには近衛と西園寺がひかえている」 といったくらいである。フランス仕込みの西園寺が自由主義的、傍観的であったのに反し、篤麿は終始積極的で、日本のみならず、東洋諸民族の運命ということを、いつも念頭において行動していた。東亜同文書院をつくったのも、この理想を実現する人材を養成するのが目的であった。  明治二十八年、篤麿が学習院長に就任するとともに、学習院に大学科を復活し、その卒業生の多くを外交官に仕立てようとした。それまで、華族の子弟は、貴族院議員などになって徒食するか、せいぜい軍人を志すくらいのものであったが、篤麿は外交官を華族におあつらえむきの職業と認め、学習院大学科をその養成所にしようとしたのである。華族出身ではないが、横浜の富豪の養子であった吉田茂が外交官を志したのも、ひとつはちょうどそのころ、学習院に学んだからであろう。  ところが、かんじんの篤麿は、明治三十七年の元旦、多年主張しつづけてきた日露開戦を前に、当時宮内省御用掛をつとめていたベルツ博士もサジを投げるような、奇病にかかってなくなった。  そのあと、学習院に第二の�大物院長�として迎えられたのが乃木大将である。  乃木院長が、学習院長としてまず第一に手をつけた仕事は、下田歌子を学習院女子部長の地位から追放したことである。下田は岐阜県の生まれで、幼名をせきといい、明治四年祖父をたよって上京、翌年宮内省に出仕したが、   程もなき袖にはいかがつつむべき       大内山につめる若菜を という和歌を皇后に献じて、おほめにあずかり、名を�歌子�とたまわった。その後、宮内省や政府の大官のあいだにくいいって、その地位と発言権を高め、女子教育界の大御所にまでなったのであるが、一方では非難の声も高く�妖婦�視されていた。これを断固として追放したのは、さすがに乃木将軍だというので、世間の好評を博したものだ。  生徒にたいしては、これまでの知育偏重を廃して、徳育主義というよりも、思いきったスパルタ式軍隊教育をおこなった。そのために全寮制度を採用し、院長自ら老体をひっさげて寮生活をおくった。  乃木院長は、まず新しい学則を制定してこれを発表したのだが、これがまたかわっている。その学則は第一に、漢文で書かれていること、第二に、「明治|己酉《つちのととり》(四十二年)正月」などと干支が用いられていて、いかにも古くさい。そればかりではなく、「源朝臣希典《みなもとのあそんまれすけ》敬書」と書かれていて、「学習院長」の肩書きはどこにも出ていない。その後の学内掲示にも、ちょいちょい�源朝臣�が出たので、そのころ学習院にいた近衛文麿も、これにはすっかり面くらったと、後年述懐している。  乃木家の先祖は、宇治川の先陣争いで勝った佐佐木四郎高綱ということになっている。高綱の父は源|義朝《よしとも》の猶子《ゆうし》(甥)佐佐木秀義で、源氏の血をひいているとしても、その後高綱は恩賞のうすいのを恨み、頭をそって高野山にはいり、了智《りようち》と名のったというだけで、それから乃木家にいたる血のリレーについては、確実な史料を欠いている。かりに、乃木将軍に源家の血が流れていることが確かだとしても、それを学習院の責任者としての肩書きにまでつかうにいたっては、今から半世紀以上も前のことではあるが、時代ばなれがしていて、少々非常識である。  しかし、乃木院長のほうは大まじめで、誇りをもってこの�源朝臣�を愛用したらしい。この心理は吉田茂の�臣茂�に相通じるものである。ハイカラ好みで、腕白ざかりの華族の御曹司たちが、だまってこれを見のがすはずがない。  すでに乃木将軍の学習院長就任のニュースが伝わるや、中学部五年の級長で田中某というのが、 「われらの院長は精神界の偉人からえらばるべきであって、軍人の古手が出しゃばるべきでない。われらを兵士なみにあつかわれてはたまらない」 という意味の論文を校友会雑誌に匿名《とくめい》で発表して、反対の気勢をあげ、不穏な空気が院内に流れていた。  [#小見出し]反対論者も心酔  明治四十年一月三十日、学習院の講堂には、全校の学生が着席して、新院長の出現を待ちうけた。  やがて、うしろのドアを開いて姿をあらわし、さっそく壇上の人となった老将軍を見ると、まばらなアゴヒゲ、きっと結んだ唇、威風さっそうたる古武士の風格をそなえながら、荒鷲を思わせるような鋭い目の底には、なんともいえぬ優しいうるみをただよわせている。かねてウワサの武《ぶ》ばった謹厳一方の武人とは思えず、むしろ閑寂枯淡な高僧とでもいったような感じを与えた。 「わたくしは一介の武弁であって、教育者ではない。いやしくも華族子弟の教育をつかさどる本校の指導者には、世間おのずからその人ありと考えられる。したがって、このたびの仕事を拝受するにも、かなりちゅうちょしたものであった。しかし、御諚《ごじよう》とあっては拝受のほかはない。兵士を訓練することと、諸子を教育することとは、もちろん、同一目的ではない。しかし、至誠をもって人に接する一事にいたっては、決してかわりはないと信ずるのである」  それから将軍は、校友会雑誌に出た乃木院長反対論に言及し、その趣旨には同感であるが、ただ名前を出していないことが残念である。その筆者は、きっとこの講堂内にいることと思う、といって一同を壇上から見わたした。  なみいる職員も、学生も、かたずをのんで、互いに顔をながめあった。 「わたくしはぜひ、その筆者と一夜膝をまじえて話す機会をえたい。さすれば、お互いに啓発さるるところも多々あるであろうと思う」  学生のなかには、その筆者が田中某であることを知っているものも大勢いた。かれらは期せずして、彼のほうへ目をむけた。彼はだまって涙を流していた。  その夜から、田中某は、将軍の熱烈な心酔者となった。  ——以上は、当時の将軍の教え子のひとりで、のちに教育者となった服部純雄《はつとりすみお》著『育英の父乃木将軍』から引用したものであるが、この書には近衛文麿が序文を書いている。  乃木将軍は、また、学習院で「訓示綱目」なるものを新しく制定した。これは学生の心がけねばならぬことを個条書きにしたもので、いわば�学習院の教育勅語�、�人つくり�の基準である。  この道徳要綱は、ほとんど乃木院長自身でつくったものらしく、実に細かいところまで神経をはたらかせている。ならべたてたたくさんな項目のなかには、どこの学校にもあてはまるものもあるが、乃木将軍独特のものも少なくない。  一、華族の子弟は、なるべく陸海軍人になれとのご沙汰は、今日でもお取り止めになっておらぬ。(これは近衛篤麿院長の外交重点主義にたいする反論といえよう)  一、家系を重んずべし。 (乃木将軍の封建的な家系重視と、華族のエリート意識とはここで一致点を見出している)  一、自分の家の先祖・家柄・紋所《もんどころ》は、よく聞いて忘れぬようにせよ。祖先の祭りは、必ず厳守せよ。 (これは前項の追加だが、庶民の子弟には通用しそうもないことだ)  一、男子は、男子らしくなくてはいかん。弁当の風呂敷でも、赤いのや、美しい模様のあるのを喜ぶようではだめだ。 (戦後、わたくしは学習院大学を訪れて、真っ赤なセーターやジャケツをきている男の学生が多いのに驚いたが、こんなのを乃木将軍が見たら、なんというだろう)  一、芝居めきたることは、学生に害あり。 (学生劇団などは、もってのほかということになる)  一、時計をもつなら、人に見えない内ポケットにしまっておけ。腕時計は学生に不必要なり。講義中に時計を見るは、失礼なり。 (いまの学校で、校長がこういう訓示をしたら、生徒はどっとふき出すだろうが、当時も、これには強い抵抗があったという)  一、目ばたき一つは、一つの隙《すき》、下腹部にうんと力を入れよ。  一、防寒のためにマントをつけ、襟を立つは見苦し。  一、口笛は、下賤のもののなす業《わざ》なり。  一、各国の国旗をもって、装飾となすは、よろしくない。  ざっと、こういった調子である。  この道徳綱領は、学生はもちろん、教職員でも守るのに骨が折れたにちがいない。乃木将軍とおよそ反対の人柄で知られている田中|光顕《こうけん》伯爵は、近衛篤麿の前の学習院長だったが、乃木将軍のあとにならなくてよかった、といったとか。  [#小見出し]軍服と毛布の日常  東京にうつってからの学習院校舎は、神田、麹町、四谷を経て、明治四十一年すなわち乃木将軍が院長に就任した年の翌年、目白に移転した。  四谷見附の外にあったときには、赤坂新坂町の将軍の家からそう遠くないので、たいてい馬でかよったが、目白では全寮制となり、将軍も学校で寝泊まりした。院長官舎もできていたのだが、将軍はこれを皇族の宿舎にあて、学生寮の会議室に、学生と同じ寝台をもちこんで自分の居室とした。これは「乃木館」という名で今も保存され、学生のコンパなどに用いられている。  寝台の上には、カーキ色の軍用毛布が四枚おいてあるだけで、夏も冬もこれで通し、フトンを用いなかった。手ぬぐいといっても、ただ白木綿をきったものをつかっていた。  寝台の下には「乃木希典」と大書した軍用|行李《こうり》(日露戦争にもっていったもの)一個、片隅の机の下に柳行李一個がおかれているだけで、これが将軍の持ちものの全部である。いざ鎌倉というとき、つまり、いつなんどき動員令が出ても、自宅へかえらず、即刻その場から出発できる用意が、ふだんからちゃんとととのっているわけだ。  夏冬を問わず、将軍の起床は、毎朝五時ときまっていた。起きるとすぐ軍服をきて、和服は絶対に用いなかった。これはドイツ留学時代に身につけた習慣で、服装にかんしては、完全にプロシャ的、非国粋的である。  まず、塩を手のひらにのせて、右手の人さし指で歯をみがき、水で顔を洗う。湯は、絶対に用いない。それから、寄宿舎の外側を巡視するのであるが、これは、雨の日も雪の日も、絶対にやすまない。  さらに、初夏から秋にかけては特別に注文してつくらせた長柄のカマをもって、目につくかぎりの雑草を刈ってまわることが、将軍の日課となっていた。そこで、まもなく将軍に�カマキリ�というアダ名がつけられた。ひょろ長い将軍の姿と、カマで草刈りをするのをひっかけたものだ。  目白の新校舎ができあがって、移転が完了した祝いに、明治天皇の行幸を仰いだ。その記念に将軍は、校内の一隅に土をもり、そのまわりに石をならべて�伊勢神宮遙拝壇�をつくらせた。これは、ただの石ではなく、日本の領土で、他国との境界になっているすべての場所からあつめたものである。戦前、満洲とソ連との国境に、同じような壇をもうけて、これに「南無妙法蓮華経」と書いた碑が建っているのを、各地で見たことをおぼえているが、これも将軍と同じような着想から出たものであろう。  目白時代、将軍は月に一、二度しか赤坂の私邸にかえらなかった。それには、院線電車(現在の国電、この時代は鉄道院)を利用したが、いつも、入り口のところに直立していた。なかにはいると、席をゆずられるのがいやだったからである。たまたま、同じ電車にのりあわせた軍人は、この将軍を見かけて、困ったらしい。  数多く出ている�乃木伝�のなかには、この話を引きあいに出して、 「ワシントンは、あまり重大でないことに我をはるのはバカらしい、多くの人のいう通りにしたほうがいい、といった。自分は、このワシントンの説をとりたい」 といったような批評をしているのもある。(人物社同人編『乃木大将伝』)  しかし、乃木大将の人格というのは、こういった�あまり重大でないこと�のつみかさねによって、できあがっているのだともいえる。  たとえば、学習院の初等科の生徒は、ほとんど付き添い人つきで通学していたが、その付き添い人のなかに袴《はかま》をはいていないのがいて、それが将軍の目にとまった。将軍はその付き添い人をつかっている生徒や主人の名を問い、厳誡《げんかい》を加えたという。とにかく礼儀はたいへんやかましかったらしい。  近衛文麿は、学習院で将軍の教えをうけて、一高にはいり、目白からお茶の水まで、院線を利用して通学していたので、ときどき電車のなかで将軍にぶつかった。そのたびに、近衛が和服をきているのを見て、 「一高には制服がないのか」 と注意された。しかし、なんど注意しても、近衛が改めないので、将軍のほうで、根まけしてサジを投げたという。  いつも軍服で通している将軍には、シーズンというものがなかった。いや、それを克服していた。それについて、学生がきくと、 「甲冑《かつちゆう》には、夏冬の別がない。むかしの日本武士に、寒暑はなかった」 と答えたという。こういう�人つくり�が、華族や富豪の子弟たちに、そのまますなおにうけとられるはずはない。まして生意気ざかりの年齢で、文学でも志そうという武者小路実篤、志賀直哉、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]などが、将軍に強く反発したのは、うなずけないこともない。   さみだれにものみな腐れはてやせん        ひなも都もかびの世のなか  これは将軍が自決した年の六月の作で、その絶望的な心境がよく出ている。  [#小見出し]位置は楠公に似たり  学習院における乃木式教育は、はたして成功であったか、それとも大失敗であったか。それについて、当時の代表的な歴史評論家|山路愛山《やまじあいざん》は、つぎのごとく論じている。 「或る人これを評して学校というは、社会という大きなる鍋の中に入れ子にしたる小さき鍋のようなるものなり。大きなる鍋の中の水がつめたければ、小さき鍋にいかほどの熱湯を入れたりとて、必ず冷却すべし。希典が学習院に立てこもりて、華族紳士の子弟に山鹿素行《やまがそこう》、吉田松陰の士道を吹きこむとも、その子弟の住む社会、その子弟の育つ家庭が日に日に驕奢《きようしや》、柔弱に流れ行かば、希典の尽力も、その大勢をめぐらしがたからんか。この点において希典の位置は、楠公に似たり。賊の猛勢に悩まされて、湊川《みなとがわ》の戦死をとげざれば幸いなりといいたりとぞ」  愛山は�或る人�というものを設定し、その口を借りて、乃木将軍のありかたを批評しているのであるが、おそらくこれは愛山自身の乃木評であろう。けっきょく、乃木の犠性的精神も、敗戦を覚悟の上で湊川の戦いにのぞんだ楠正成のばあいと同じように、結果においてはムダ死におわり、歴史の流れの方向をかえることはできなかったといいたかったのであろうが、それを彼自身のことばとしては、いえなかったのだ。  徳富蘇峰の『近世日本国民史』は、愛山のあつめた資料と、愛山の見識に負うところが多いといわれているが、愛山の歴史評論は、後年の唯物史観的史論の先駆をなすもので、前人未発の独創的見解が多い。愛山は、幕府の天文方|山路弥左衛門重任《やまじやざえもんしげとう》の子孫で、幕府の崩壊後、逆境に育ち、独学で史学を修め、独立独行、官学史家に対抗した人である。『豊太閤』『西郷隆盛』『足利尊氏』『現代金権史』『社会主義管見』などの著書があり、とくに歴史的人物の解剖はもっとも得意とするところであるが、乃木将軍となると、対象があまりにも生々しいだけに、影響するところ甚大なので、表現に手心のあとがうかがわれる。  愛山ばかりでなく、批評家も、新聞雑誌も、乃木将軍のあつかいには、よほど慎重な態度をとったらしい。というのは、前にものべたように、いちはやく『大阪毎日新聞』紙上で、谷本富博士が乃木将軍の人柄や、その死にたいしてシンラツな批判を下したことが、大きな波紋をまきおこし、本人の自宅やこれをのせた新聞社に、一日になん百通という脅迫的な投書がきたからである。『大阪時事新報』のごときも、乃木将軍の殉死にケチをつけたような論説をかかげたため、一時読者が激減したともいわれている。 『東京日日新聞』でも、そういう目にあうところをあやうく助かった。そのいきさつについて『日本及日本人』の十一月一日号は、すっぱぬいている。 「乃木大将殉死の際、『東京日日』にては、向軍治《むこうぐんじ》の大将を罵倒せる迷論をかかげんとしたるより、社員中、心あるものはしきりに反対したるに、羽田新《はねだしん》副主幹先生、前身がヤソ坊主だけに、余も乃木大将の死に反対なりとて大気焔にているところへ、大阪より谷本事件の電話がくると、初めの権幕に似ず、にわかにヘコタレたのはコッケイなれども、そのかわり世間の攻撃をまぬかれたは同社のため賀すべし」  この事件のあつかいに関しては、当時、各新聞社の内部でも、意見が対立し、てんやわんやの騒ぎを演じた様子が、これでよくわかる。  向軍治は、独逸協会学校出身で慶応義塾の先生になったが、東京高等商業(今の一橋大学の前身)出身の福田徳三とともに、変わりだねとして知られ、どっちも奇行が多く、なんでもいいたいことをズバズバといってのけた。  保守的傾向の強かった『日本及日本人』は、乃木将軍の死後、毎号のように、これを批判的にあつかった学者評論家や新聞雑誌をこっぴどくやっつけたが、なかでも�鷺城学人�の名で掲載された「卑しむべき谷本博士」は、もっとも手きびしいものであった。  それによると、谷本は高松の産で、はじめ医学を志したが、のちに教育学を専攻し、京都大学に迎えられ、古参の故をもって首席勅任教授となったが、学者としては怪しいもので、十年一日のごとくヘルベルトを祖述しているにすぎない。顔はノッペリとして男とも女ともつかず「一種の俗気と衒気の浮べる容貌のなかに谷本式人格」があらわれている。金銭に汚ないことが彼の特色で、郷里でも彼のことを谷本といわずに�ダニ本�といっている。彼はまた�梨庵�と号しているが、実は�利庵�だとあざけっている。これだけソロバンだかい男が、乃木事件では、つい筆がすべりすぎて、失脚したというわけだ。  筆者の�鷺城学人�というのは、明治大正の人物評論|家鵜崎鷺城《うざきろじよう》のことだが、当時の学者評論家にとって、乃木将軍の死が一種の�踏み絵�的な役割を果たしたのである。 [#改ページ] [#中見出し]日本の宗教「武士道」   ——新渡戸稲造の名著で初めて世界的名物になったブシドー——  [#小見出し]勇気づけた日露戦争  今でも中南米や中近東を旅行すると、あちこちで�親日一家�というのにぶっつかる。父の代、祖父の代から�親日�で通してきたというのである。その�親日�のいわれをきくと、ほとんど申し合わせたように、日露戦争とつながって、それまでその存在を知られていなかった小国日本が、陸軍では世界最強といわれたロシアを倒したという事実によって、世界の弱小国が、どれだけ勇気づけられたかわからないというわけだ。  三十年間にわたりドミニカを独占的に支配していたドミニカのトルヒーヨ一家が、その典型ともいうべきもので、先年私がこの国を訪れたとき、大統領の娘にハポネサ(日本娘)という洗礼名がつけられていた。そしてこういった�親日家�の頭に印象づけられているのは、ブシドー、サムライということばであり、固有名詞ではトーゴー、ノギである。これが軍国日本をささえる二本の柱のように考えられていた。そのうちの一人が、ハラキリというサムライ独特の方法で自殺したというのだから、かれらに与えたショックは大きかった。 「日本がその大帝にたいし奉りて挙行したる荘重なる御大葬は、乃木将軍の自殺をもって一層の悲しみを添えたり。これは吾人の意識外に出ずる風習にして、武士道の何物たるやを知らざれば、これを解すること能《あた》わず。武士道とは、日本帝国に存する名誉の観念をもって、孔子の哲学を変性せしめたる道徳主義なり。とくにここに記すべきは、日本の某新聞はこれをもって武士道にたいする最終の犠牲たらしめんことを提唱せり。吾人はかくのごとき希望の果してききとどけられるべきや否やを知らざれども、極東には自殺は或る場合において必要欠くべからざるもののごとく見なさる」=メモリアル・ディプロマチック紙(パリ)  この記事は外国紙としては比較的正しく日本の実体をついているといえよう。さらに当時ウラジオストックから出ていたダリョーカヤ・ウクライナ紙となると、もっと突っこんだ批判を下している。 「武士道とは、数世紀間において武士によりて創立せられたる倫理的、道徳的、教育的、且つ宗教的(祖先崇拝)の教旨を綜合してえたるものなり。(日本人として)最高の称讃を博すべきものは、実に�自己を有せざる人�即ち十分献身的なること、もしくは現在の自己を認識せざることなり」 �ブシドー�の概念を世界にうえつけたのは、むろん日露戦争であるが、当時はただ強いショックを与えただけで、東洋的な、神秘的な忠誠心としてしか理解されていなかった。日本海海戦で、ロシア艦隊全滅の詳報が伝えられたとき、イギリスのタイムス紙はつぎのごとく論じている。 「日本国民活動の根元たる武士道は、英国民をして一時自己の活動を停止して、傾首一考せしめ、現下英国民が従事しつつあるごとき、市場に安価を求めてその資本にたいしてもっとも高き平均収利をうるごとき商業上の活動よりも、さらに偉大なる理想(即ち、武士道のごとき)ありや否やを考慮せしむ」 ということになった。この英国人の�さらに偉大なる理想�とは、帝国主義的、軍事的侵略主義と翻訳できないこともない。その方向に英国がすすむ上に、日本の勝利が、強い刺激となったことは明らかである。しかし、日本の�ブシドー�の実体を正しく理解していたとはいえない。その理解を、英国ばかりでなく、全世界にいちだんと高めたのは新渡戸稲造《にとべいなぞう》の名著『武士道』である。  これは、明治日本の生んだ最大の国際人ともいうべき新渡戸博士が、ベルキーの学者ド・ラベレーの家に招かれて客となっていたとき、宗教から切りはなされている日本の学校で、何を基準にして�人つくり�がなされているのかときかれ、日本には古くからブシドーというものがあって、これが欧米のキリスト教にかわる役目を果たしていることを、欧米人にもよくわかるように書いたものである。これまでにも、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、アーネスト・サトー、チェンバレンなど、日本の美点もしくは欠点を欧米に紹介したものは少なくなかったが、かれらは弁護士または検事の立場でものをいっているのに反し、新渡戸博士は日本人として、抗告者の地位に立って発言していると序文でのべている。新渡戸夫人は、フィラデルフィアの名望家の娘で、教養も高かったから、おそらく本書は夫妻の合作であろう。  本書は明治三十二年に英文で書かれて、アメリカで出版され、のちに日本訳が出たのであるが、日露戦争で日本が奇跡的勝利を博するとともに、その秘密をとくカギとして、たちまち各国語に訳され、世界的名声を博した。ときのアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、本書を大量に買い入れて各方面にくばったという。  [#小見出し]自刃たたえた新渡戸稲造 『武士道』の著者新渡戸稲造は、乃木将軍の死に直面して、つぎのごとく論じている。 「武士道とは何ぞや。一の時代の一の国民が、必要にせまられておこれるある限られた範囲の道徳である。いいかえれば日本武士道はサムライの階級の強制である。サムライなる特殊の階級がこれを守らざれば、士たる面目を恥かしむるという即ちサムライなる階級によってよぎなくさるるところの行ないである。この狭い範囲の道徳であるところの武士道が、果たして今後何年継続されるか、またはこれが拡大して世界的道徳となりうるかどうかということは、また別の問題に属してくるが、少なくとも乃木大将の自刃は、この範囲の武士道から見ても、一点なんら間然するところなき、立派なる武士道的最後であると思う」  これによると、武士道というのは、ある時代、ある土地、ある階級に限られた道徳で、しかも外的強制によって保たれているものだということになる。  これに似たものをほかに求めるならば、カトリックの修道僧の生活規範、共産党員の�鉄の規律�などをあげることができよう。  問題はこのような道徳が、武士という特殊な階級制度が廃止されて、すでに半世紀もたった大正時代に、より強化されるべきものか、それとも他の新しい道徳にとってかわられるべきものかということにかかっている。これは現代の課題である�人つくり�にもつながる問題であるが、この点になると、新渡戸博士もはっきりした結論を出していない。 「乃木大将の自刃は、われわれ日本人から見て実にあっぱれなものであるが、一歩ふみ出してこれを世界的の問題として見たらどうであろう。無条件に賞讃すべきものであるか、また非難すべき行為であろうか。実をいえば、私には世界的道徳の標準がわからない。私はご承知の通り耶蘇《ヤソ》教を信じているが、この基督《キリスト》教の主義が世界的の標準になるとは思えない」  新渡戸博士のこの態度は、正直だともいえるし、ずるいとも見られる。博士は盛岡藩の勘定奉行の子で、内村鑑三《うちむらかんぞう》らとともに、札幌農学校の第二回卒業生である。アメリカのポプキンス大学に学び、のちに国際連盟書記局事務次長となったが、戦後の日本にもこのように国際性がゆたかで、教養の幅のひろい人物がいたら、国連あたりでも、日本の発言権がもっと高められているだろう。  日本の人物鉱脈をさぐって見て、興味のあることは、東京から北に向かうにつれて、国際性の高い人物が多く出ていることである。現に新渡戸博士を生んだ岩手県からは、後藤新平、田中館愛橘《たなかだてあいきつ》、杉村陽太郎など、軍人のなかでも米内光政《よないみつまさ》のような国際人が多く出ている。それに岩手県人には、新渡戸博士をはじめ、鈴木|東民《とうみん》、石上玄一郎《いそのかみげんいちろう》など、外国の女性と結婚しているものが案外多い。これに反して、本州の南端である山口県から九州にかけては、保守日本のリーダーを多く出している。  それはさておいて、新渡戸博士は、乃木問題についてはよほど気をつけて発言しているようだったが、『日本及日本人』(大正元年十月一日号)は、つぎのごとくヤジっている。 「木下広次《きのしたひろじ》に、あの男が武士道を書く柄《がら》かといわれた新渡戸が、帰朝早々乃木武士道論を唱えているのも、あんまり利巧すぎて、お人柄とはいえ、心底が見え透されるようで浅ましい」  木下広次は京都大学の初代総長で、熊本藩の儒者の子である。東北と九州の地域代表とも見られる両人物が、こういうかたちで争っているところに興味がある。  いずれにしても、乃木将軍の存在は、明治とともに武士道がほろびた、完全にほろびないまでも、権威を失ってしまったと思われていたときに、武士道の見本みたいな死にかたをしたので、内外に大きくクローズ・アップされ、論議の的になり、武士道ひとすじに生きぬいてきた彼の生活態度が、あらためて大きな話題となったのである。  日露戦争がはじまると、乃木家では、まず長男の勝典が出征し、たちまち戦死した。将軍も第三軍司令官として出征することになり、広島まで行って勝典戦死の知らせに接し、「カツスケセンシ、マンゾクノイタリ」という電報を夫人あてに打った。少しおくれて出征した次男の保典も、まもなく旅順の戦いに参加して戦死した。  将軍は出征にのぞみ、 「一家三人が戦争に出るのだから、たとえだれが先に死ぬにしても、葬式を一つ出しちゃいかん。棺桶《かんおけ》が三つそろうまで待て」 といいのこした。大東亜戦争でも、三人以上の出征者、あるいはふたり以上の戦死者を出した家は全国にたくさんあったが、はじめからこのように腹をきめて出ていったものが、職業軍人のなかにも、はたしていく人あったであろうか。  [#小見出し]徳川初期は殉死競争も  イタリアのセミ・ドキュメンタリー映画『世界残酷物語』が、記録破りの大当たりをとり、松竹映画『切腹』が予想外にうけたというので、東映でもオムニバス映画『武士道残酷物語』を製作し、このところ、日本の映画界は、�残酷物ブーム�を現出している。戦争映画や軍歌のリバイバルも、これにつながるもので、同じ心理的基盤の上に発生した現象だといえよう。  武士道と死は切りはなすことのできないものであるが、死のなかでも、 とくに�切腹�と呼ばれている自殺形式は、日本の特産物と見られている。また、すべての死を通じて、もっとも残酷なものは殉死であろう。  十七世紀のはじめ、九州の平戸にオランダ商館員としてやってきて、二十年間も日本で生活したフフンソア・カロンというフランス人が、『日本大王国志』という本を書き、そのなかで日本の殉死についてつぎのごとく語っている。  大名が死ぬと、その大名の大小、臣下の多少にしたがい、通例十人ないし三十人が切腹して、そのあとを追う。かれらは主君に愛せられ、特別の恩恵をこうむったことを徳とし、感謝の辞をのべたのち、「主君よ主君の信用したもう多数の臣下のなかで、この名誉を与えられたことにたいし、何をもって報うべきか、主君の有なるこの肉体をふたたびささげ、主君より長く生きざるべし」といい、これを実証するために、かれらは、あつまって一杯の酒をのむ。この飲酒はすこぶる厳粛の意味を有し、これによる契約は、破棄することのできないものである。  これにつづいて、カロンは、切腹の順序を紹介し、日本には切腹の様式が「五十種くらいあると確信する」と書いている。いまの日本人が読むと、おかしいと思う点も少なくないが、カロンは日本語に精通していただけに、当時の日本の実体を、比較的よくつかんでいる。  これは余談だが、一六二七年、オランダの台湾長官ヌイツが、バタビア総督の使節として日本を訪れ、江戸へ上ったとき、カロンはその通訳をつとめた関係で、ヌイツにともなわれて台湾に行った。有名な浜田弥兵衛《はまだやへえ》の一党が、台湾のゼーランジャ城をおそい、長官以下を監禁した事件は、ちょうどそのあとにおこったのであって、カロンも、そのとき監禁されたひとりだった、といわれている。  三上参次《みかみさんじ》博士の書いたものによると、日本ではじめて殉死禁止令が出たのは、垂仁《すいにん》天皇のときで、それまではさかんにおこなわれていたらしい。足利時代、細川|頼之《よりゆき》が死んだとき、侍臣の一人が殉死して、当時の記録に、�前代未聞のふるまい�としてほめられている。戦国時代には君の馬前で討ち死にすることが武士の本分とされていたが、天下太平となった慶長年代にはいって、ふたたび殉死がさかんになり、加藤清正が死んだときには、朝鮮人の捕虜までが殉死した。伊達《だて》政宗には、数十人の殉死者があったが、そのうちには殉死者の、また殉死者も出た。徳川家康は殉死がきらいで、その禁止に力をそそいだから、彼の死にさいしては、ゾウリ取りひとりが追腹を切っただけだった。  だが、徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光のためには、多くの殉死者が出た。普通の切腹では、満足できず、主人の病苦をわかつためという考えから、わざわざ苦しい死にかたをしたものさえあった。女性の殉死者も出た。  このように殉死がさかんになると、いろいろな弊害も、ともなっておこってきた。ついには、殉死競争にまでなった。しかも、殉死するものの多くは、その国、その家にとって大切な人物である。なかには、周囲に強制されて、あるいは子孫の利益をはかって、つまり、脅迫や打算に基づいて殉死するものも出た。こんなのを�商腹《あきないばら》�と呼んでいやしんだ。  これではいかんというので、池田光政、黒田如水、徳川光圀などが、殉死の防止に努力したため、ようやく下火になった。寛文三年、四代将軍家綱がきびしい禁令を出し、殉死者が出ると、その藩主は禄を削られて他へうつされ、殉死者の家は断絶するということになって、ついにこの風習はそのあとを断ったのである。  それが、封建制度がほろびて、半世紀もたったとき、乃木希典という世界的に知られた将軍によって、しかも夫妻ともに刃に伏するという世界史上にも類のない殉死がなされたのだから、劇的効果は満点であった。これによって、明治とともに失われたと思われていた古い美しい日本が、日本人の心のなかにまだ生きていることが立証されたと思う人もあれば、歴史は逆回転をはじめたと見る人もあったのだ。  [#小見出し]『葉隠』的な忠誠心  文学者の目に映った乃木将軍は、森※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外のように将軍と個人的に親しい関係にあった人をのぞいては、がいして将軍に冷淡であったが、そのころの文芸評論家金子|筑水《ちくすい》は、将軍の死をロマンチシズムの極致として讃美している。 「花は心なくして散るところに、深いあわれがある。将軍は、将軍としては、まさに死すべきときに死んだ。しかも将軍の逝《ゆ》くや、桜の花の散るがごとく美しかった。列国環視のまっただなかに、美しい最期をとげた。ロマンチシズムの光が、燦《さん》として輝いた」  この見方は、「武士道というは死ぬことと見つけたり」という『葉隠《はがくれ》』の精神と相通じるものがある。『葉隠』は、佐賀藩士山本|常朝《つねとも》が口述した武士道の書であるが、これまた一種のロマンチシズムの極致ともいえる。これによれば、臣下が主君を思う心は、恋の心と一致する。一生口に出すこともなく思い死にする�忍ぶ恋�こそ、もっとも深い恋の心であるが、君主にたいする臣下の没我的・献身的な忠誠心も、つきつめればそこまでいくものだ。  恋愛の極致は情死だといわれている。情死は思いあった男女が、この世ではその思いを達することができなくて、相抱いて死ぬのである。このばあい、男女は熱烈に愛しあっているのが普通であるが、武士道の説く忠誠心は一方的で、臣下の方にのみ強制され、しかも臣下はそれに甘んじ、それを誇りとしなければならぬ。その忠誠心の対象になっている主君が死ぬと、殉死という形で、臣下の生命をささげるというところまでゆかなければ徹底しないのである。  この忠誠心は、主君に仕えて俸禄にありついているときばかりではない。『葉隠』によると、臣下は「朝夕の拝礼、行住|坐臥《ざが》、殿さま殿さまと唱えねばならぬ」ばかりでなく、「浪人切腹仰せつけられても、一つのご奉公と存じ、山の奥よりも、土の下よりも、生々世々、お家を嘆き奉る心入れ」が必要である。いまの勤め人にあてはめていうと、会社をクビになったあとでも、寝てもさめても、会社や社長のことを案じていなければならぬというわけだ。「わが身を主君に奉り、すみやかに死にきって、幽霊になり、二六時中、主君の御事を嘆き、事をととのえて進上申し、御国家を堅むるところに目をつけねば、奉公人とはいわれぬ」ということになる。  権利は一方的に、国家や主君の側にのみある。臣下の方には義務だけあって、権利のカケラもない。しかしこれを不満に思ってはならぬのである。これが『葉隠』精神であり、武士道の神髄であった。 『葉隠』が書かれたのは、宝永七年から享保六年(一七一〇年—二一年)にかけてであるが、これは、徳川の封建制度が完成したというよりも、すでにガタがきはじめたので、これをしめなおすために、八代将軍吉宗の登場をうながし、�享保の改革�を必要とした時代である。この改革も、けっきょくは失敗に帰し、徳川政権を崩壊にみちびいたのだ。  こういう時代の道徳が、明治の開国や文明開化のアラシにあって、たちまち太陽の前の霜柱のように消え、世をあげて自由民権の時代となったのは、少しも不思議ではない。それよりも、この武士道精神が、乃木希典というひとつの人格のうちに、維新以後四十五年間も、完璧に近い形でのこされていたことの方を、むしろ奇跡というべきである。  この点からいって、乃木大将は明治日本の生んだ最大のロマンチストである。明治天皇がはたしてどの程度に乃木将軍を愛しておられたかわからないが、将軍のほうでは、純情一途に、『葉隠』的に天皇をしたいぬいて、その生命をささげたというのだから、それが�忍ぶ恋�であろうとなかろうと、また世間がなんと批評しようと、これこそまさに一大ロマンスということになる。 「北九州市」に編入された小倉市に、乃木将軍が連隊長時代に住んでいた家の跡がある。小倉城のすぐそばで、いまは警察署長の公舎になっているが、戦前ここに、梨本宮守正王《なしのもとのみやもりまさおう》の書で「乃木希典大将居住宅の址」という石碑がたっていた。それが終戦時の強制疎開さわぎで行くえ不明になってしまった。  戦後、これを再建すべきかどうかということが、小倉の文化人たちのあいだで議論の的となった。そのころ全日本を支配した�民主化�の風潮から、�軍国日本の遺物�ということで、あっさりと片づけられてしまいそうにもなったが、火野葦平《ひのあしへい》、劉寒吉《りゆうかんきち》など、『九州文学』の同人や、小倉郷土会の大隈《おおくま》岩雄などの熱心な主張が通り、多くのすぐれた漢詩や和歌をのこした乃木将軍を�文化人�と認め、軍人の肩書をけずって、「乃木希典居住宅の址」と書いた新しい碑をたてた。そういえば乃木将軍の生涯は、一種独特の文化人、類のないロマンチストとして再検討する必要がある。  [#小見出し]忠義心から愛国心へ  第二次大戦後に独立したアジアやアフリカの新興国の指導者、たとえばインドネシアのスカルノ、ガーナのエンクルマなどに会うと、申しあわせたように、自分たちも日本の明治維新に学ばねばならぬ点が多々あるという。事実、真剣に学ぼうとつとめているようであるが、それでいてこれらの国々の近代化——自治制の確立や産業の開発はなかなか進まない。その点からいうと、明治維新の目ざましい躍進は、たしかに世界史上の奇跡であった。それにしても、その奇跡はどうして生まれたか。  その理由はかんたんである。幕末、日本民族は先進国の軍事的圧力によって開国を強いられる前に、少なくとも徳川三百年間、比較的完備した封建制度をしいて、自分たちの手で自分たちの国を治めていた。つまり、独立国であった。これに反してアジア、アフリカの新興国は、タイ国その他少数の例外をのぞいては、ひとつのまとまった民族国家として、自分たちの手で自分たちの国を治めた経験を、ほとんどもちあわせていなかったのである。  かれらの愛国心、民族主義は明治維新前の尊皇攘夷思想に通じるものであるが、日本のばあいに比べて、民族的統一がなく、組織的な訓練も欠けていた。したがって、愛国心がじゅうぶんに培養されていなかった。もっとも、徳川時代の指導的階級であった武士のあいだにも、厳密な意味での愛国心があったわけではない。 「遠慮なくいえば、徳川時代の武士には愛国心はなかりしなり。かれらの心を照らし、かれらの歩を導きたるはただ忠義心ありしのみ」 と、『大隈伯|昔日譚《せきじつたん》』のなかで、大隈重信は告白している。この�忠義心�が、明治維新の革命で�愛国心�に変質、転化したのである。  封建時代の�国家�というのは、藩のことで、�忠義心�の対象となっていたのは主として藩主であった。前にのべた『葉隠』に示されている異常にまで高められた武士道精神も、鍋島藩の内部で、鍋島侯にたいしてのみ通用するものとされていたのである。藩と徳川の中央政府との関係は、今のアメリカの州と連邦政府とのつながりよりも、心理的にはずっと弱いもので、各藩内では、徳川家にたいする忠義心などというものを抱いているものは、ほとんどいなかったのだ。  そこで尊皇攘夷論者は、幕府打倒の運動を展開するとともに、藩および藩主への忠誠心のスイッチを切りかえて、日本国家および天皇への忠誠心の方向にむけたのである。その切りかえは、次元の、より高い方向にむけられたので、比較的スムースにおこなわれた。この変革にともなう犠牲が予想外に少なかったのも、そのためであろう。  この変革の指導者たちの精神的なよりどころも、藩から国家へ、藩主から天皇へと、その対象が切りかえられたことはいうまでもない。  だが、この変革の成功によって、特権的な地位にありついた指導者の国家への忠誠心が次第に失われて行った。少なくとも、不純なものが多く混入するようになった。この風潮に反発し、身をもってレジスタンスの範をたれたのが乃木将軍である。  維新の変革にぶつかった武士の総数は、かれこれ五、六十万と見られているが、乃木将軍くらい純粋に、しかもその最高度を持続したままで、藩主から天皇への忠誠心の切りかえをおこない、その高度を死にいたるまでもちつづけたものは、幾人もいないであろう。これは実に珍しい例だといわねばならぬ。  これは単なる�転向�ではない。戦時中に左から右へ、戦後はまたその逆の方向に再転向をして、どっちに行ってもその高度におとろえを見せていない例は、日本の学者や社会運動家といわれる人々のあいだに少なくない。しかし、乃木将軍においては、佐野|学《まなぶ》、鍋山貞親《なべやまさだちか》や、戦後の�進歩的文化人�のばあいとちがって、高度の忠誠心とともに、封建的純粋性を失うことなく死んで行ったのである。  こういう人物が、薩摩とともに、明治政府の特権的地位をほとんど独占した長州から出たということは注目に値する。由来、長州人には二つの型があって、山県有朋、井上|馨《かおる》、伊藤博文、桂太郎などから、田中義一、久原房之助などを経て、岸信介《きしのぶすけ》、佐藤栄作兄弟にまでつづく権力追求型と、吉田松陰、前原|一誠《いつせい》、乃木希典など、一連の権力放棄型がある。もっとも、権力放棄型の方も、その人生コースがもっと順調にすすめられていたならば、自分の方から権力を拒否するようなことはあるまいという見方もある。  それはさておいて、野坂参三、志賀義雄、宮本|顕治《けんじ》、神山茂夫など、今の日本共産党幹部に長州出身者が多いが、かれらの手に日本の政治権力が帰したばあい、はたしてどっちの型を示すであろうか。このなかに乃木型が、いるだろうか。  [#小見出し]純粋なキリスト教徒的な人格  封建時代においては�国�とは藩のことで、したがって忠孝を基礎とする道徳の最高目標は藩主で、その下に家長がいた。別に将軍家というものもあったけれど、これは間接的な存在で、大衆の生活や、そこから発生した意識を直接支配するにいたらなかった。  こうした封建制度がくずれて、そのあとに登場したのが天皇を主体とする新しい強力な中央集権制で、天皇への忠誠が、新しい、より次元の高い道徳の基準となった。この方向にむかって、純粋に、一直線に進んだ人物の典型が乃木大将である。  これとは別に、もうひとつ別な、より新しい、より次元の高い、生活や道徳の基準が出現した。それはキリスト教である。その前にも仏教や神道があって、相当の影響力をもっていたが、これらは将軍や藩主による人民統治の補助手段にすぎなかった。とくにキリスト教が禁止になってから、日本における宗教の自主性、自律性は失われたといっていい。そして、これをおさえていた権力がくずれ去るとともに、禁じられていた宗教が、新鮮にして強力な権威と魅力をもって再登場したのである。  一般には、これまでの家長—藩—幕府という権力の系列にかわって、家長—国家—天皇という系列が主流となったのであるが、傍流として、個人がキリストを媒体とし、唯一最高の権威と見なされる�神�につながる道が開けてきた。「宇宙の主宰者にして人類の父なる唯一の神」にたいする信仰は、日本国やその象徴である天皇への信仰よりも、さらに次元が高いということにもなる。  明治の新政府は、藩によって分割されていた民族の一元化、その精神的統一を実現するため、天皇への忠誠心を強化するとともに、西欧の先進国にならって、神道を国教化しようとはかったこともあるが、これは失敗に帰した。というのは、神道は本来多神教で、封建的・非近代的性格の強いものだからである。  キリスト教の�神�の概念に近いものを求めるならば、それは儒教の�天�とか�天帝�とかいうものであろう。しかし、こういった抽象概念は、日本では一部知識人のあいだに理解されただけで、大衆のあいだに浸透しなかった。  そこで、キリスト教が解禁になって、まっさきにこれに食いついたのは、ある程度の儒教的教養をつんだ武士階級出身の知識人である。それも主として、旧幕臣および薩長以外の小藩出身のものであった。  同志社大学をつくった新島襄は、上州安中藩の出身だが、文久二年に、 「シナ訳聖書|抜萃《ばつすい》を読むにおよび、はじめて�天父�なる語に接し、さらに一層|敬虔《けいけん》の念を強からしめたり。そは神はただに宇宙の創造者たるのみならず、われらの人類の敬事すべき�天父�たることを知りえたればなり。要するに、過去二十年間もうろうとして認識する能わざりし神にたいする観念の漸次明瞭となるにいたりたるは、大いにこれらの書籍に負うところありしなり」  当時、彼は数え年で二十歳であったが、このときの異常な感激は、大正末期から昭和初期にかけて、同年輩の日本人の多くがマルクス主義の信奉者となった場合とよく似ている。ここに�人類�ということばが出ていることは注目に値する。これは、封建時代の日本人の頭には、あまりなかった概念だ。さっそく、彼はこの新しい信念を行動にうつすことになった。 「一朝この思想の胸中に浮びきたるや、躊躇逡巡《ちゆうちよしゆんじゆん》久しく我家を去るに忍びざりし恋々の情は、まったく消滅し、ついには君公をかえりみず、わが家をあとにして、決然郷関を辞するにいたらしめたり」  かくして精神的革命をとげた新島は、函館に行き、口シア領事館づき司祭の日本語教師となってくらしているうちに、アメリカ汽船の船長づきボーイとして、アメリカに密航するチャンスをつかんだのである。  この時代の武家は、父祖伝来の禄を失って生活の基礎をなくしたばかりではなく、精神的にも空白状態にあった。そこへ西洋文化と抱き合わせで、キリスト教という新しい信仰がはいってきた。そのうけいれ態勢がすっかりできていたのだ。  仮に、乃木希典がもっと小藩の出身で、維新の変革に、長州藩の�勤王志士�たちにまじって、旧政権から新政権へ、エスカレーターにのせられたようなかたちで、集団的にのりうつるチャンスに恵まれなかったならば、彼もその人柄からいって、キリスト教徒になっていたかもしれない。そして、ひとたびこの道にはいった以上、この信仰にすべてをささげ、新島以上に熱烈で、純粋で、実践力もあるキリスト教的教育家のひとりになっていたろう。  [#小見出し]�聖将�にたとえた徳冨蘆花  乃木大将がたどった長州藩から明治政府=天皇へのコースは、明治初年のキリスト教徒たちが通った儒教からキリスト=神へのコースとは、まったく正反対のようにみえるが、ほんとうはそれほど隔たってはいないのである。少なくとも、両者が到達したところでは、かなり接近していた。  熊本市の郊外に、花岡《はなおか》山というのがある。今はその頂上に、インドでガンジーの弟子となって苦行をつづけてきたという日蓮宗の僧侶藤井|行勝《ぎようしよう》のたてた真白なパゴダ(仏舎利塔)がそびえ、そのふもとの安国寺には、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外の殉死小説『阿部一族』に登場する犠牲者を葬った墓がある。  明治九年一月、ここで有名な�花岡山バンド(盟約)�というものが結成された。幕末、熊本藩における文化的指導者として強い影響力をもっていた横井|小楠《しようなん》の甥が、アメリカ留学からかえってきて、時代おくれの排外熱を冷却させるため、ゼンスというアメリカ人を招いて、熊本洋学校を開かせた。ゼンスは、アメリカの南北戦争にも参加した砲兵大尉だったが、熱烈なキリスト教徒で、英語、数学から、物理学、地質学、天文学まで、ひとりで教えた。全生徒を寮に入れて、徹底した人格教育をおこなった。その感化をうけた約四十名の青年が、一日そろって花岡山にのぼり、寒風吹きすさぶなかで、讃美歌を斉唱し、長い祈りをささげたのち、「この教を皇国に布《し》き、大いに人民の蒙昧《もうまい》を啓《ひら》かん」という誓いをたてたのでいる。  この盟約に参加したのは、金森|通倫《つうりん》、宮川|経輝《つねてる》、浮田和民《うきたかずたみ》、徳富|猪《い》一郎、横井時雄など、のちに明治の精神指導者となった人々であるが、当時これを知ったかれらの父兄たちは大いに驚いて、かれらを勘当した。金森のごときは、裸にされて座敷牢に入れられたが、それでもフンドシのなかに『ヨハネ伝』をかくし、ひそかに読みつづけていた。これが発覚し、親類にあずけて監禁された。横井は、小楠の息子だが、母親は、彼が邪教に迷うたというので、自害しようとさえした。  これは、大正末期から昭和初期にかけて、名門の子弟の多くが左翼の運動に参加した場合を思わせる。両者のちがっている点は、こういった明治青年の大部分が、熱烈な愛国者、民族主義者で、インターナショナルの思想をほとんどもっていなかったことである。  この熊本洋学校の出身で、明治キリスト教界の長老となった小崎弘道《おざきひろみち》は、つぎのごとく語っている。 「真正の宗教を拡張し、三千五百万(明治初年の日本人口)の兄弟姉妹とともに、精神の安んずるところを得、社会の道徳を改良せんと欲す。けだしまたこれ、愛国の一事業たるに外ならざるなり」  かれらにとっては、信仰も�愛国の一事業�だったのだ。  また前にあげた新島襄が同志社をつくった動機も、 「余が今私立大学をおこす所以《ゆえん》のものは、一方よりいえばまた日本国を外人の手にわたさざらんがためのみ。即ち真に生命あり、活気あり、真理を愛し、自由を愛し、徳義を重んじ、主義を重んじ、わが日本国のためにその生命をなげうって働くところの政治家、実業家、文学者、宗教家等を養成し、以てわが日本の独立をますます堅固ならしめん」 というわけで、ミッション・スクールでありながら、宗教家養成をさいごにもってきているところを見のがしてはならない。つまり、この時代の日本人のほとんどすべての頭を共通に支配していたものは、民族の自主独立であった。その点で、宗教家も、軍人や政治家とかわりはなかった。同じ�愛国の一事業�でも、宗教家の方は、世俗的権力から遠ざかり、犠牲が多くて、物質的に報いられるところの、もっとも少ないコースを、自から選んだものといえよう。この点で、警世家としての乃木大将に通じるものがある。将軍がさいごに到達した境地も、「われ、もはや生くるに非ず、キリストわれにありて生くるなり」(ガラテヤ書二)という使徒ポーロの心境に似ているという見方も成り立つ。右のことばのなかの「キリスト」のところへ、「明治天皇」もしくは「日本国」を入れてもいいことになる。  これに反して、同じ�花岡山バンド�に属したものでも、のちに明治、大正、昭和の三代にわたり、言論界の巨人的指導者となった徳富猪一郎(蘇峰)は、まもなく宗教から完全にはなれ去ったばかりでなく、三代を通じて世俗的権力の最大の代弁者、最強の支柱となった。  そこへ行くと、猪一郎の弟の健次郎(蘆花《ろか》)と乃木のあいだには深いつながりがある。彼の訳した『ゴルドン将軍伝』の序文にも「将軍をして仮りにわが国に生まれしめば、台湾総督(乃木は明治二十九年台湾総督を拝命した)のほかにその人を求むべけんや」と書いて、乃木をイギリスの�聖将�ゴルドンに擬している。 [#改ページ] [#中見出し]もう一つの明治典型   ——将軍と同じ精神的土壌から生まれた左翼殉教の人・河上肇——  [#小見出し]新渡戸博士の「切腹」弁護論  前にもちょっとふれたが、同じ武士階級出身でいて、乃木将軍と精神構造が対照的にちがっているのは福沢諭吉である。 「もとより西洋の事物流行の時節、猫も杓子《しやくし》も西洋流に走る人情なれば、耶蘇《やそ》宗教の流行も、夏きる絞りの浴衣のごとく、時候定まる秋にいたらば、いずれにか方のつくことならんといえども、このせわしきこの世のなかに、学者士君子が大切なる手間をつぶして、これがために奔走するこそ気の毒なれ」 とヤジっている。そればかりではない。 「耶蘇宗教の蔓延《まんえん》は、後世子孫国権維持のために、大いなる障害というべし。今日の信者にして、その蔓延を助成するものは、自ら国権を殺減する人というべし」 といったような手きびしい非難を浴びせている。  そこで、当時、仏教の寺院でキリスト教征伐の演説会を開いたりする場合には、慶応の塾員が多く招かれて応援に出かけたものだという。といって、福沢はキリスト教をはじめ、宗教というものの価値をぜんぜん認めていなかったわけではない。 「近来、学者先生たちがいちがいに宗教を無用として、あまり軽蔑することの甚だしければ、いささか気の毒に存ずるなり。�ゴッド�なり、耶蘇なり、阿弥陀さまなり、不動さまなり、あにその功能なしというべけんや。夜盗流行すれば犬を養い、鼠バッコすれば猫を飼う今の世のなかに、宗教は不徳を防ぐための犬猫のごとし。一日も人間世界に欠くべかざるものなり」  このように福沢は、キリスト教の�ゴッド�も不動さまも同列におき、犬猫を飼うのと同じような�功能�を認めている。これは明らかに近代的で、西欧的な合理主義、実利主義の立場で、彼が日本的、封建的な考えからすっかり脱却していることを示すものだ。いうまでもなく、�第三階級�即ち新興ブルジョアジーの立場にたっているのである。  明治初年に早くも彼の頭がこういうふうにできあがったというのは、決して偶然ではない。彼は大阪の堂島の生まれ、父の死後、豊前中津にかえったが、青年期にまた大阪に出てきて、緒方洪庵《おがたこうあん》の門にはいり、そこで人間形成がなされたのだから、いわば大阪人であり、町人である。彼の前掛け精神、�福沢屋論吉�と名のったりした精神的構造の基盤はここにあるのだ。これに反して、もっと積極的に、完全に、西欧文化を吸収し、消化するにはどうしても、その根源となっているキリスト教を日本にとり入れる必要があるという立場から、キリスト教を弁護もしくは奨励したのが、西|周《あまね》、中村|敬宇《けいう》、津田|真道《しんどう》、森|有礼《ありのり》などの学者、政治家たちである。  ところが、明治も中期になって、憲法が発布され、信仰の自由が保証されてから、かえって封建的なものに根ざした民族主義のまきかえしがおこり、キリスト教徒は、�非国民�呼ばわりをうけた。こういった風潮と欧化主義のあいだに立って、緩衝地帯の役割りを演じたのが、『武士道』の著者新渡戸博士である。キリスト教徒でアメリカ人と結婚している彼は、西欧にたいして、古い日本の特別弁護人の役目を自ら買って出たのである。乃木将軍の殉死についても、当時の日本で、西欧文化をもっとも完全に近く身につけたものの立場から、これを内外にむかって弁護したのは彼である。  彼の『武士道』が出たのは、乃木夫妻の殉死に先だつこと十三年であるが、今読んでみると、まるでこれを予想して書かれたもののごとくである。  たとえば、シェークスピアの劇にも、 「汝シーザーの魂魄《こんぱく》あらわれ、わが剣を逆にして、正しくわが腹を刺さしむ」 という文句が出てくるが、このほかにも、西洋の文献にあらわれた切腹の例をいくつもあげ、ハラキリが何も日本特有の野蛮な風習ではないことを示し、自殺もしくは他殺の場合に、身体のこの部分をえらぶのは、霊魂や愛情がここに宿っているという古代の解剖学的信仰に基づくもので、この点は日本人もギリシャ人もかわりはないと書いている。それが日本では、中世紀にはいって、切腹が律法ならびに礼法の制度と化し、自殺のリファインメント(粋美)となったのだといって、これをたたえている。  さらに、乃木将軍の自刃後、キリスト教系の学者の多くが、キリスト教では自殺を罪悪と見なしているという原則論に基づいて、これを認めなかったのにたいしても、新渡戸はつぎのごとく反対説を唱えている。 「私は耶蘇教を信じているが、このキリスト教の主義が世界的の標準になるとは思えない。バイブルにその例はないが、ギリシャ、ローマ等には、よほど立派な人がたくさん自殺しているにもかかわらず、少しも非難したものがないようである。耶蘇教が自殺を攻撃するということは、よほど後のことで、中古欧州の暗黒時代におこった思想ではないかと思っている」 といった調子で、自殺そのものまで弁護している。  [#小見出し]武士道とキリスト教  乃木大将は、死ぬ三年ばかり前、新渡戸稲造博士の家をわざわざ訪問している。  博士の『武士道』の日本訳が出たのは明治四十一年だから、将軍はさっそく読んで、その著者に会って見たくなったのだろう。わかれぎわに博士はいった。 「愚妻はアメリカ人ですが、かねて閣下がふたりのお子さまをお失いになったことにすっかりご同情申しあげて、いつもおうわさいたしております。この機会に、何か記念のお歌でも書いて頂けるとありがたいんですが——」  将軍はしばらく黙然と考えこんでいたが、やがて、 「これは、つい四、五日前につくったもので、まだ誰にもご覧に入れていないのですが——」 といって、つぎの歌をしたためた。   語らじと思う心もさやかなる       月にはえこそかくさざりけれ  そのときの将軍の顔は、憂色にみち、どことなく暗い影がただようていた、と博士は書いている。こうした将軍の心境は、キリスト教でいう「自分一人と神との関係」で、キリスト教徒にもよく理解されるものらしく、その後、博士がまたアメリカにいって、アメリカ人にこの話をし、この歌の意味を説明すると、聴衆は静まりかえって、いずれも暗涙にむせんだという。  この前後に、将軍は馬にまたがって、東京郊外|粕谷《かすや》の里に住む徳冨蘆花をたずねている。これは将軍が蘆花の文学や思想に傾倒していたからではなく、むしろその逆である。学習院の学友会で、蘆花に講演をたのんだことを知り、乃木院長自らことわりに出かけたのだ。というのは、蘆花はトルストイの熱烈な心酔者だが、トルストイは徹底した平和主義者、絶対的な無抵抗主義者、無条件の愛他主義者で、当時学習院の学生にも多くのファンをもっていた。有島|武郎《たけお》、武者小路実篤、志賀直哉、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]など、のちに文壇に出て名をなした学習院系の作家たちが、同人雑誌『白樺』を出したのもそのころで、ロシア文学、とくにトルストイの影響が強かった。トルストイと乃木将軍とは、客観的に第三者の目で見ると、一脈通じるところがあるのであるが、陸軍大将であり、典型的な軍人である将軍は、トルストイの思想をうけいれることができなかった。学習院にそれがはいってきて、将軍の�人つくり�のビジョンがくつがえされることを恐れたのである。事実、相当くつがえされていたことは、将軍の死にさいして、『白樺』派の作者たちが示した反応を見ても明らかである。  明治のキリスト教は、前にものべた通り、封建的なものにたいする抵抗のよりどころとして、武家階級出身の知識人の行動をきびしく規定したのである。これをムード化したものが、�人道主義�と呼ばれたものだ。トルストイにあこがれても、トルストイのきびしさには耐えられず、学習院出の御曹司たちのあいだで、思想的・文学的アクセサリーとなって、そのエリート意識を満足させたにすぎない面が多かった。  これに反して、キリスト教を制度化されない前の純粋な形でとらえ、独自の境地をきりひらいて、明治の知識層に強い影響を与えたのが内村鑑三《うちむらかんぞう》である。彼は日本で�無教会キリスト教�という一派をひらいたというよりも、�神�と個人的に直接取り引きしようとする知的貴族の一団をつくったといった方がいい。その知的なきびしさにおいて、�武士道�というものを封建的なきびしさのままでとらえ、全生涯を通じて、これを実践しようとした乃木将軍と非常によく似ている。  内村は高崎藩士の子で、アメリカの大学に学んだが、いたって外国ぎらいで、典型的な武士道的キリスト教徒であり、第一高等中学校(旧一高の前身)の嘱託教員となったが、明治二十四年一月、有名な不敬事件をおこして教職を追われた。この事件の真相は、明治天皇のご真影に彼が敬礼しなかったというふうに伝えられているが、実は教育勅語の奉読がおわって、�御宸署《ごしんしよ》�(天皇の署名)に敬礼する段になり、内村の頭の下げかたが少し足りなかったというのである。それというのも、内村は日露戦争には、幸徳秋水や堺利彦《さかいとしひこ》らとともに、はっきりと反対の意思表示をしているし、つねに真理(宗教)は国家よりも大である、ということを口にして、周囲からにらまれていたからだ。  だが、彼の志は二つの�J�(Japan and Jesus 即ち日本とキリスト)に仕えることにあった。乃木将軍の場合は、日本国と明治天皇が絶対的奉仕の対象となっていたが、内村においては、明治天皇の座をキリストが占めていたともいえよう。  内村の墓碑には、つぎのごとく書かれている。   余は日本のため   日本は世界のため   世界はキリストのため   キリストは神のため也  乃木の精神生活が、封建的な武士道の外に出なかったのに反し、内村の次元はずっと高いが、両者の精神的骨格は実によく似ている。  内村の影響をうけたものは、戦後においても、南原繁《なんばらしげる》、矢内原忠雄《やないはらただお》の東大両学長をはじめ、昭和三十七年なくなった正宗白鳥《まさむねはくちょう》などにおよび、明治、大正、昭和を通じ、日本における知的貴族のひとつの山脈を形成してきた。  [#小見出し]内村の忠誠心の対象  乃木将軍が学習院の院長として、学生に与えた訓示綱目のなかに、  一、芝居めきたることは学生に害あり。 というのがある。今どき、こんな訓示を与える校長があるとしたら、全学生から排斥され、世間のものわらいになると思うが、内村鑑三も芝居や小説の類は大きらいで、日本の古典でも『源氏物語』を目の仇にしていた。こういう考えかたは、武士道的な禁欲思想、享楽的な男女関係を極端にいやしむべきものと見る古い習慣からきている。トルストイが、音楽は性欲を刺激するというので排撃したのと同じだ。こういう人たちに戦後若い世代のあいだにハンランしている音楽や風俗を見せたら、民族が、いや、人類が発狂したと思うかもしれない。 「国を愛する愛は、天国を愛する愛のために犠牲にせらるべきである」といって、キリスト教的国際主義、人類愛の方向にふみこんだのは内村であるが、乃木はそこまで行かなかった。「天下は一人の天下なり」という吉田松陰の思想を忠実に守りつづけ、その�一人�と信じこんでいた明治天皇にすべてをささげたのである。  しかし、内村にしても�国�をはなれて�天国�があったわけではない。次元からいうと、�国�よりも�天国�のほうがたしかに上であるが、重点はむしろ�国�におかれていた。 「�わが国を欧米のごとくになさんこと�が、余の人生の最高目的であり、この計画を実行する大原動力と考えたが故に、余は�キリスト教�を歓迎したのである」 といっているが、この考えかたは、内村から南原繁にまでうけつがれている。そして�愛国心�ということにかけては、乃木も内村も南原も、ほとんどかわりはない。ただし、忠誠心の対象が、乃木の場合には�天皇�というひとつの人格にあったけれど、内村や南原においては、日本国とか、日本民族とかに重点がおかれている。内村に�不敬事件�がおこったりする可能性がそこから生まれてくるわけだ。南原が終戦後、天皇退位説を唱えたと伝えられるのも、同じような精神的基盤から発したものと見られないこともない。  いずれにしても、キリスト教的な国際主義は、愛国心や民族主義とはそれほど矛盾するものではない。少なくとも両者は両立し、協調して行く可能性がある。現に戦争でもおこると、キリスト教も神道や仏教といっしょになって自国の戦勝を熱心に、あるいは平気で祈ることができる。  ところが、社会主義、とくにマルクス主義に基づく共産主義となると、そうはいかない。カトリックも独自の国際組織の上に立っているけれど、それは民族主義にむかって直接挑戦するようなことはない。しかし、共産主義はもっときびしい国際性をそなえていて、民族主義のワクをこえるという使命感の上にたっている。日本の共産主義者のなかで、青年時代からそういった組織のなかで訓練をうけてきた人は別として、中年からその組織のなかにはいり、さいごまで�転向�即ち改宗することなく、文字通りにその思想に殉じた人、少なくともそのなかのひとりで、その典型とも見られるのは河上|肇《はじめ》である。その点で、乃木と精神構造が似ている。  河上は山口県岩国、乃木と同じく、毛利家の支藩の出身である。ただし明治十二年生まれだから、乃木に比べて三十も年下で、むろん維新前の日本を知らない。明治三十五年に東大を出て、ほんのわずかな期間ではあるが、学習院の先生をしている。乃木が院長になる前のことだ。  それよりも、われわれにとって興味があるのは、この共産主義の殉教者と見られている河上が、若いころには、乃木と同じように、同郷の精神的指導者吉田松陰の熱烈な崇拝者であったということである。  明治四十四年、彼が三十二歳のときに出した『経済と人生』という著書には、「国体と政体」、「日本独特の国家主義」というふたつの論文が出ているが、「日本は神国なり、国は即ち神なりということ、これ日本人一般の信仰なり」と説き、さらに天皇についても、つぎのごとくのべている。 「天皇はこの神たる国体を代表したもうところのものにて、いわば抽象的な国家神を具体的にしたるものが、わが国の天皇なり。故に日本人の信仰よりすれば、皇位は即ち神位なり、天皇は即ち神人なり。これ帝国憲法に天皇は神聖にして犯すべからずと明記しある所以にして、この一条の明文は即ち日本国民の信仰箇条中、もっとも重要なるものなり」  少年時代の乃木は、学者志望だったというが、もう三十年おそく生まれて、東大にでも学んでいたとしたら、乃木もこういう著書を出していたかもしれない。  [#小見出し]劣らぬ河上の純粋性  片山|潜《せん》、安部磯雄《あべいそお》、木下|尚江《なおえ》、石川|三四郎《さんしろう》など、日本の古い社会主義者には、キリスト教出身が圧倒的に多い。  こういう人たちは、晩年の片山のように、ソ連の�国賓�といったような形で、特殊な環境におかれたものは別として、精神主義傾向が強く、唯物論的、マルクス主義的共産主義者にはならなかった。片山にしても、死ぬ前には郷愁に耐えられなくて、日本にかえるべく、八方手をつくしたが、ついにその望みを達することができなかった。無事に日本にかえっていたら、その後の思想的コースは、安部と密着しないまでも、ふたりの思想的距離がうんとちぢめられていたであろうということは、ふたりの人となりをよく知っているものの常識的推定である。  明治以後の職業軍人のなかで、陸海空軍を通じて、国家ならびに天皇への忠誠心の強さと純粋さにおいて、犠性的精神のはげしさにおいて、第一人者といえないまでも、ベスト・テン、いや、ベスト・スリーのなかにはいるのは乃木将軍であることは、万人の認めるところである。同様のことが、ひろい意味での社会主義陣営内での河上肇についてもいえるのではなかろうか。社会主義、無政府主義、共産主義の理論の理解の深さ、正しさにおいて、河上以上の人物はいくらもいると思うが、イデオロギーヘの忠誠心の強さと純粋さにおいて、河上の上に出るものは、そう幾人もいないのではなかろうか。少なくとも私の知っている限りでは、そういった人物はいくらもいない。  河上はキリスト教出身ではない。どこかの教会で洗礼をうけたということはない。ここまでは、やはり長州藩出身らしく、乃木将軍に似ている。しかし、それから先がちがう。二十代で、早くも社会主義に似た思想をいだき、しかもそれを徹底的に実行にうつそうとしている。  河上が、はじめて社会主義というものにたいする強い関心を示したのは、明治三十八年の『読売新聞』に、�千山万水楼主人�という筆名で三十六回にわたって連載された『社会主義評論』においてである。これは洋行がえりの一大学教授が房州で病を養いながら書いているという形になっていて、当時、読者の多くはこれを事実としてうけとったらしい。その流暢な文章、ひろい知識、鋭い論法からいっても、まさか大学を出てまもない無名の青年が書いたとは思わなかった。しかし、結果においては、これによって、彼が一躍天下にその存在を認められたばかりでなく、日本社会主義史上に逸することのできない歴史的な文献となったのである。  彼のこういった才能をいちはやく認め、その舞台を与えたのは、当時の読売新聞社長兼主幹|足立荒仁《あだちあらひと》(|北※[#「區+鳥」、unicode9dd7]《ほくおう》と号す)である。足立は、河上と同じ山口県岩国の出身で、広島師範を出て、上京して苦学、『読売新聞』にはいって、ロシア、ベルギーに留学、帰国後、前記の地位についたが、明治四十五年退社、郷里にかえって農園をいとなみ、終戦直後、八十一歳でなくなったという新聞界の変わりダネである。のちに河上が出した『時勢之変』と題する著書の「はしがき」で足立は『社会主義評論』に言及して、つぎのごとくのべている。 「世を忍ぶ学士が覆面のいたずら書きにして、その文体をごまかさんため、僕これに加筆す。否、加筆せりというよりも、むしろ学士の文章の著しき特色と思わるる箇所を改|竄《ざん》したり」  これで見ると、『社会主義評論』は、ふたりの合作ともいうべきもので、この手はもうはやらなくなったけれど、むかしはよくつかったものだ。  さて、『社会主義評論』の内容だが、これは手紙の形式をとりながら、幸徳秋水、安部磯雄、堺利彦、本下尚江、片山潜など、そのころ社会主義者として知られていたものをはじめ、桑田|熊蔵《くまぞう》、金井|延《のぶる》、戸水寛人《とみずひろんど》などと、日本社会政策学会を結成し、社会政策によって社会が改良できると主張していたものから、精神主義的傾向の強い内村鑑三、『新社会』という著書を出して、このままでゆくと階級闘争は必至だと説いた矢野|龍渓《りゆうけい》などの思想や立場を片っぱしから批判したあと、 「社会主義が果して実行されうべきや否や、ことに社会主義者の主張せる手段によりて実現さるべき否や、まず今日の人性を一変することなくして社会主義に到達しうべきか、はた人性は社会主義の到来を待って一変さるべきものたるや否やがこれ問題なり、大問題なり」 ということになっている。したがって、これは社会主義を説いたというよりは、社会主義にたいする数々の疑問を提出したもので、この疑問をひっさげて、河上は社会主義=共産主義への長い巡礼の旅に出たのである。  [#小見出し]�無我の愛�に傾倒 �千山万水楼主人�の名で『読売新聞』に連載されていた『社会主義評論』は、三十六回めになって、突如、「擱筆《かくひつ》の辞」をかかげるとともに、筆者は�法学士河上肇�であることを名のって出た。このころは�学士�という肩書が、今の�博士�以上の稀少価値があった。  筆を折った理由は何か。�絶対最高の真理�をつかんだので、こんなものを書きつづける気持ちも、またその必要もなくなったというのだ。では、その�絶対最高の真理�とは何か。ひとくちにいって�無我の愛�である。�無我の愛�とは何か。「自己の運命はまったく他の愛にまかせ、同時に全力をささげて他を愛する主義」である。 「人もし汝の右の頬をうたば、左をもむけよ。なんじを訴えて下衣をとらんとするものには、上衣をもとらせよ」というのは、キリストの教えのエッセンスで、トルストイも『わが宗教』のなかでこの点を強調しているのであるが、河上はこれに心をひかれていたところ、たまたま伊藤|証信《しようしん》の出している『無我の愛』と題する雑誌(といっても一枚の新聞紙を折りたたんだ程度の片々たるもの)を読んで、「現代の日本人のなかにトルストイと同じような方向に進みつつある生きた人間のあることを知り、ほとんど決定的といってもよいほどの影響をうけた」のである。そこで彼は、すべてをなげうって、自らもこの�真理�の実践にのり出すことになった。 「余は昨日辞職願をしたためて、農科大学、学習院以下余の関係せし五校に提出せり。学校あるいは余が無責任を恨まんも、余ははるかに大なる事業に走らざるべからざるを如何せんや。故郷の父母あるいはこの文を見て驚かん、産前の妻またもとより大いに驚かん、諸弟驚かん、親戚驚かん、先輩朋友みな驚かん、また天下の読者余が狂を怪しまん。驚くも可なり、悲しむも可なり、余は少しばかりの驚きと悲しみとを与えたるかわりに、遠からず、そのとらえたる真理を伝えて、すべての人に絶対の幸福と平安を得せしめん」 というわけで、このときの河上の心境は、殉死を決意したときの乃木将軍の心境を思わせるものがある。常識人から見れば、頭が少々狂ったともいえるし、皮肉な見方をするものには、お芝居じみて、ジェスチュアが大きすぎて、大向こうをねらったスタンド・プレーだということにもなる。しかし、ご本人はいずれも真剣そのものなのだ。  それはさておいて、明治三十八年十二月四日、河上は東京郊外(当時)巣鴨の大日堂に伊藤証信を訪れて、その教えを乞うた。大日堂は、杉林のなかの小さなお堂だった。堂中には火の気がなく、石の大日如来像が一体安置されているだけで、いかにも寒々とした感じだった。そこで証信から、「伝道こそ最大の愛」だと教えられたのであるが、さて、何から手をつけていいか、わからなかった。 「いやしくも�全力をささげて他を愛する�という以上、自分のからだを休ませるため、夜分寝るというようなことすら、その主張に合致しない行為だと思うほど、物事をつきつめて考えた」 「飲食すら�罪を犯す�ことなしにはできないものだ」ということになった。 「今夜は寝ず休まずしてこの真理を伝え、使用に耐えうる限りにおいて、この五尺の痩躯を使用しつくし、死して後やまんのみと覚悟したり。しかして余がもっとも奇異なる体験を経たりしは、実にこの決意をなせし当夜なり」  その�奇異なる体験�とは何か。 「須臾《すゆ》にして、余は霊薬をもって余が眼瞼を洗われたるごとく感じたるが、眼界にわかに開けて、急に視力の倍加したるに驚きたり。このとき余が心神は万里雲晴れて月天心にいたるというべきか、いな到底筆墨にいいあらわすべからざる無上の軽快を覚えたり」  さらに彼は、このときの心理状態を微に入り、細にわたってのべているが、新興宗教の教祖が�神ががり�におちいった場合とまったく同じである。 「大死一番す、しかして始めて宇宙の本性を見る。すでに宇宙の本性を見る、余はいかにするも、現在の自己の偉大を感ぜざるをえず」  ここに新しいひとりの教祖が誕生したことになる。  このときの彼の姿は、 「余は涙を流して苦悶せり。両腕を畳の上にねじつけ、頭をつかむに両掌をもってし、なおしきりに苦悶せり。両肋の骨のしきりに動きて、胸のはりさくるが如きを覚えたり」  しかし、彼の心中では「乾坤《けんこん》はるかに脚下に見えて、宇宙の精気はこんこんとして水の流るるが如く余が脳裏に入るを覚えつつありき」  当時は彼のほかにも、�大恩教主�と称する志知《しち》喜友、�見神の実験�をしたという綱島梁川《つなじまりようせん》、自ら�メシア�(救世主)と名のる宮崎虎之助など、インテリ教祖たちが幾人も出たのである。  [#小見出し]神秘的な河上の行動  河上肇が、このような異常な行動に出たのは、これがはじめてではなかった。  明治三十四年の末、彼がまだ大学生のときだった。本郷の中央会堂で開かれた「婦人鉱毒救済会」の演説会をききに行った。これは足尾銅山の鉱毒のため、渡良瀬《わたらせ》川一帯の農民が、サンタンたる目にあっているのを見るに見かねた田中正造が、政府その他にその救済を訴えたけれど、ききいれられず、ついに明治天皇に直訴するにいたった直前のことで、キリスト教婦人矯風会の人たちが、実地調査に出かけて行って、その報告演説会を兼ねて、救済にのり出したのである。  そこでは矯風会の矢島|揖子《かじこ》、潮田千勢子《うしおだちせこ》の両女史をはじめ、田中正造、木下尚江、島田三郎などが、こもごも立って熱弁をふるった。これをきいた聴衆が、いかに感激にわきたったかは、その夜、足尾銅山の持ち主である古河市兵衛の夫人が、神田川に身投げをしたことによっても想像できる。前々から夫人は、この事件を苦にやんで、ノイローゼにかかっていたのだが、この演説会をききに侍女をつかわし、その報告をきいて、異常なショックをうけた結果である。  弁士はいずれも雄弁家がそろっていたが、なかでも田村|直臣《なおおみ》という牧師は、義援金募集の演説にかけては天才だといわれている人だった。彼の演説がはじまると、聴衆の感激と興奮は絶頂にたっし、それがおわると同時に、竹のカゴをまわして義援金があつめられた。  いっしょに出かけて、隣の席にいた河上の友人は、財布の底をはたいて入れたが、河上は持ちあわせがなかったので、不本意ながらカゴを見すごした。そのかわり、演説会がおわって外へ出ると、きていた二重《にじゆう》外套《まわし》と羽織とエリマキをとって、係りの婦人に差し出した。  そればかりではない。そのあくるあさ、河上は身につけている以外の衣類を、のこらずひとまとめにして行李におさめ、人力車夫にたのんで、無署名の手紙とともに、救済会の事務所に送りとどけた。  事務所のほうで驚いたことはいうまでもない。この男は多分精神に異常があるのかもしれぬから、このままもらっておくわけにゆかぬということになった。とどけられた洋服のポケットを調べると、つぎのような名刺が出てきた。   本郷区駒込千駄木町富士見館   河上 肇  そこで、さっそく潮田女史が人力車をとばして、富士見館という下宿をたずねた。名刺の本人は不在だったが、下宿のおかみさんにきくと、非常に激昂するたちの人だが、別段異常があるわけでもないという返事だったので、寄贈の品々を納めることになった。  この事件は、当時の『毎日新聞』(明治三十四年十一月二十三日付)に『特志の大学生』と題して掲載された。木下尚江も、これには強い感銘をうけたらしく、後日、これについてつぎのごとく書いている。 「田中正造翁の身をすてた�直訴�という背後には、こうした光明があったのです」  これを読んだ河上も、 「気ちがいじみた私の行動を、木下翁は�光明�といって下さっている。ありがたいことだ」 と感謝している。この話はたいへん美しく、講談や浪花節に出てくる乃木大将の�美談�を思わせるものがある。見方によってはそれ以上だ。乃木大将といえども、かつての部下の遺族が困っているのを見て、身ぐるみはいでまで与えるようなことはしなかったろう。将来、日本が社会主義または共産主義の世のなかになったばあいには、河上のこの�美談�が教科書に出たり、講談や浪花節になるかもしれない。  その一方で、マルクス主義者となった河上は、足尾鉱毒事件をつぎのように解釈している。 「今になって考えると、田中翁がほとんどその一生をささげられた足尾鉱毒問題なるものは、日本における資本の原始蓄積にともなう避くべからざる一つの悲劇に外ならなかったのである。マルクスがその『資本論』で、この上もなく鮮やかに描き出しているように、資本というものは実に�頭から足の爪先まで、すべての毛孔から、血と汚物をたらしつつこの世に生まれてきたものである�」  これで見てもわかるように、河上のものの考えかたや行動は、いつも極端から極端へ飛躍する。精神に�異常�はないとしても、エキセントリックである。社会科学的ではなくて宗数的であり、神秘的でさえある。彼の進んだ道は、あまりにもジグザグでありすぎる。その点で同じコースを同じ方向に、生涯歩みつづけた乃木大将と対照的にちがっている。  [#小見出し]�商業は睡眠のごとし�  河上肇が、いかにジグザグな思想的コースをたどったかということを示すもう一つの例をあげることにしよう。  彼は二十四歳で大学を卒業し、その翌年、農科大学実科講師の職にありついて、当時の農学界の権威、横井|時敬《ときよし》博士の指導をうけた。そのときに書いたのが『日本尊農論』である。これは『虚遊軒《きよゆうけん》(横井博士のこと)文庫』の第二集として『社会主義評論』の前に刊行されたものである。 「農は本なり、商は末なり、極言すれば、農は真個の生産業なり、商は実に不生産の事業なり。国民の経済はよろしく商業の制限をもってその理想となすべきなり」  このへんは、古くからある農本主義と大してかわりはないのだが、それから先の論理の発展が河上的である。彼の説にしたがえば、商業は人体の機能にたとえていうと、睡眠のようなものである。 「睡眠は心体休養の手段にして目的にあらざるなり。故に睡眠は吾人にもっとも必要なれども、できうる限りこれを減少するをもって理想とす。人生わずかに百年に満ちがたし、その一半を割いて睡眠の用に供せざるべからざるは、吾人の平生切に遺憾とするところなり」 といった調子で、商品が商人の手から手へわたってゆくうちに、だんだんと値段は高くなるのだから、「よろしく商人の排斥をもって理想とすべし」ということになる。商業を睡眠にたとえるのは奇抜だが、「無我の愛」のばあい同様、ここでも彼は睡眠というものに、ひどくこだわっている。  さらに、この立場をおしすすめてゆくと、海外貿易も制限すべきだということになる。 「かれらはただ海外の輸出のみに熱中して、他をかえりみるにいとまあらざるなり、かれらはその同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、かえって異邦における異人種を顧客として尊重せり」「かれらは内に貪《むさぼ》りて他にもらさんとするものなり。内に争いて外に媚《こ》びんと欲するものなり」 �消費者は王さま�とか、�流通革命�とかいうことばが、新しい流行語となっている現在の日本にあって、こういう文章を読むと、いささか異様な感じがする。  それどころではない。 「農業は強兵の源泉であり、農業保全は戦勝の要素なり」 「不幸にして国家の基礎を商業におかんか、百千の軍艦、千万の兵士も、ただ恐喝の具たるのほか、ついにまったく用をなすなきにいたる。読者試みに外交史をひもとけ、商業国の政策が恋々として平和を希うの情を見るに足らん」  結論として、「国民は蛮力保存を忘るることなかれ」となっている。むろん、この�蛮力�とは戦力のことで、その源泉は農業にありということだ。  ここにいたると、河上の考えかたは、乃木大将のばあいとまったく一致する。ちがうところは、河上はこれを書いて半年もたたないうちに、『社会主義評論』を書き、その途中ですべてをなげうって「無我の愛」にとびこみ、そこからまたすぐとび出して、ついにマルクス主義にまでたどりついたのに反し、乃木は、はじめの立場をかたくなに守って、まっすぐに歩みつづけたことである。さらに、乃木は、日清戦争後、退役になると、さっそく那須野に土地を求めて、自ら百姓の生活にはいった。  河上にしても、後年、共産党に入党して地下運動にはいり、捕えられて五年の刑を宣告され、服罪して出てきたときは、すっかり年をとり、体力もおとろえていたが、もう少し若くて、周囲の事情が許したならば、彼も郷里にかえって、土の生活にはいっていたかもしれない。  さらによく考えると、河上の�尊農論�にしても、単なる戦争讃美ではなく、勤労階級の生活を守ろうとする意欲が出ている。これは日本に古くからある思想で、そのなかには社会主義の芽がある、というよりも、これは封建時代の社会主義思想というべきものである。明治以前に、もっとも体系的な形でこれを説いたのが、佐藤|信淵《のぶひろ》の『農政本論』で、河上もその影響を多分にうけていることは、のちに彼が『幕末の社会主義者佐藤信淵』という論文を書いているのを見てもわかる。しかし、この思想は、共産主義よりはファッシズムにつながるものだ。 「五・一五事件」「二・二六事件」の背景となり、理論的支柱となった橘《たちばな》孝三郎、井上|日召《につしよう》、権藤|成卿《せいきよう》などの思想も、やはりこれと同じ系列に属している。乃木大将にしても、育った環境と、そこから生まれた明治天皇への絶対的忠誠心をとりのぞいたとすれば、これに近い思想の持ち主だったということになりそうである。  [#小見出し]乃木イズムの再登場  これまでは乃木将軍自身よりも、彼の生きかた、考えかた、死にかたにたいする社会的反応から、彼とどこかで相通じるところのある人物にいたるまで、比較論評してきたのであるが、その目的は乃木個人よりは、日本人の精神構成を再検討することにあった。  明治以後、日本人は各種の外来思想にぶつかったが、そのなかでもっとも異質的で、もっとも強力だと思われるのは、キリスト教とマルクス主義である。これを日本人的にとことんまでつきとめて身につけ、日本人的に実践した人物、そのピークと見られるのは、わたくしの見るところでは、内村鑑三と河上肇である。このふたりについて比較的くわしく書いたのはそのためだ。  内村も河上も、武士階級出身である。かれらの心の底に流れているものは、強いエリート意識と知的精神で、これはかれらの父祖の武士道的訓練につながるものである。それがあったればこそ、キリスト教やマルクス主義の理解と実践がきわめて高い水準まで達したのであって、それがなければ、普通のキリスト教徒、ただのマルクス・ファンにおわったであろう。この点は、日本の近代化、�一等国�への飛躍的な発展が、アジア・アフリカの新興国とちがって、徳川三百年の封建制度の基盤の上に、驚異的な形でなされたのとよく似ている。  乃木将軍というと、完全に明治的な人格で、明治とともにほろび去った、あるいはほろび去るべきものと考えられていた。いまもそう考えている人が多い。それはまちがいで、乃木的なものは、実は明治以前のもので、明治にもちこされ、明治の�文明開化�の風潮のなかで、すでに一部では冷笑の対象にされながらも、保存されてきたのである。  これはどの程度にまで大正時代にうけつがれたか。第一次大戦でほとんど戦わずして戦勝国となって大小無数の�成り金�を生んだ大正日本、デモクラシー、マルクス主義、無政府主義からダダイズムにいたるまで、ありとあらゆる外来思想が洪水のように流れこんできた大正日本、さいごは国をあげてエロ・グロ・ナンセンスの波におぼれていたようにみえた大正日本、そのなかでも乃木イズムがどこかで生きていたのである。  それが満州事変、「五・一五事件」「二・二六事件」などにともなう�非常時�意識とともにふたたび芽をふき出して、ついには�特攻隊�にまで発展したのである。いうまでもなく�特攻隊�は祖国にたいする徹底した自己犠牲、明らかに殉死である。刀のかわりに飛行機をつかって切腹するようなものだ。 �特攻隊�への参加は、いちおう自発的ということになっているが、事実は強制である。自発的という形をとらざるをえないように、内面的にしむけられた強制である。武士の切腹もこれと同じで�名誉ある処刑�だ。『武士道』の著者新渡戸稲造も、武士道は強制だとはっきりいっている。単なる外的強制ではなく、これを�名誉�と心得る心理的訓練が、ふだんからつみかさねられてきているのだ。封建時代は、こういった社会的・階級的圧力が極度に強化されている時代のことである。  近代化された社会においても、強大な圧力が組織的・計画的に加えられることがありうる。それは戦争がおこった場合だ。戦争というものは、近代社会をも封建時代に逆転させるものだ。戦争がはじまらなくても、準戦時状態もしくは戦争の危機がせまっているというだけで、社会的な圧力が急激に加えられる。これを逆にいえば、封建時代というのは、戦時的、もしくは準戦時的緊張が定着し、半永久化された状態にある時代のことである。  武士道というのは、こういう時代の支配階級の道徳、すなわち戦争担当者の道徳である。それはひとくちにいって、�死ぬか殺すか�ということ、いつでも死を意識している道徳である。この道徳が、昭和の日本にもまだ生きていたということを、こんどの戦争が立証したのだ。  戦時でなくても、この圧力的な道徳が生きている社会がある。それは共産主義社会である。わたくしが、ソ連その他の共産主義国をまわって歩いてうけた印象を率直にいうと、それは�重工業に重点をおいた封建社会�の再建だということである。それよりは、封建社会の強制力をそのままうけついで、これを温存し、強化し、産業と軍事の面だけを近代化したものだということになる。そのなかで生きる大衆は、圧カガマのなかに入れて煮られているようなものだ。  この圧力の最高度に達したのが、スターリン時代のソ連で、そのきびしさはいずれの国の封建時代にまさるとも劣るものではなかった。�粛清�という名のお手討ち、もしくは切腹が日常茶飯のようにおこなわれたのである。当時のソ連人にとっては、「共産主義とは死ぬことと見つけたり」ということになっていた。それがフルシチョフの時代になって、やっといくらか近代化の方向にむかってきたのだ。  [#小見出し]伝統的な集団統制  第二次大戦後の日本は、明治初年、大正中期についで、三度目のはげしい価値転換期に直面した。とくに三度目は戦時中に最高潮に達した社会的圧力と緊張のあとをうけて、極度の弛緩《しかん》状態、虚脱ともいうべき事態におちいった。  終戦直後の数年間は、各個人、各家庭とも生きのびることにせいいっぱいだった。欧米には、キリスト教という超時代的な規範が、まだ相当強い力をもっているが、日本にはそれもないので、道徳的にはほとんど真空に近い時代がつづいたのである。  近ごろ�人つくり�などということが、各方面でやかましくいわれ出したのは、この真空状態を意識し出したからである。これは、見方によっては封建的なものへの郷愁ともいえよう。郷愁というのは前にそういうものをもったことのあるものが感じることだが、そういう経験のほとんどない純戦後派の青少年層のあいだにも、なんらかの社会的圧力を求める気持ちが発生している。  封建時代には、武士道と呼ばれる強力な外的強制力があった。今日の社会にもそれがないわけではなく、分散された形で出てきているのである。共産党員、左翼的な労働組合員など、一定の目的をもった組織のなかでおこなわれている�鉄の規律�がそれだ。全学連や創価学会なども、このなかに加えていいだろう。社会党、民社党などになると、その強制力がずっと弱くなる。  これらはいずれも、思想に基づく強制力であるが、そのほかにも、ときにはこれら以上に強い強制力をもったものがある。それはある種のスポーツ団体だとわたくしは見ている。剣道、柔道などは、封建時代の戦争手段、自己防衛手段がスポーツ化してうけつがれたものだが、いまも、�寒げいこ�といったような形で、封建時代そのままの訓練がなされている。訓練のとくにはげしいのは、ある種の集団スポーツの場合で、この数年間、世界の女子バレーボール界に不敗の記録を保持し、�東洋の魔女�とも呼ばれている日紡貝塚チームのごときは、そのために全選手が女性としてのすべての欲望を犠牲にしているときいている。大学の野球・蹴球チームなどの合宿練習にしても、アマチュアの楽しみの域をこえて、暴力的強制に近い場合も珍しくない。プロ・ボクシング選手の体重を減らすための減食にいたっては、封建時代にもやらなかったことで、まさに人道上の問題だともいえよう。  こういうはげしい訓練の原動力になるものは、いったいなんであろうか。第一に選手個人の名誉、第二に所属チームの名誉、第三に国際競技においては祖国の名誉、第四にプロ・スポーツにおいては、とてつもない巨額に達する金銭的報酬の魅力ということになる。  戦後の日本のスポーツ界には、�祖国の名誉�という観念がたいへんうすれてきて、それがローマ・オリンピックなどに、日本チームの無残な敗北となってあらわれているというが、逆に金銭的報酬にたいする魅力と欲求はますます強くなりつつある。そこに日本の社会構造、ひいては日本人の精神構造の大きな変革が見られるわけだ。  戦前の日本では、個人の名誉、所属チームの名誉、祖国の名誉が、多くの場合、かさなりあって、ひとつにとけこんでいたのだが、いまはそれがバラバラになってきたのである。しかも、これら以上に金銭的報酬が強力に作用している。というよりも、すべてが金銭につながり、金銭に換算されるようになってきた。  わたくしはかつて水泳で有名になった大阪府立茨木中学(現在は高校)に学んだが、当時の校長は、藩費をもって東京に留学したとかで、乃木大将を少し小型にしたような人物だった。勤倹力行、質実剛健をモットーとし、日本的なスパルタ教育をほどこした。ここに杉本伝という熱心な体操の教師がいて、大正天皇の御大典記念に、日本ではじめての校内プールをつくった。しかも、これは全校生徒の勤労作業によってできたものである。むろん、わたくしも、先年文化勲章をもらった川端康成などとともに、夏休みも冬休みも犠牲にして、モッコかつぎをさせられたのだ。  さて、プールができあがると、水泳が正課になって剣道や柔道を学ぶのと同じような方法で教えこまれた。そこから、高石勝男、入谷唯一郎など、初期のオリンピック選手が続々と出た。わたくしのような、生まれつきぶきっちょな人間が、少しは泳げるようになったのも、この学校に学んだお蔭である。  しかし、そのころのわたくしは、この学校のこういった教育方針に猛烈に抵抗した。その結果、四年生のとき、ここから追われてしまった。  乃木大将は、剣道と水泳のほか、スポーツというものはあまり好きでなかったらしい。�人つくり�でまず考えさせるのは、人間訓練の基本的な型、いや、その精神である。 [#改ページ] [#中見出し]血縁・家系・日本人   ——血縁的な宿命を地域的な関係の上におく日本の精神構造——  [#小見出し]先祖は佐佐木高綱  ところで、この乃木希典という特異な人格がどのようにして形成されたか。これからその血族的背景や生い立ちについて書かねばならぬところにきた。  かつて乃木が学習院の院長をしていたとき、学内の掲示に「源朝臣希典」と書いたり、「自家の紋所、家柄、先祖のことは、よくきいて忘れないようにしておけ」と教えたりしたことは前にものべたが、相手が華族や富豪の子弟だとしても、この教訓は当時すでに時代錯誤と考えられて、強い反発を買ったらしい。近ごろの若い人たちには、家の紋所を問われても答えられないものが多いだろう。家柄とか先祖とかいったところで、両親か、せいぜい祖父母の出身地くらいしか知っていないのが普通である。  インド、インドネシア、カンボジア、ラオスなど、東南アジアの新興国家でも、封建的な勢力が多分に残存している地域では、かつての特権的地位を示す族称を名前の上にくっつけて名のる場合が多い。日本でこれを�殿下�と訳したりするものだから、とんでもないまちがいがおこるのである。  日本でも、大正末期ごろまでは、華族のほかに�士族�というのが幅をきかせていて、戸籍や履歴書などにも、ちゃんと記されていた。はじめは法律的に若干の特権を与えられていたが、明治十五年の刑法改正でそれもなくなり、�町人�と平等の立場におかれたのであるが、国民の頭からこの差別を完全にぬぐい去ることはむずかしかった。  武家出身でいて平民意識をいちはやく鼓吹したのは福沢諭吉だが、文学者では北村|透谷《とうこく》である。透谷は日本文壇における革命的ロマンチシズムの先駆者で、少年時代から自由民権運動に参加していたが、その資金獲得のために強盗の仲間入りをさせられそうになって、政治運動から足を洗った。数寄屋橋ぎわの泰明小学校の出身で、�透谷�というのはスキヤに漢字をあてたものである。二十六歳の若さで自殺した。  福沢についで、徳富蘇峰がその主宰した『国民之友』などで、大いに平民思想を説いたが、彼自身の社会的地位が高まるにつれて、特権的な身分の弁護者になってしまった。これに反して、階級的自覚と結びついた�平民主義�を熱烈に主張したのは、堺利彦、幸徳秋水など『平民新聞』の一派である。さらに歴史的・実証的研究の上に立って、日本の古い世襲的権威のベールをはぐ労作を多くのこしたのは津田|左右吉《そうきち》であるが、そのために彼は、昭和十七年不敬罪に問われた。  大正にはいって、マルクス主義的な考えかたが普及するとともに�平民�にかわって�人民�ということばが多く用いられるようになった。�平民�は華族や士族にたいすることばで、ブルジョアにたいするプロレタリアという意味では、ふさわしくないというわけだ。戦後は�人民広場�などといって、左翼陣営では�国民大衆�の意味につかっている。しかし昭和二十二年の戸籍法改正によって�士族�ということばは、法律の上でも完全に消滅し、それとともに�平民�も�町人�と同じように、歴史的な用語となってしまった。  ところで、乃木大将の伝記を読んでとくに強く感じることは、祖先というものにたいするはげしい愛着である。祖先の意識は、封建時代にさかのぼるにつれて強くなるのであるが、明治時代も末期に近づくと相当うすれてきているはずなのに、乃木将軍の場合には、それが異常なまでに強いのに驚かされる。  乃木家の系図といわれているものによると、先祖は宇多天皇第九皇子敦実親王の後胤《こういん》である佐佐木四郎|高綱《たかつな》となっている。高綱は源義経《みなもとのよしつね》の配下に属し、有名な宇治川の合戦に、頼朝《よりとも》からもらった名馬イケヅキにまたがって一番のりをしたというので、その勇名を後世にまでとどろかせている人物である。武人の祖先としては申し分がなく、これを誇りにしたくなるのは当然かもしれない。  その後、高綱は急に発心して信竜坊と号し、高野山の大悲金剛院にはいって入道したということになっている。その理由はよくわからないが「高綱ひそかに思えらく、大功のもと久しく居りがたし」つまり、周囲のねたみもあろうし、疑い深い頼朝に仕えていたのでは、いつどんな目にあうかもしれないと思って、先手をうったのかもしれない。この時代には、武人の出家がひとつの流行でもあった。  それはさておいて、高野山にはいったはずの高綱の墓とか、高綱をまつった神社とかいうものが、全国各地にある。滋賀県の安土《あづち》にある沙々貴神社、長野県松本市の正行寺、島根県松江市の善光寺などがそれだ。  驚いたことには、乃木将軍は、交通の不便な時代に、こういった先祖のゆかりの地を、ひとつひとつたんねんにまわって歩いて、神官や住職がびっくりするほどの多額の金を寄付している。  [#小見出し]意識は血よりも濃し  古い系図を見せられて感じることは、たいてい初めと終わりのほうは比較的くわしく書きこまれているが、まんなかはただ名前がならんでいるだけということである。徳川時代には、系図が売買の対象になったし、注文に応じてどのような系図でもつくってくれる専門家もいた。浪人ものが仕官したりする場合には、いまの履歴書と同じように、系図を提出する必要があったからだ。しかし系図屋へ行けば、いまのイージー・オーダーの洋服と同じように、終わりの二、三代のところを自分で書き足せばいいような、でき合いの系図がいくつもあった。源氏出とか平氏出とか、こんど仕える大名にむくようなものを、そのなかからえらんで、手に入れればよかったのである。用紙も時代のついた古めかしいのが用いられていた。 『伊藤博文伝』という枕になるような厚い本が、伊藤とともに明治の欽定《きんてい》憲法をつくって後年伯爵になった金子堅太郎の編集で出ているが、これを見ると、伊藤博文の先祖は左の図のようになっている。  この三番目の小千王子というのが、伊藤家の祖先になっていて、なん十代にもわたる名前が長々とつづいたあと、博文の実父十蔵が登場してくるのであるが、十蔵はもともと百姓で、馬車ひきなどをしていた男である。それが食いつめて家屋敷を売り払い、長州藩の伊藤という仲間《ちゆうげん》(武家の下僕)のところで下働きをしているうちに、同家にこどもがなかったので、家族ぐるみ養子にもらわれ、伊藤姓を名のったのである。この十蔵のせがれといっても実子ではなく、もらい子(一説によるとすて子をひろったもの)の利助が、のちに、従一位大勲位公爵伊藤博文ともなると、左にあげたような堂々たる系図ができ上がったのではないかと想像される。  この系図を見てちょっと気になるのは、伊予皇子の第一王子に、�大宅菴原祖�というのが出ていることである。これで見ると、わたくし自身が、伊藤博文家と何かつながりがありそうな気がする。  こういうことをいい出したのはほかでもない。血のつながり、血の系譜というものが、一種の信仰であるということをいいたかったのである。乃木家の系図は、塚田|清市《せいいち》大佐編の『乃木大将事蹟』に出ているもので、わたくしの見たところでは、伊藤博文家の場合よりも、ずっと筋が通っている。  しかし、乃木家の先祖となっている高綱の子孫は、出雲の乃木に流れついて乃木姓を名のってからも、近江、安芸、尾張、河内、但馬、美濃などの国々を転々して、長門長府の藩祖毛利秀元(元就《もとなり》の孫)に仕えるにいたるまで、ずいふんあちこちをわたり歩いている。その間、ずっと系図を大切にもち歩いていたのかもしれないが、長い年月にわたって、一度も盗難や火難にかからなかったというのは考えられない。紛失してつくりかえたとしても、歴代の数多い人名をすっかり暗記していて系図を再製するということが、果たして可能であろうか。  また、伊藤博文家の場合のように、夫婦養子を迎えて、血が中断されることもありうる。したがって、系図は必ずしも血の系譜を示すものではない。いずれにしても、個人の系図が、天皇家や将軍家の場合のように、記録にのこるような形で、なん十代にもわたって伝えられるということは、むしろ稀有《けう》の例外ともいえよう。  けっきょく�先祖�という概念は、血でなくて信仰だということになる。先祖の場合ばかりでなく、親と子のつながりにしても、絶対的な確信のもてるのは母親の場合だけで、父親にはその資格はないというのは、よくいわれることである。いわんや、なん代、なん十代もの先祖にさかのぼって血のつながりがあるということは、そう信ずるよりほかにないのである。  徳川幕府が鎖国政策をとる前に、多数の日本人が海外に渡航し、ルソン、カンボジア、シャム(タイ)、ジャワその他南洋各地に多数の日本人が住みついて、横浜の南京町などと同じように、いたるところで日本町をつくっていたのであるが、本国で鎖国政策がとられるとともに、完全に消えてしまった。有名なキリシタン大名の高山右近のひきいる一団が日本を追われてきたころのマニラでは、日本町の人口が三千をこえたといわれている。  現に一六一九年に創立されたマニラのサント・トーマス大学卒業生名簿には明らかに日本人と思われる名前がたくさん記されているが、鎖国後はそれがだんだん少なくなって、やがて完全に消えてしまっている。いまもフィリピンには、キリノ、アキノ、クルス、オカなど、日本人を思わせる姓がいくつもある。これらのなかには偶然の一致にすぎないものもあると思うが、フィリピン人のなかに日本人の血が相当はいっていることは争えない。  現にブラジルの日系人口は、四、五十万に達しているが、何かの理由で、日本との交通・通信が途絶し、後続移民がぜんぜんこなくなったならば、ブラジルに日本人の血はのこっても、�日本人�という意識はまもなく消えてしまうだろう。血は水よりも濃いというが、実は意識は血よりも強い。その意識の定着したものが信仰である。  [#小見出し]家系を重んじる精神  日本で、古くから先祖とか家系とかいう意識が強かったというのは、日本が比較的単一な民族で構成されていること、大陸や南洋から異民族が流れこんできたとしても、これらをすぐに吸収し、同化してしまったこと、居住地域が、北海道をのぞいた本州、九州、四国の三つの島に、久しく限定されていて、その外に出ることがほとんどなかったこと、つまり、民族の血の構成が比較的単純であったからであろう。その点で、同じ島国である英国に似ている。家系を重んじる精神も同じだ。  なん十という異民族のルツボとなり、�血のジャングル�と化しているロシアやアメリカでは、こういう考えが生まれてこないし、生まれてきても、一部の特権階級をのぞいては、なんとも手のつけようがないだろう。日本も、封建的なものがくずれてゆくにつれて、先祖という概念もうすれてきている。とくに戦後はそうで、系図がのこっていた家でも、戦災や疎開さわぎでなくしてしまったというのが多い。そして系図そのものとともに、たいていそういう意識をも失ったといえよう。  日本人の名は、姓と本人の名と、二つの部分から構成されているが、ロシア人のばあいにはこれに父の名をもじったものが割りこんでくる。たとえば、ドストイエフスキーのフル・ネームは、フィオドル・ミハイロウィッチ・ドストイエフスキーで、彼の父の名は、ミハイロフスキーだということになる。日本でも、昔の武士が戦場で名のりをあげるときには、先祖の名を長々と呼ばわったというが、これは各個人の存在が切りはなされたものではなく、祖先からずっとつながっているという意識から出たものである。といって、歴代祖先の名をのこらずあげるわけにいかない。これを圧縮したものが姓というものになる。しかし、明治以前の日本の町人は、とくに許されたものをのぞいて、姓を名のることができなかった。というのは、先祖というものは貴族、武家など、一部特権階級の独占で、百姓、町人は先祖という意識からもしめ出されていた。社会的には、個人だけがあって、先祖は無視されていたのだ。  姓の多くは、地名とつながっている。西洋でも、貴族の名には�ド�とか�フォン�とかいうのがついていて、そのあとに地名、すなわち旧領地がつづくのである。アナーキストの石川三四郎がフランスを放浪しているときに、お前は日本の貴族かとたずねられた。どうしてかとききかえすと、相手はちょっとした日本通で、日本には�石川�という地名があるが、それはお前の祖先の領土だろうというわけだ。 「忠臣蔵」の大石|内蔵《くら》助良雄《のすけよしたか》の先祖は、�俵藤太《たわらとうだ》�で通っている藤原秀郷《ふじわらのひでさと》で、その子孫が代々、近江国栗太郡大石庄を領していたので、大石姓を名のったということになっている。日本の古い部落は、たいてい土豪の一族に支配されていて、その土豪の姓と部落名がひとつになっていることが多い。のちに、祖先の出身地をさがしたりするばあいにも、部落名がいちばん有力な手がかりになるわけだ。  乃木大将の伝記によると、乃木家の祖先については、 「佐佐木四郎高綱の子光綱、のち出雲の乃木に住し、よって乃木を称す」 となっている。現に出雲国|八束《やつか》郡乃木村(いまは松江市に編入)の善光寺に、高綱の遺骨を納めたという墓ものこっている。善光寺というのは、神奈川県藤沢市にある時宗の総本山|遊行寺《ゆぎようじ》の末だ。遊行寺は戦乱の世に、戦死者を敵味方の区別なく供養したというので�怨親平等の碑�が建てられ、日本における赤十字思想の発祥地として、宣伝されたところだ。  出雲の善光寺には、わたくしも行って見たが、ご本尊は信濃の善光寺と同じ金の阿弥陀如来《あみだによらい》で、推古天皇のころに、新羅《しらぎ》国王《こくおう》の献上した三体のひとつだという。この境内にある高綱の墓というのは、そう大きくない五輪の塔である。  乃木大将は二度もここを訪れている。一回目は、明治三十一年、台湾総督をやめてまもないころだった。萩から石見《いわみ》国をまわって出雲路に出ている。色あせた軍服をきていたので、旅館ではうす暗い室に通したが、宿帳で乃木将軍と知って、亭主はひどくあわてたという。  二度目は明治四十二年八月で、学習院院長在職中であった。静子夫人のほかに、内垣政吉《うちがきまさきち》といって、那須野の別荘番をしていた老人もいっしょだった。横浜から船で神戸に向かうことになったが、この老人は信州の生まれで、海は見たこともなく、船にのるのはまっぴらだといい出して、なだめるのに骨が折れたそうだ。神戸から汽車で岡山経由で松江についた。こんどは陸軍大将がきたというので、町中大さわぎとなり、道路に列をなして見物をした。かえりには美保関《みほのせき》から船で舞鶴につき、それから汽車で岐阜に行って、鵜飼《うかい》を見た上で、東京にかえっている。  [#小見出し]山陰地方の役割り  松江の善光寺を訪れて驚いたことには、境内に「乃木将軍祠堂兼宝物館」というものがあって、そこには乃木将軍をまつり、将軍遺品の数々が陳列されている。しかも戦前、戦時中そのままと思われる形で陳列されている。  ソ連やその衛星国を旅行すると、なくなった共産党指導者、文学者、音楽家など、個人を記念した�博物館�がいたるところにある。それはたいてい故人の住んでいた住宅、またはそのゆかりの建て物をそのままつかっているのだが、日本にはそんなのはきわめて少ない。ひろい東京に個人博物館らしいものといえば、徳冨蘆花の旧住居が�恒春園《こうしゆんえん》�の名で、小公園になって公開されているくらいのものだが、これも蘆花未亡人が東京都に寄付したからで、実は東京都も少々もてあまし気味である。大阪に近松門左衛門や井原西鶴《いはらさいかく》の博物館はなく、東京にも幸田露伴《こうだろはん》、森※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外、夏目漱石などを記念したものは、ほとんど見当たらない。これに反して、盛岡には、堂々たる原敬記念館ができているし、花巻には高村光太郎が戦時中疎開していた山小屋が、ベビー・サイズの博物館となっていて、大切な観光資源になっている。(原敬の�敬�のよみかたは�さとし�と�たかし�の両説がある)  松江には、もうひとつ、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の旧居が、ハーンの住んでいたときそのままの姿で、小さな博物館のようになっている。�博物館�というと、日本人はすぐ政府や大学でつくった大きな建て物を連想するが、いくら小さくてもいいのであって、日本全国に大小無数の博物館のできることが望ましい。  島根県にも、戦後にはげしい�民主化�のアラシが吹きまくらなかったわけではない。現に戦後二回目の総選挙には、木村|栄《さかえ》といって馬車ひきをしていた人が、共産党から立候補して当選し、全国を驚かしたというような事件もあった。だが、いまはまたもとの静かな山陰らしい保守的なフンイキのなかに、すっぽりと雪をかむったようにつつまれて、乃木将軍やハーンのゆかりの場も、もとのままの姿で大切に保存されているのである。  もと乃木村の善光寺には、佐佐木高網の墓とならんで、乃木将軍一家の遺髪塔ができているが、戦時中には「乃木修練道場」をもうけ、本堂や庫裡《くり》を利用して�士魂練成会�をつづけてきたという。さらに、乃木精神普及のために『日本のこころ』という小さな雑誌まで出していた。当時はこれに似たものが全国各地にあったが、戦後は跡かたもないのが普通である。  空はうららかに晴れて早春を思わせる日、わたくしは大阪国際空港から全日空機で米子《よなご》にむかったのであるが、中国山脈にさしかかるまでは、雲らしいものはなく、下界にひろがる雄大な雪景色をたのしむことができた。ところが、山なみをこえようとするころから雲ゆきが怪しくなり、山陰に出ると、たちまち猛吹雪におそわれて、機は日本海の上を低くすれすれにとび、やっと目的地に達することができた。かえりには、大阪行きの飛行機は欠航で、鉄道を利用せざるをえなかったが、これまた大雪でずいぶんおくれた。そして大阪につけばもとの好天気だった。  そこでわたくしは�山陽�と�山陰�ということばの意味を、はじめて実感をもって味わった。魚を料理するのに、骨をのぞくため、�三枚におろす�というのがある。タイやコイには、裏表というものがないけれど、カレイやヒラメの場合には、表と裏で肉の厚みがずいぶんちがう。�山陽�と�山陰�、�表日本�と�裏日本�のちがいも、これに似ているのではなかろうか。  表は明るくて、肥えていて、流動的で、進歩的であるのに反し、裏のほうは暗くて、やせていて、停頓《ていとん》的で、保守的だと見るのが常識である。しかし、日本ぜんたいの文化的・産業的・精神的構成という点からいうと、このような形になっているということが大切なのではなかろうか。  さらに、北と南の関係についても同じことがいえよう。人体にたとえていうと、北は頭であり、南は足である。�頭寒足熱�は最上の健康法だといわれているが、その点で日本はたいへんうまくできていると思う。世界のいろんな国々をまわってみて、とくにこのことを強く感じるものだ。�常夏《とこなつ》の国�とか、�恒春の地�とかいうのは、人類の理想郷のようにいわれている。ちょっと旅行したりするのには、それもいいけれど、住んでみれば、そういうところは味気なくて、すぐいやになる。  山陰には、大国主命《おおくにぬしのみこと》とか、因幡《いなば》の白ウサギとかいったようなヤマト王朝建国以前の伝説が多くそのままのこっている。保守的傾向というのは、腐敗や忘却や流動を防ぐ冷凍のような役割りをするものである。日本で文化的にそういう役割りをしているのが、山陰地方や東北地方ではなかろうか。�保守�とか�停頓�ということで、簡単に片づけるべき性質のものではあるまい。それは新しい活力の源泉でもある。  [#小見出し]ウマがご主人  乃木将軍の祖先が、ウマによって名を後世にとどろかせた佐佐木四郎高綱であることと切りはなすことができないのは、将軍のウマにたいする異常な愛情である。  将軍が赤坂新坂町に家を建てたとき、住居のほうは質素な木造だったが、ウマゴヤは当時としては珍しいレンガづくりで、近所の人たちは乃木邸を指さして、「新坂のウマヤシキ」と呼び、「乃木さんのお宅では、ウマがご主人のようだ」といったという。  将軍は、ふだん三頭ないし四頭のウマを飼っていたが、日清戦争のころ、そのうちの一頭をごく親しくしていた某大佐にゆずった。戦場でこのウマにのっている大佐に出あって、 「どうだ、このウマはよく働くかね」 と将軍がきいた。すると大佐は、 「大したもんですよ、閣下は惜しい気がしませんか」 「そうだね、女房を離縁すると、あとでなんだか惜しいような気がするものだというが、たしかにそういう気がするね」  軍人として、よくないウマをもっているほど、恥ずかしいことはない、ぜひともウマには俸給の三分の一をついやすべきだというのが、将軍の持論だった。  事実、将軍の生涯を通じて、将軍の食費よりもウマの維持費に多く金をつかったといわれている。封建時代の武士が刀に金を惜しまなかったのと同じで、一種のアクセサリーでもあったのであろう。  それだけに将軍のウマをいたわる精神は強く、学習院の院長時代にも、雨や雪の日には、逆に乗馬をやめて徒歩で出かけた。そして愛馬が死ぬと、家族なみに法事をしてやった。将軍が自刃する日の朝には、カステラを山のように盆に入れてもっていって、愛馬に与え、わかれを借しんだという。  ところで、乃木大将というと、わたくしたち年配のものには、少年時代によくうたった「旅順開城のうた」の一節が思い出される。   両将|昼餉《ひるげ》共にして   なおもつきせぬ物語り   われに愛する良馬あり   今日の記念に献ずべし   厚意謝するにあまりあり   軍のおきてにしたがいて   他日わが手に受領せば   長くいたわり養わん  このウマについて、将軍はつぎのごとく書いている。 「本馬は露国将軍ステッセル氏の愛育するアラビア産の牡馬なり。明治三十八年一月旅順開城、水師営会見のさい、氏と約するところあり。爾後戦役間、予の乗用とす。則ち�寿号�と名づく。その左前節に傷痕あるは、氏が戦線視察中、わが砲弾岩石にふれ、その砕片の擦過せるものなりと。受領当時は五、六里騎上の翌朝はしばらく跛行《はこう》の状ありしも、数か月後そのことやむ。性質きわめて温良、戦場における爆音|喊声《かんせい》に驚せず、飛越も躊躇の情なし。故に多くは戦闘間に乗用せり。帰朝後さらに払下げをうけ自馬とす。凱旋大観兵式に乗用し、天覧の栄をこうむり、皇太子殿下はことに御馬場に召寄せられ、台覧を賜うあり。予つねにステッセル氏の言を想起し、�寿号�の終わりを全うせしめんことを願うこと久し。これを大蔵中将にはかる。佐伯友文氏の牧馬に熱心にして且つ�寿号�を懇望せらるるをきき、中将を介し、種馬としてここにこれを贈るにいたる」  これは将軍が自分で書いた愛馬の�お墨付き�で、念の入った文章である。むろん�寿号�は、ステッセル将軍の�ス�に漢字をあてはめたものだ。それにしても、敵将から直接もらったウマを私有とするまでに、乃木将軍はこれだけ気をつかって、面倒な手続きをふんでいるのである。第二次大戦には、わたくしも徴用されて前線に出たが、敵産はなんでも勝手に�接収�して、だれも怪しまなかったことが思い出された。これらふたつの戦争の性格のちがいが、こういうところにも出ているのだ。  かくて、�寿号�は明治四十年鳥取県赤崎町の佐伯牧場におくられたが、大正四年隠岐島の村上|寿夫《ひさお》島司の乞いをいれて、同島にうつされ、隠岐産牛組合の管理下に、長く種ウマにつかわれ、大正八年五月二十七日、齢二十三歳をもって、病苦もなく、眠るがごとき往生をとげた。墓所は島民の手でつくられたが、その後、遠近の老若伝えきき、きたりて供養するもの引きもきらず、毎年五月の命日には小学児童や青年団員がやってきて、清掃したり、花をそなえたりしている。最近、このウマのために碑をたてる計画も進められている。なお�寿号�の血をうけたウマはすでに二十頭に達しているが、いずれも一見してあれは�寿号�の子だとわかるほどの品格をそなえているという。  以上は、島根県の郷土雑誌『島根評論』の昭和十一年二月号に出ている『旅順開城と名馬寿号』などによったもので、核兵器戦の時代には通用しそうもない話だが、ラフカディオ・ハーンが生きていてこの話をきいたら、さっそく一編の美しいロマンスを書いたかもしれない。  [#小見出し]赤穂義士ゆかりの地で誕生  乃木将軍の生まれたのは、嘉永二年(一八四九年)十一月十一日|午《うま》の刻(正午から午後二時)で、明治天皇よりも三つ年長である。したがって、なくなったときは、乃木将軍は六十三歳、明治天皇は六十歳だった。  乃木将軍は山口県の出身ということになっているが、生まれたところは武蔵の国江戸麻布|日ヶ窪《ひがくぼ》にあった長府藩主|毛利甲斐守《もうりかいのかみ》の上屋敷のなかで、それがのちに東京市麻布区北日ヶ窪町三十七番地、法学博士増島六一郎の邸宅となっていた。ここで、乃木将軍は長府藩士乃木|希次《まれつぐ》の三男として生まれ、数え年で十歳になるまで育ったのだから、将軍は江戸っ子だということになる。将軍の性格に、普通の長州人とはちがった一面があるのも、実は江戸っ子の気風をいくらかうけついでいるからであろう。  江戸時代には、このあたり一帯が大名屋敷になっていた。そのなかの毛利屋敷で乃木将軍が生まれたといっても、別に異とするに足りないのであるが、実はこの毛利邸で、仇討ちをおえた赤穂義士の一部十人が、切腹を仰せつかっているのである。  日本で�忠義�といえば、まず楠正成、ついで赤穂義士、明治時代には乃木希典ということになっているが、これら三種の�忠義�の見本の二つがここで重なっているわけだ。  乃木の頭には、赤穂義士と同じ思想的な血が流れている。長府の毛利藩は萩の毛利藩の支藩であるが、乃木家からわかれて本藩の家臣となっている玉木文之進の甥が有名な吉田松陰(本名・寅次郎)で、これがまた山鹿《やまが》流軍学の家筋だ。いうまでもなく山鹿流は、山鹿|素行《そこう》から出たもので、赤穂義士の忠誠心の基盤になったといわれているのだが、乃木の父の希次も、同じ思想の流れをくむものだ。したがって、乃木父子は赤穂義士と同門で、ひとしく山鹿流の実践哲学によってきたえられているのである。  元禄十五年十二月十五日、首尾よく主君の仇を討ちとった赤穂義士は細川|越中守《えつちゆうのかみ》へ十七人、松平|隠岐守《おきのかみ》へ十人、毛利甲斐守へ十人、水野|監物《けんもつ》へ九人——他に一人は途中脱走との届け出——と四つのグループにわけて預けられたが、毛利組は禄高二十石以下の軽輩ばかりである。   岡島|八十《やそ》右衛門《えもん》=二十石五人|扶持《ぶち》(三十八歳)   吉田沢《よしださわ》右衛門《えもん》=十三両三人扶持(二十九歳)   武林唯七=十五石五人扶持(三十二歳)   倉橋伝助=二十両五人扶持(三十四歳)   村松喜兵衛=二十両五人扶持(六十四歳)   杉野|十平次《じゆうへいじ》=八両三人扶持(二十八歳)   勝田新左衛門=十五石三人扶持(二十四歳)   前原伊助=十石三人扶持(三十九歳)   小野寺幸右衛門=(二十八歳)   間《はざま》新六=(二十二歳) (年齢はいずれも数え年、石は米で受ける高、両は貨幣単位)  小野寺は大高源吾《おおたかげんご》の実弟で、叔父小野寺|十内《じゆうない》の養子だ。間新六は、間|喜兵衛《きへえ》の二男で、兄の十次郎と父子三人そろって参加している。いずれもまだ部屋住み(一人前に独立していない身分)である。  大石良雄以下の大物は、細川家のような大藩に預けられ、小藩の毛利家にはこういった小物が預けられたわけだ。  これらのなかで、いちばん特色のあるのは武林唯七である。厳密にいって彼は日本人ではない。彼の祖父は中国人で、孟子《もうし》の血をひいているというところから、孟二寛《もうにかん》といった。豊臣秀吉の朝鮮侵攻のさい、明の援軍に加わって、日本軍の捕虜となり、日本につれられてきて帰化し、郷里の浙江省杭州府武林にちなんで、武林|次庵《じあん》と名のり、医を業とした。その息子の代には、渡辺半右衛門といって純然たる日本人となり、浅野家に仕えた。三代目の唯七になって、また武林姓にかえり、浅野|長矩《ながのり》に仕えて中小姓《ちゆうごしよう》をつとめた。  武林と浅野家の関係はそれだけではない。彼の生まれたとき、その母は城に召されて内匠頭《たくみのかみ》長矩の乳母となった。したがって、長矩と唯七とは乳兄弟で、同じ血が通っているわけだ。殿中刃傷、お家断絶の凶報が赤穂の城中に達するや、彼はいちはやく、討ち入り説を唱え、この派の急先鋒として行動し、終始態度をかえなかった。その裏には、浅野家屋敷引き払いの夜、彼の母は長い遺書を残して自害し、息子をはげましたという�美談�もあったとつたえられている。  討ち入りの夜、彼はまず一人の若者と戦って、その額に傷を負わせた。それが吉良家をつぐことになっていた左兵衛佐義周《さひようえのすけよしちか》(上杉綱憲の二男)であった。つぎに、吉良方の勇士|和久《わく》半太夫を切り、さらに進んで、間十次郎とともに吉良上野介義央《きらこうずけのすけよしなか》の首をうちとった。�義士チーム�のなかでは最高殊勲賞に相当する働きぶりだ。  武士道、忠誠心、勇猛心などというものも、�血�よりは環境とその産物である意識から発生するもので、必ずしも、日本人特有のものでないことがこれでわかる。  [#小見出し]強烈な暗示�切腹�  講談などに出てくる武林唯七は、粗忽《そこつ》者として知られている。ある日、殿さまの月代《さかやき》をあたっていた。御殿でつかうカミソリには柄がついているが、少しゆるんでいるので、それをしめようと思って、殿さまの頭でトントンとたたいた。 「こら、無礼もの、何をいたす、痛いわ」 「これはお殿さまのおつむりで——実はきたない踏み台かと存じまして」 といった調子である。むろん、これはつくり話だ。  元禄十六年二月四日、武林たちは、いよいよ毛利屋敷で切腹ということになった。武林には毛利の臣の榊《さかき》正右衛門というのが介錯《かいしやく》の役を仰せつかったのであるが、太刀《たち》先が狂って、武林のアゴのところへ深く切りこんだ。しかし、このとき、武林は自若として、微笑を浮かべながら、 「どうぞお静かに」 と、注意したという。「微笑を浮かべた」というのは、そのままうけとれないが、それほどおちついていたというのであろう。  いずれにしても、少年時代の乃木将軍は、赤穂義士を�武士の神さま�としてあがめていた父から、こういう話を耳にタコができるほどきかされたり、かれらの遺品を見せられたりしていたにちがいない。そして、毎月三回、父とともに、毛利屋敷から三キロばかりはなれている高輪泉岳寺にお参りさせられたという。  乃木将軍の生涯は�切腹�と切りはなすことができない。西南の役《えき》で連隊旗をうばわれて以来、ずっと切腹の幻影につきまとわれていたようだ。したがって、切腹の故実、作法、技術などについては、すっかり研究をつんで、この道の専門家の域に達していた。  それというのも、十人もの集団切腹がおこなわれた邸内で生まれ、そこで切腹中心の武士道教育をうけたということが、彼の頭に深くきざみこまれ、強烈な永続的な暗示となって、彼の生涯を支配し、ついにその方向へ彼をひっぱっていったとも見られないことはない。  明治二十年にこの毛利屋敷を手に入れた増島六一郎博士が『日本及日本人』(明治四十三年元旦号)に書いているところを見ると、ただどこかの大名の屋敷跡だくらいに思っていたところ、のちに友人の杉浦重剛から教えられ、はじめてそれと気がついたという。これで見ても、明治の中期には、赤穂義士などというものに、世人がそれほど強い関心をもっていなかったことがわかる。  増島博士は江州彦根藩の出身で、明治十二年に東大法科を出てロンドンに留学、帰国後|英吉利《イギリス》法律学校(中央大学の前身)、東京英学校を創立してその校長となった。また東京女学館の創立にも参画した。東京代言人(弁護士の旧称)組合、弁護士組合の会長で法学博士、明治法学界、弁護士界の大ボスであった。  このすぐ隣は、日本の�ビール王�といわれた馬越《まごし》恭平の屋敷となっていた。つまり、封建時代の�殿さま�が退場したあとへ、新興階級を代表する新しい殿さまがはいりこんだわけだ。  乃木一家が、ここに住んでいたころには、赤穂義士が元禄十五年十二月十五日から翌年二月四日まで、五十日間生活していた長屋がそのままのこっていたのであるが、増島博士がここを手に入れたときには、むろんそんなものはなかった。この土地は�日ヶ窪�という地名が示しているように、丘と丘のあいだの窪地である。そこに池がつくられ、これを中心に近代的な大邸宅ができていた。乃木一家の住んでいた家もとり払われて、そのあとは鉄骨コンクリートの書庫となり、イギリスの法律書がギッシリつまっていたという。  この屋敷は増島博士によって「芳暉園《ほうきえん》」と名づけられ、池のほとりに石の碑がたてられた。これには赤穂義士や乃木将軍との関係が刻みこまれたが、その筆者は杉浦重剛である。この碑をたてる場所の選定には、乃木将軍も相談にのっているが、これを「勿去碑」と命名したのは、ここの主人がこの由緒ある土地を去ってはいけないという意味をもふくめたものらしい。これができてからは、毎年義士の討ち入り当夜、諸名士をここに招いて大園遊会を催していたという。  これは明治末期から大正のはじめにかけてのことで、こんど行ってみると、ここはウイスキーの工場になっていて、その隣がNET(日本教育テレビ)である。乃木将軍が産湯《うぶゆ》をつかったという井戸の水は、北海道から送ってくるウイスキーの原酒をうすめるのに用いられている。終戦後、五千五百坪(約一万八一八二平方メートル)もあるこの広大な屋敷を増島家ではもちこたえられなくなり、財産税のかわりに物納し、国有財産となっていたのを、ウイスキー会社で払い下げをうけたのだ。戦災で焼けのこった建て物は、最高裁判所などでつかっていたという。  ここから坂を一つのぼれば、六本木の交差点だ。近ごろは付近に深夜営業のレストランや怪しげなクラブが多く、�六本木族�と呼ばれる国籍不明の人種があつまってきて、怪しげな風俗を展開する場となっている。 [#改ページ] [#中見出し]乃木将軍と赤穂義士   ——二つの伝説が太平ムードへの覚醒剤の役割をした理由——  [#小見出し]乃木と義士の警世的効果  乃木将軍と赤穂義士とは切りはなすことのできないものであるが、明治以後の日本世相史をふりかえってみると、ときどき思い出したように、というよりも周期的に�忠臣蔵ブーム�がおこっている。そして、これがおこってくる社会情勢には共通性がある。それは戦争などによって、社会が極度に緊張しているときよりは、むしろその緊張がとけて、社会が弛緩状態におちいったときにおこりやすい。むろん、日清・日露の戦争がおこったときにも、武士道|鼓《こ》吹ということで、赤穂義士が世人の関心をひかないこともなかったが、一種のブーム的現象を呈したのは、明治も末期に近づいてからである。  わたくしの手もとに、赤穂義士をあつかった単行本、雑誌の特集、パンフレットの類が百種類以上もあるが、その大部分は明治四十年ごろから大正初期に出たものである。日露戦争がおわって数年を経たこの時期の社会的条件は、赤穂義士が主君の仇討ちをやってのけた元禄時代とたいへんよく似ている。  元禄時代は、元亀・天正の戦国時代、関ヶ原合戦などがおわり、徳川の政権が確立するとともに、鎖国政策の徹底によって、外国の脅威をうけることもなく、天下太平の気分がみなぎっていた。加藤清正、福島|正則《まさのり》、伊達政宗など、徳川政府をおびやかすような底力をもった外様《とざま》大名はあらかた死んだり、粛清されたりして、内戦のおこる可能性もほとんどなくなり、武士階級が戦功によって出世するチャンスも失われてしまった。一方、平和がつづき、経済活動が活発となるにつれて、町人階級の勢力が加わり、実権がだんだんとその方に移行しつつあった。それとともにインフレの現象があらわれて、俸禄という固定給でしばられている武士階級の生活は、苦しくなっていくばかりであった。  日露戦争後の日本も、世界一の陸軍国といわれたロシアを負かしたというので、国民の気位も高くなり、各種の産業活動もさかんになって、会社と名のつくものがやたらにできた。政治の面では、暴力革命をにおわせた自由民権運動が、もはや昔話となり、憲法発布、国会開設によって、立憲政治もいちおう軌道にのってきた。元老とか藩閥とかいうものの勢力は、まだ根強く残存して、大きな発言権をもっていたが、これらと在野勢力との結合も進み、新しい支配層が生れつつあった。�|成金 《なりきん》�ということばができたのもこのころだ。それとともに、日本はこんなことでいいのかという反省の声も各方面でおこってきた。 �危機感�というものは、個人的にも社会的にも、ほんとに危険な状態にあるときよりは、ようやくこの状態を脱して安定期にはいったときに、より強く感じられるものである。そして、それは�警世�という形をとってあらわれてくる場合が多い。近くやってきそうな、より大きな危機にたいする警告である。満足感に浸っている周囲にたいする反発でもあり、民衆に先んじて憂えるという優越感とも切りはなせないものだ。  これがマス・コミにつながると、危機感の商品化ということにもなる。つまり�警世�が娯楽の対象と化するのだ。�忠臣蔵ブーム�にしても、実はこういった風潮の産物と見られないことはない。  元禄時代は、五代将軍綱吉の時代であるが、綱吉という男は一種の天才であるとともに、エキセントリックなところがあった。彼は大いに学問を奨励し、自分で論語の講義をしたりする一方、「生類《しようるい》憐れみの令」といったようなものを出して、イヌをむやみに保護したので�犬公方《いぬくぼう》�ともいわれた。中野、大久保、喜多見などに、数万坪のイヌ小屋をつくった。戦時中、一部の将校に特別の訓練をほどこして特殊な任務につかせた�中野学校�、戦後の警察学校は、このイヌ小屋のあったところである。  徳川時代きっての黄金時代を現出した元禄時代は、同時にマス・コミがとみにさかえた時代でもあった。  当時はマス・コミといっても、今のようにラジオ、テレビはもちろん、新聞も週刊誌もなかった。しかし、カブキその他の興行物は大いに興隆し、木版による出版物も相当出まわった。それとともに、口から口ヘのウワサの伝達、近ごろの流行語でいうと�口《くち》コミ�もさかんになり、江戸や大坂の新しい流行やニュースが、異常なスピードで全国にひろがった。武芸も実戦からはなれてスポーツ化しつつあった。  赤穂義士の集団仇討ちはこういう時代を背景にして発生したのである。  このニュースがたちまち全国につたわり、強烈なショックを与え、予想外の警世的効果をもたらしたというのも、当時のマス・コミの波にのったからだ。  赤穂義士の仇討ちは、意識的にこういった警世的効果をねらってなされたものではない。その点で乃木将軍の自刃とは、性格がまったくちがっている。  しかし、結果においては、のちの世までも消えない警世的効果をのこした点で、これらふたつのケースはよく似ている。赤穂義士が五十人に近い集団で決行したことを、乃木将軍は単独で、いや、夫妻でやってのけたということにもなる。  [#小見出し]信用できる福本日南  赤穂義士が、討ち入りのおこなわれたその日から、当時のマス・コミの人気をさらったというのは、それが平和な時代に、一般世人が生活をじゅうぶんに楽しむことのできた時世のなかでおこったからである。義士たちのさんたんたる苦心、驚嘆すべき犠牲的行動、それぞれの家庭におこった生きわかれや死にわかれの悲劇といったようなものは、周囲の平和なムードのなかでのできごとであるために、世人のじゅうぶんな共感をよびおこすことができたのである。近ごろの新聞で、戦時中にはほとんど問題にされなかった交通事故や家庭的ないざこざに基づく傷害事件のたぐいが、連日大きくとりあげられるのと同じ現象だといえよう。つまり、この事件がこのようにもてはやされたというのは、それほど当時の日本が平和であったということだ。  それだけに、赤穂義士にかんする記録や資料はあまりにも多すぎて、ちょっと手がつけられない。当時の記録といわれるものも、フィクションとノン・フィクションの区別がつかないものが多いし、資料もほんものと、にせものの判定がむずかしい。  今は少なくなったが、戦前には赤穂義士伝を専門に研究していた人が全国にたくさんいた。その点でも乃木将軍に似ている。ただし、乃木将軍の場合は、つくり話は多いが、にせものの資料は比較的少ない。  仇討ちに参加した赤穂浪士のことをはじめて�義士�と名づけたのは、新井白石《あらいはくせき》とならび称せられた江戸中期の大学者、室鳩巣《むろきゆうそう》である。元禄十六年正月というと、仇討ちが成功して、やっと二週間ばかりで、世間はそのウワサでもちきりであったが、指導的立場にある人々は、これを、�謀反人�と見るか、それとも�忠臣�と見るか、判定にまよっているさい、鳩巣は早くも『義人録』と題する著述にとりかかったという。  そして仇討ちの動機、過程などをくわしく検討した上、かれらに�義人�という断定をくだしたのである。この書が、いちはやく刊行されて、赤穂浪士にたいする世論をリードしたことはいうまでもない。  大きな事件にたいする解説や批判が、そのニュースとほとんど同時に、ラジオ、テレビ、新聞などを通じて発表される現代では、異とするに足りないことであるが、あの時代に、彼のような大学者が率先して、このような仕事に手をつけたということは、新記録ともいうべきで、彼がこの事件の世道人心にたいする影響、その警世的価値をいかに高く評価したかを立証するものである。  鳩巣は、備中の生まれで、本名を直清といった。本職は医者である。数え年の十四歳で、加賀藩に召され、殿さまの前で講義をしたというから、よほど�神童�のほまれが高かったのであろう。今なら小学校を出るか出ないかというところだ。その後、彼は金沢と京都と江戸のあいだを往来して、そのころの一流学者たちに学んだり、教えたりしているうちに、おしもおされもせぬ大家になってしまった。『義人録』を出したのは、三十一歳のときで、学者として円熟しつつあったばかりでなく、鋭い時代感覚をはたらかせたものと思われる。ひとつまちがうと、幕府の忌諱《きい》にふれる恐れも、じゅうぶんあったのであるが、それから八年後には、白石の推薦で、幕府のお抱えの学者に選ばれている。  これまでに出た、おびただしい義士伝のなかで、資料的にもいちばん信用ができるのは、福本|日南《にちなん》の『元禄快挙真相録』であろう。これが出版されたのは大正三年で、たちまちベストセラーとなり、天覧、台覧(天皇や皇族がごらんになること)の栄をたまわった。本書がこれほど人気を呼んだのは、その前からおこっていた�義士ブーム�が、乃木将軍夫妻の自刃によってさらにあおられ、これらふたつがかさなりあって、いまのことばでいうと、復古調のリバイバル旋風をまきおこしたのである。そのため、日南は、�今鳩巣�などといわれた。  日南の義士伝で注目すべき点は、内容もさることながら、題名に�快挙�という字をつかっていることである。�義人�から�快挙�へ、どっちも民衆に訴えようとしたものであるが、その訴える方向がちがっている。一方は道徳的であり、他方はどちらかというと感覚的である。元禄時代と、それから二百年あまりたった大正時代では、同じ事件のうけとりかたが、このようにかわってきているのである。  日南は福岡藩の出身で�南進論�の先駆者のひとりである。東大の卒業論文に『大日本商業史』の大著を出して世間を驚かした菅沼貞風《すがぬまていふう》とともに、フィリピン経略を志してルソン島にわたったのは明治二十三年のことで、日南が三十二歳、貞風が二十四歳のときである。行くとすぐ貞風はマニラでコレラにかかって客死したため、日南は帰国した。その後『日本新聞』にはいり、さらに『九州日報』の社長になったり、代議士に出たりしたが、晩年は史論家として活躍した。明治、大正の代表的マス・コミ人のひとりである。赤穂浪士の仇討ちを�快挙�と名づけたところに、この明治日本が生んだ�快男児�の時代感覚、マス・コミ意識がよく出ている。  [#小見出し]�仇討ち�の問題点  この機会に、乃木将軍と精神的つながりの深い赤穂義士についての問題点を少しばかりひろって見ることにしよう。  まず、最初にとりあげねばならぬ問題は、仇討ちに参加したのは四十六人か四十七人かということである。  元禄十五年十二月十三日付けで、大石良雄が赤穂の友人に送った手紙によると、「このたび申し合せ候ものども四十八人」となっている。だが、このなかで毛利小平太《もうりこへいた》というのが、いよいよ討ち入りの当日になってついに姿を見せなかった。毛利は二十石三人扶持をもらっていた下級武士だが、重宝な男で、討ち入り前までは、どんな役目でも気軽に引きうけた。人夫にバケて吉良家の情報をとったりすることが得意だった。たまたまあるところから、吉良家の家老にあてた手紙が手にはいったとき、毛利は下男の扮装《ふんそう》をして、この手紙を吉良家へとどけに行った。そして、その返事を待っているあいだに、邸内の様子をすっかりさぐってかえった。  だが、いよいよ討ち入りというところまで行って、ついにずらかってしまったのは、その兄が戸田|弾正《だんじよう》に仕えていて、「お前がそういうことをすると、おれが困る」といわれて断念したということになっている。このことが事実だとしても、これは自分自身にたいする口実であって、ほんとはいざとなって死ぬのがいやになったのであろう。戦争の場合でも、ふだんきわめて勇敢であったものが、いよいよ命を投げ出さねばならぬところにきて、急におじけづく例が珍しくない。  もうひとりは、有名な寺坂吉右衛門である。討ち入りの夜、吉良家の門まで行ったことは明らかであるが、そのあと消えてしまったのだ。いや、討ち入りのときもいっしょだったのだが、目的を達してから人数を調べてみて、ひとり足りないことに気がついたのだともいわれている。その後、大石らが、細川家に身柄を預けられて処分を待っているあいだに、京都の寺井|玄渓《げんけい》に出した手紙のなかで、つぎのように書いている。 「寺坂吉右衛門儀、十四日の晩までこれあり候ところ、かの屋敷には見えきたらず候。かろきものの儀、是非におよばず候」  軽輩のことだから、行くえ不明になっても、大して問題にしないという態度だ。  寺坂というのは、大石の右腕で義士団の副統領ともいうべき地位にあった吉田忠左衛門の家来である。その吉田が、のちに細川邸で寺坂のことをきかれたとき、つぎのごとく答えている。 「このものは不とどきものにて候。かさねて名をも仰せ下されまじく」  この二点を主たる根拠にして、寺坂は裏切り者だという説が成り立っているのである。徳富蘇峰も、『近世日本国民史』で、断定的にこの説を支持している。  これに反して、寺坂擁護派にいわせると、寺坂の脱落は大石や吉田の了解ずみというよりも、二人の命をうけて、討ち入り後こっそりとこの仲間からはなれ、仇討ち成功の報を浅野内匠頭夫人に伝え、この仇討ちのためにつかった公金の使途明細書とともに残金を手わたし、さらに広島の浅野本家へおもむいて、そこに預けられている内匠頭の弟の大学に会い、いちぶしじゅうを報告するという、新しい任務を負わされていたというわけだ。大石や吉田にしてみれば、足軽の身でこの義挙に参加し、忠実にその任務を果たした寺坂の生命を、こういう形で助けてやりたいという考えが浮かんだのであろう。もしかすると、これも大石と吉田だけで、はじめから計画を立てていたことかもしれない。  寺坂擁護派を代表しているのは福本日南で、その理由としては、 「第一に討ち入り以前に、その進軍途上から失踪《しつそう》したのなら、臆病で逃げたと見ることもできるが、すでに死を決して討ち入り、敵邸で働いた事実が確かである以上は、いざ凱旋《がいせん》という場合になって、急に逃げそうもない」 「第二には彼の人となりである。これをその筆記に見ても、諸士の苦心さんたんを歴叙しきたって、一語も自家広告に及ばず、一点|矜誇《きようこ》の態がない。その篤実また想見すべきである」  四十六士の墓碑がならぶ泉岳寺に、のちになってふたつの墓碑が追加された。ひとつは「刃道喜剣信士」と刻みこまれたもので、これは寺坂吉右衛門の招魂碑ということになっているのだが、これについては、のちにいろんな伝説やつくり話が付加されている。萱野《かやの》三平の招魂碑だという説もある。  もうひとつの墓碑は「遂道退身信士 寺坂吉右衛門信行」と刻まれているもので、このほうは、明治元年に木村長右衛門という人物が、金を出してつくったことがはっきりしている。  さて、結論だが、わたくしとしては福本説を支持したい。残務処理兼PR要員として寺坂を選び、�脱落者�ということにして生きのびさせたということは、大石と吉田の深謀遠慮から出たもので、このばあい、当然のことだといえる。寺坂を口汚くののしった文書をのこしたのも、彼を共犯にしたくなかったからであろう。後世の徳富蘇峰までがうまうまとこれにひっかかったのを見ても、大石の戦術は成功だったということになる。  [#小見出し]腹を刺せば確実  松の廊下で、浅野|内匠頭《たくみのかみ》が吉良上野介《きらこうずけのすけ》に切りつけたさい、乃木将軍はてっきり正面から、吉良に切りつけたものと思いこんでいたという。そのことをきいて、某博士が将軍に説明した。 「内匠頭は吉良のうしろから切りつけたのですよ。そして、相手がふりむいたところをまた前から切りつけ、それが烏帽子《えぼし》の金輪にあたったのです」  そこで、将軍はいった。 「それはけしからん。うしろから切るのは士道に反している。それに烏帽子に切りつけたのはまずい」 「それでは、閣下ならどうなさいますか」 「上野介の前から、刀を上野介の腹につき刺す。こうすれば、確実に相手を倒せる」  この話を、徳富蘇峰はその某博士からきいたと書いている。いずれにしても、この�殿中刃傷�は、計画的になされたものではなく、二言、三言話しているうちに、内匠頭がカッとなって、とっさに切りつけたものにちがいない。  この事件がおこったのは、元禄十四年三月十四日の午前十時前のことであるが、被害者も加害者も、城内にこのニュースがあまりひろがらないうちに、平河口からこっそりと城外へ送り出された。そして、内匠頭のほうは、田村|右京《うきよう》大夫《だゆう》に預けられ、その日の午後六時ごろには、早くも切腹を命じられている。幕府当局は、どうしてまた、こんなに内匠頭の処分を急いだのか。  これに似た事件は前にもあった。これより十七年前の貞享《じようきよう》元年、同じ綱吉将軍の時代に、大老の堀田|正俊《まさとし》が若年寄稲葉|正休《まさやす》に殿中で刺された。正休もその場で殺されたので、浅野家の場合とは事情がちがっているが、その後に幕府が堀田、稲葉にたいしてとった処置は、比較的公正であった。これに反して、こんどの浅野にたいする処置は、あまりにも一方的で、�ケンカ両成敗�という家康以来の原則からはなれすぎていた。  吉良家というのは、足利《あしかが》以来の名門で、足利|義氏《よしうじ》の子の長氏《ながうじ》が三河の国の吉良に住みついて吉良氏を名のったという。尾崎士郎の代表作『人生劇場』の吉良常が活躍するところだ。徳川家の祖先が、吉良家の厄介になったこともあって、徳川の天下になってから�高家《こうけ》�という地位を与えられた。これは式部官のような役目で、知行は四千二百石だったが、身分は高く、発言権も強かった。それに上野介|義央《よしなか》はなかなか傑物で、政治力もあった。とくに、親族外交に長じ、米沢の大藩の上杉家とは二重、三重に血縁関係を結んでいた。領地の三河国で新田を開いた資金も上杉家から借りたものである。将軍家とも親類になっていた。  それからこの事件の原因は、ワイロにあるということになっているが、この時代のワイロは、すでに制度化されていて、すべての公職にそれがつきまとった。これには一定の標準があって、これを狂わせるものがあると、スムースに動かず、逆に社会的秩序がみだされるのである。現在の�汚職�という概念とはちがっている。いや、政党献金で子分を養い、政界に有力な地位を確保している�実力者�と称するものの場合と大してちがいはないということにもなる。  したがって、浅野家をほろぼした責任は、吉良家に適量の�潤滑油�をおくることを怠った浅野の江戸詰め家老にあったともいえる。これに懲りてか、浅野家断絶後、内匠頭の弟の大学《だいがく》に、知行を一万石くらいにへらしてでも、家名をつがせる許可を得ようとして、大いに�運動�をした形跡もある。仇討ちにつかった金は、ざっと一万両と見られているが、その半分でも、この�運動�のためにつかっていたら、案外これが成功して仇討ちをせずにすんだかもしれない。大石良雄たちは太平の時代に通用しなくなった�忠義�の概念にとらわれすぎた、といったような見方をする人もある。現代式に解釈すれば、そういうことにもなる。  それはさておいて、この事件は大切な勅使接待をめぐっておこったのだから、これが明るみに出て問題が紛糾してきたら、老中の一人がその責任を負わされて、切腹ということにならぬとも限らない。老中の稲葉|正往《まさゆき》、土屋|政直《まさなお》、秋本|喬知《たかとも》などは、もっとよく調べた上で裁決をくだしていただきたいという意見をのべたのであるが、将軍綱吉はお気に入りの柳沢|吉保《よしやす》のいいなりに、即刻断罪の命令をくだした。そして吉良のほうには、 「時節柄神妙の働きである。ゆっくり養生して、傷がなおったらまた出てくるがよい」 ということになった。  柳沢は、綱吉が将軍になる前からの家来で、低い身分からとんとん拍子に出世して、ついに首席老中となり、この事件のおこった元禄十四年十二月には、将軍を自邸に招いて、�松平《まつだいら》�の称号をたまわっている。このころから、徳川幕府の性格や政策がすっかり変わってきたのだ。  [#小見出し]内匠頭に同情あつまる  吉良上野介にたいする処分は、内匠頭に切りつけられたとき、吉良のほうでも刀に手をかけたかどうか、ということの認定の結果によって、すっかりちがってくるのであるが、内匠頭をうしろから抱きとめた梶川|与惣《よそ》兵衛《べえ》の証言によると、吉良は自分の刀にぜんぜん手をつけなかった、ということになっている。この証言が、幕府当局の気に入ったとみえて、梶川は事件落着後、五百石の加増にあずかっている。  吉良のうけた傷は、背中のほうは長さ五寸ばかりで、やや重傷の部に属するが、額のほうは太刀先が流れて、烏帽子の金輪にあたったので、ほんのカスリ傷程度であった。しかし、吉良は顔色青ざめて、しばらくは口もきけなかったらしい。  それでも吉良は、取り調べの目付《めつけ》から、 「公私にわたって、何か内匠頭から恨みをうけるおぼえでもおありだったのか」 という質問をうけたとき、つぎのごとく答えている。 「ぜんぜんありませぬ。察するところ、内匠頭乱心と心得まする」  これで、内匠頭は一方的に有罪の判決をうけ、どこからも文句の出ないうちに処刑されてしまったのだ。最高裁で白黒がきまるのに長々と時間をかけ、ついに死刑ときまっても、刑の執行がいつおこなわれるかわからない帝銀事件などと、たいへんなちがいである。  さて、内匠頭の身柄は、田村右京大夫にお預けとなり、その愛宕下の屋敷で切腹させられたのであるが、明治末期には、この屋敷跡は犬養毅、大石正巳、島田三郎らのひきいる立憲国民党の本部につかわれ、藩閥政治打倒を叫ぶ民権派の根拠地となっていた。今もそのあとに内匠頭の碑がたっているが、�田村町�の名はここから出たことはいうまでもない。  切腹の検使役には、正使に大目付の庄田|下総守安利《しもふさのかみやすとし》、副使に目付の大久保権左衛門|忠鎮《ただしげ》、多門《おかど》伝八郎|重共《しげとも》の三人が任命された。ただし庄田は徳川幕府内で主流派に属し、他の二人は反主流派に属していたので、ことごとに意見が対立したらしい。  切腹は田村邸の書院前の庭にむしろをのべ、その上に畳三枚をしいて、さらにこれを毛氈《もうせん》でおおい、その周囲に幕をはり、高張り提灯をつらねたところでおこなわれた。 「いやしくも一城の主を処刑するのに、無位無官の徒同様、庭先で切腹させるのは、武門の作法にあるまじきことに存ずる」 と、大久保や多門は抗議したが、庄田は正使の権限をもっておしきった。のちに、田村右京大夫の宗家にあたる仙台の松平|陸奥《むつの》守綱村《かみつなむら》は、このことをきいて、たとえ庄田の指図があったとしても、右京大夫のとった処置は、武士の情けを知らぬものだといって、絶交したともいわれている。これもつくり話かもしれないが、当時世間の同情は、内匠頭のほうへ一方的にあつまっていたことの例証にはなる。  内匠頭は、田村邸へ護送される途中、警護のものに、遺言を書きたいといってことわられ、それならせめて、片岡|源五《げんご》右衛門《えもん》と磯貝十郎左衛門に、ことここにいたったのはやむをえぬのだ、どうか自分の心中を察してくれ、といったような意味の伝言をたのんでいる。片岡も磯貝も、いまのことばでいうと秘書官であるが、江戸詰めの家老などを問題にせずに、このふたりにさいごのことばをのこした。内匠頭の死の直前、多門の特別のはからいで、ただひとり、よそながら主従の暇乞いをしたのも片岡である。このあと、片岡は赤穂名産の塩をもって多門のところへお礼に行ったが、庄田は内匠頭にたいする処置をあやまったというので、大目付の地位を免ぜられている。幕府も世論におされて、だれか犠牲者を出さぬとおさまりがつかなかったのだろう。官僚の地位というものは、ふだんは強く、安定しているようにみえるけれど、いざとなると、このように弱く、はかないものである。  さて内匠頭は、死にぎわにのぞんで、吉良のことが気になったとみえ、彼に同情をよせている大久保、多門の両検使に、 「上野介はその後いかが相成りましたか」 と、きいた。これにたいして両検使は口をそろえ、 「傷は二か所で、いずれも大して深手と思いませぬが、なにぶん老人のことゆえ、痛みはなはだしく、重態に見うけられ、一命のほどもおぼつかなく存じまする」 と答えた。これをきいて、内匠頭はさも満足そうに、にっこりほほえんだという。この話も、そのままうけとるわけにいかないが、�花も実もある�という、この時代の武士気質がよく出ている。そこには、佐賀の『葉隠』に見られるようなストイックなきびしさはない。  片岡も磯貝も、むろん、仇討ちに参加している。当時磯貝は二十三歳、眉目清秀の美青年で、何よりも音楽が好きだった。とくに琴が得意で、翌年二月、細川邸で切腹したとき、彼の遺品を調べると、紫チリメンのふくさのなかから、琴のツメが出てきたという。  [#小見出し]血判状に七十余名  浅野内匠頭殿中刃傷、つづいて切腹、お家断絶のニュースが、播州赤穂についたのは三月十九日の午前五時である。使者は早水《はやみ》藤左衛門、萱野三平のふたり、江戸をたったのは事件の翌日、十五日の午後二時というから、江戸、赤穂間百五十五里を三日と十五時間でぶっとばしたことになる。普通の旅行だと、一日平均十里になっていたから、十五日はかかるところだ。  当時は急使駅伝の組織ができていた。宿場から宿場ヘカゴでのりつぐのであるが、のっているものは、ハチマキをしめ、腹にはサラシ木綿をかたくまき、カゴの中程にブラさがっている白布にとりすがり、ブランコにゆられているようなかっこうで、昼夜ぶっ通しに、かけつづけるのである。普通ならすぐまいってしまうところだが、こういう非常事態にあっては、のっているほうは死にものぐるいで、これでもまどろっこしい気持ちをおさえることができなかったろう。それに浅野家では、江戸伝馬町の駅伝問屋へ、ふだんから、じゅうぶんにつけとどけがしてあったから、こういうときにはかれらも大いに協力してくれたらしい。  つづいて、第二便、第三便がその日のうちに到着、江戸でおこった出来事のあらましがわかった。  そこで、城代家老《じようだいがろう》の大石良雄は、赤穂城に全員をあつめて大会議を開いた。あつまったのは三百余名、欠席者はほとんどなかった。五万三千余石の赤穂藩という、ちょっとした中小企業の会社が、突如として破産したようなものだ。従業員はあきらめて立ちのくにしても、破産管財団から少しでも多くの分配金にありつかないと損だという心持ちから出てきたものもあったろう。  城にあった現金や米をはじめ、未納の税金や貸し下げ金の回収、大阪の蔵屋敷の整理などによって、どれくらいの金が手にはいったか、そのなかからどうしても出さねばならぬものを差引いて、あとにいくらのこったか。そういった数字ははっきりしないが、総額は十万両ないし二十万両というところだったらしい。城をうけとりにきた幕府の役人たちに、米の残高は一千二百石と報告しているが、現金となると「城つきの金銀銭、蔵に御座なく候」とつっぱねている。そんなはずはないのだが、この点は幕府の役人も大目に見ている。現在の税務署の役人相手だったら、そうはいかなかったろう。  さて、この金をどういう基準でわけるべきかという段になって、大石はもうひとりの家老の大野|九郎《くろ》兵衛《べえ》とはげしく対立したようである。大石は頭わりで、大野派は禄高に応じてわけよというわけだ。大石にいわせると、高禄者は武具や家財を処分しても、三年ぐらい飢えることはあるまいというのだ。  けっきょく、百石およびそれ以上のものは、百石ごとに全十八両、それ以下のものは金十四両から金三両二分まで、やはり身分別に分配された。これでは、あまり気の毒だというので、身分の低いものに限り、金六両ないし一両を大石の独断で再分配している。  当時の相場で、金一両は米六斗(玄米九〇キロ)に相当した。これを、現在の米価、一升百四十円の割りで換算すると、六斗は八千四百円、ざっと一万円に相当する。  武士の知行は、いまの給料とちがって、祖先の功によって与えられ、代々うけつがれているのであるが、そのかわり、いつでも主君のために命を投げ出さねばならぬことになっている。平和時においても、主君のちょっとしたまちがいから、これっぱかしの涙金をもらって失業させられたのだ。いちおう生活は保障されていたけれど、それほど恵まれたものではなかった。  浅野家の場合は、主君に重大な落度があったのだから、あきらめもつくが、当時幕府の高等政策から、いろいろと難くせをつけて、改易《かいえき》すなわち、とりつぶしになった一万石以上の大名が二十余家、その石高は百四十万石に達している。かりに一万石について平均百人の家来が養われていたとして、総計一万四千人、家族を加えると六、七万人もの失業者を出したことになる。しかも、世のなかは太平無事になって、こういう世襲的職業軍人の再就職はむずかしく、�浪人�という名のルンペンがちまたにあふれた。すべてが固定した制度の上に安定を保っていこうとするには、避けることのできない矛盾だということにもなるのであるが、考えてみると、これは、実に残酷な制度だということがわかる。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という特殊な道徳は、こういった制度の上に発生したもので、すべて生命も生活も主君の手にゆだねられているのだ。  つぎの問題は、浅野藩としての善後策である。これにはふたつの案がたてられた。ひとつは内匠頭の弟の大学をせめて一万石程度の領主にとりたててもらう工作をすること、もうひとつは、なくなった主君の遺志を尊重し、吉良上野介にたいして公平な処置をとってくれるよう、幕府に訴えることである。しかし、どっちも尋常の手段ではききいれられそうもないから、一同城の大手《おおて》(正面)で切腹し、死をもって強訴《ごうそ》嘆願するという非常手段に訴えるほかはない、という結論が出た。いずれにしても、万事大石に一任ということになって、血判状に名をつらねたのは、かれこれ七十余名であった。いわば、経営者のいなくなった会社のストである。  [#小見出し]底流にある陽明学思想  赤穂浪士の仇討ちが成功したのは、主として大石良雄の人柄、その遠謀深慮と統制力に帰すべきである。ところが、大石という人物を明らかにするには、どうしても、大石ばかりでなく、全赤穂藩に大きな影響を与えた山鹿素行という人物の実体をつかまなければならない。  素行の学問的基盤は�|知行合一 《ちこうごういつ》�の陽明学である。陽明学はなによりも実践を重んじ、それに現状打破的性格が強いという点で、封建制度のワク内での一種の革新理論である。現状に満足しない諸侯が、礼を厚うして彼を迎え、士気高揚、産業開発のブレーンたらしめようとした。幕府当局はこれを�危険思想�あつかいするとともに、朱子学をば現状維持の御用学問化することによって、これに対抗しようとしたのである。  陽明学というのは、中国で異民族である�元�の王朝が倒れ、�|明 《みん》�の時代になって、民族主義に基づく思想統制が強化されたとき、政府御用の朱子学に対抗して、王陽明《おうようめい》が唱え出したものである。日本でも徳川の政権が確立するとともに、同じような現象がおこったのである。  日本の陽明学者というと、まず�近江《おうみ》聖人《せいじん》�といわれた中江藤樹《なかえとうじゆ》、備前池田藩の藩政改革にあずかって大いに成績をあげた熊沢|蕃山《ばんざん》の名をあげねばならぬが、彼らは陽明学の右派である。個人の道徳的完成や一藩の産業開発に資するだけで、時の権力に抵抗したり、社会秩序を改めようとしたりするところまではいかなかった。ところが、陽明学の左派は、山鹿素行あたりからはじまって、大塩平八郎にいたり、暴力革命主義的性格をおびて、ついに乱をおこすにいたった。幕末から明治初年にかけての進歩的思想家、もしくは実践的指導者と見られている人々、たとえば佐藤|一斎《いつさい》、佐久間|象山《ぞうざん》、山田|方谷《ほうこく》、横井|小楠《しようなん》から高杉|晋作《しんさく》、西郷隆盛にいたるまで、多かれ少なかれ、陽明学の影響をうけている。  しかし、影響力のもっとも大きかったのは、なんといっても山鹿素行で、彼の思想は赤穂義士による歴史的仇討ちの源流となったばかりでなく、吉田松陰などを通じて、明治維新の有力な原動力のひとつともなっている。松陰は、素行の実子|高基《たかもと》の門人であった吉田|重矩《しげのり》の後裔《こうえい》である。もっとも、松陰自身は杉家から吉田家へ養子に迎えられたもので、重矩の血をついでいないけれど、思想的系譜からいうと、申し分のない素行の直系ということになる。現に松陰は佐久間象山を�わが師�と呼ぶとともに、素行を�先師�として区別し、十七歳で江戸に出たさいには、素行の墓にお参りしたり、素行の子孫の素水《そすい》の家を訪ねたりしている。  また、明治初年に、旧武士階級出身者から、熱烈なキリスト教徒が多く出たことは前にのべたが、かれらの多くは新教徒《プロテスタント》で、陽明学がその思想的な下地になっていた。陽明学とプロテスタントは、頭脳的トレーニングとして、相通じるものがあったのだ。  山鹿素行の先祖は�俵藤太《たわらとうだ》�として知られた藤原|秀郷《ひでさと》の弟|藤次《とうじ》ということになっているが、大石良雄の先祖も、この東国の豪族から出ているという。そんなことはどっちでもいいが、素行は五歳のとき、父とともに会津から江戸に出て、八歳にして林|羅山《らざん》に学び、成年に達する前、五十余巻の著書を出し、三代将軍家光の知るところとなったというから、よほどの秀才だったにちがいない。素行はさらに経書や詩文ばかりでなく、兵学や神道をも学び、三十歳になるやならずで、門人が三千人をこえるほどの人気ものになった。  加賀百万石の前田家をはじめ、全国の雄藩が争って、彼を政治顧問に迎えようとし、いまのプロ野球の大選手争奪戦のような形になったが、結局たった五万三千五百石の浅野藩が千石をふんぱつして、このスカウトに成功した。そして、素行が浅野家に仕えた期間は、かれこれ十年におよんでいるが、ほとんど江戸詰めで、赤穂に出かけたのは、わずか七か月、それも城の一部の設計変更の相談にのるためであった。  フリーになってからは、自由な立場で門弟を教えていたが、四十四歳のとき『聖教要録』という書物を出し、そのなかで朱子学を痛烈に批判したのがたたって、こんどは浅野家へお預けの身分となった。これより十五年前の慶安四年に、有名な由比正雪《ゆいしようせつ》の謀反があったりして、幕府はこういった民間学者の言動にはきわめて神経質になっていたのだ。  それから赦免になるまで約十年間、素行は赤穂で浅野藩士と生活を共にした。そのあいだに、四十七人の藩士が一致団結して主君の仇を報じるといったような、珍しい忠誠心のタネがまかれたのである。  乃木将軍は、吉田松陰の直接の指導をうけたことはないが、彼の父希次をはじめ、松陰の叔父で将軍にとっても親戚であり、思想的トレーナーともなった玉木文之進など、将軍の周囲の人物はたいてい山鹿系陽明学の使徒であった。したがって、山鹿素行の思想は、武士道の実践綱領として、将軍を通じて明治末期まで生きのこり、大正以後の日本にも大きな影響力をもったことになる。  [#小見出し]『中朝事実』を自費出版  山鹿素行は、当時の学界にどのような地位を占めていたか。  かつて荻生徂徠《おぎうそらい》は、伊藤仁斎《いとうじんさい》の徳と熊沢蕃山の才と自分の学とを合わせれば、日本に聖人ができるといった。アメリカの生活水準とソ連の社会保障とイギリスの議会政治と日本の平和憲法とをうって一丸とした�江田ビジョン�のような発想であるが、その�聖人�の構成要索として、彼自身を一枚加えたところは、いかにも徂徠らしく、自信のほどが思いやられる。  ところが、世間では、これに山鹿素行を加えて�四豪傑�といった。しかも、素行をトップにおいた。この四人のなかで、徂徠は中国に心酔し、先祖が物部《もののべ》氏だというところから、�物茂卿《ぶつもけい》�とか�物徂徠《ぶつそらい》�とか名のった。彼は徹底した功利主義者で、ときの権力者柳沢吉保に密着して、その最高ブレーンとなっていた。これに反して、仁斎は理想主義者であり、教育家であった。蕃山は政治・経済に通じ、行政的手腕もあった。素行は日本主義者で、その著書は六百巻をこえているが、なかでも『中朝事実』は、日本の国体を明らかにしたものである。  お隣の中国が、これまでのシナという呼び名をきらって、�中国�とか�中華民国�とかいうのは、中国中心思想、いわば中国の国体明徴主義から出たものである。日本でも、とくに、戦後はこれに同調し、�シナソバ�を�中華ソバ�といわないと相すまんといったようなことになったのであるが、素行の『中朝事実』の�中朝�とは、皇室を中心とする日本国のことで、中国の場合と同じような日本中心思想、国粋主義をいちはやく唱え出しているのだ。  この書物は、素行が赤穂でくらしているときに書いたものであるが、乃木将軍は心の底からこれに共鳴していたらしい。将軍にとってこれは、単なる�愛読書�といったような程度のものではなく、学習院院長時代にこれを自費出版し、一部を皇太子(大正天皇)にも献上している。ただし、本書は漢文で書かれていて、新渡戸稲造博士の『武士道』が英文で書かれているのと好一対だ。もっとも、『武士道』は外国人をめあてに書かれたものであるが、『中朝事実』は日本人が対象になっていることはいうまでもない。いまのわれわれの頭で考えると妙なものだが、当時の著書は、ごく少数の例外をのぞいて、ほとんど漢文で書かれていたのだから、別に不思議でもなんでもない。この時代の日本の知識人の大部分は、学問的なことはすべて漢文で考え、漢文で発表していたのである。  昭和七年、�思想善導�の目的をもって「国民精神文化研究所」というものがつくられたが、そこから『山鹿素行集』が出版された。これには素行の代表的著作がほとんど収められている。素行のあとをうけた乃木精神は、こういう形で昭和時代にまでうけつがれ、�非常時�にのぞんで芽を吹いたということになる。  素行が赤穂藩にお預けとなったのは、寛文六年で、赤穂義士の仇討ちがおこなわれた元禄十五年からかぞえて、三十六年前のことである。前に客分として迎えられていた藩へ、こんどは罪人として送った幕府の処置も変なものだが、素行には別にこれという罪があるわけではなく、ただ江戸にはおきたくなかったのであろう。  赤穂では、前の縁故もあって彼を歓迎し、大切にあつかったことはいうまでもない。家老大石|頼母《たのも》の隣りの邸宅に住まわせたが、頼母は毎日二回、肴をたずさえて素行を訪ね、敬意を表してその教えをうけた。これを約十年もつづけたというが、この頼母は内蔵助良雄の祖父の弟にあたり、たいへんな傑物で、内匠頭長矩の祖父長直に仕えて忠勤をぬきんでた。長直は脳出血で倒れて三年間寝たきりであったが、その間、頼母は帯をとかず、昼夜看護をつづけたともいわれている。当時、浅野家は常陸の笠間からうつってきたばかりだったが、領内の荒れ地をひらいて新田をつくったり、塩田を開発したりして、収入の増加をはかった。のちに長直の二男、三男に、それぞれ三千五百石、三千石を与えて分家させたが、それでも同藩の実収は七万石をこえると見られ、裕福だという評判が江戸にまできこえたくらいである。それが長矩の代になって、吉良上野介へのワイロを出し借しんだため、気の毒なめにあったわけだ。  頼母の妻は長直の娘で、そのあいだにできたこどもは長直の養子に迎えられている。このように、浅野家と大石家は親戚になっていた。浅野藩に限らず、この時代の小藩は、いわば中小企業の同族会社のようなものであった。  延宝三年、ゆるされて江戸にかえった素行は、貞享二年六十四歳でなくなった。明治も終わりに近いころ、素行を葬った牛込の宗三寺で、素行の二百二十三年祭がおこなわれ、素行研究の権威井上哲次郎博士の講演があった。そのとき聴衆のなかに、白髪銀髯の老人がいて、身じろぎもせずに耳を傾けていた。それが乃木将軍であった。 [#改ページ] [#中見出し]大石良雄という人物   ——将軍と同じく警世的効果を同時代におよぼした人間の謎——  [#小見出し]昼行灯と大英断  大石良雄というのは、いったいどういう人物であったろうか。『妙海尼話』によると、 「富家の町人の家をしまいて楽人になりたるようにて、ただおおようなる人なり」 ということになっている。物ごしのおだやかな、どっちかというと、町人ふうの人だったらしい。事件がおこったときは、四十歳を出たばかりだったから、金持ちの若隠居といった感じで、祇園、島原あたりでだらだら遊びをしていても、それがイタについていたのだ。  関ヶ原の戦争がおわってから百一年目で、世のなかも平和に慣れつつあった。赤穂藩の家老としても三代目で、ぜんたいとしてのんびりしていたようである。この点で乃木大将とはまったくちがっていた。年少にして早くも、高杉晋作のひきいる奇兵隊に参加して維新の動乱にまきこまれ、つづいて西南の役、日清戦争、日露戦争と、しばしば実弾のなかをくぐり、実戦できたえてきた乃木将軍に比べると、大石には似ていない点のほうが多いくらいである。人間の型からいうと、乃木将軍は楠正成に近い。  浅野家が断絶して、そのあとに永井伊賀守|直敬《なおひろ》が赤穂に封ぜられて、その家老の篠原というのが大石の屋敷を引きついだ。すると、壁に�律義《りちぎ》ミソ�の製法を書いたはり紙が、まだそのままになっていた。そこで、篠原家でも、大石家の簡素な家風をしのび、その志をついで、この製法にしたがって、ミソをつくることにしたという。  しかし、こういったつつましい生活態度は、封建時代の武家に共通したもので、なにも大石家に限ったことではなかったろう。  平和時における家老としての事務的手腕にかけては、もっぱら行政面を担当していた大野九郎兵衛のほうが、はるかに優れていたようである。大石には�昼行灯《ひるあんどん》�というアダ名がついていたという話は有名だが、京都で伊藤仁斎の門にはいり、その講義をきいていたときにも、よく居ねむりをして、同門のあいだでわらいものになっていた。それでも仁斎は、さすがに目が高く、 「わらっちゃいかん。あの男は、ただものではない。将来必ず大事をなしとげるであろう」 といったというが、この話はあとからつくったものであろう。いずれにしても、浅野家が安泰であったならば、良雄も小藩の家老として平凡な一生をおくったにちがいない。  ところが、凶変がおこってから、城のあけわたし、在庫の米や金の分配、そのあと集団的報復にいたるまでの同志の人選、編成、統率などに、大石が示した手腕は、まったくあざやかなものである。右の不純分子をきり、左の行きすぎをおさえ、五十人に近い人間のたづなをしっかりとにぎってはなさなかった。労働争議にたとえれば、規模の点では中小企業の域を出ないけれど、オルグとしての腕は大したものだったということになる。  とくに、わたくしが大石について感心するのは、藩札《はんさつ》処理に示した彼の平和的な面の能力である。  藩札というのは、諸藩が幕府の許可をえて発行した紙幣の一種で、その領内でのみ通用させていたものだ。商業経済の発達にともなう物価騰貴や、参覲交代などによる出費増加で、各藩とも藩札を乱発する一方、これをもって領内の主要物産を買い占め、独占的に販売して、二重、三重に領民を搾取《さくしゆ》していた。凶変発生当時、赤穂藩の藩札は一万五千両をこえていたが、これが、たちまち紙屑同様になるかもしれぬというので、大混乱におちいりそうだった。しかし、大石は、城にあった公金の大部分を藩札の引き替えにあてて、その混乱を防止し、領民の生活の安定をはかった。�昼行灯�からは、だれしも期待しなかった大英断である。  とにかく、こういった面で、大石の示した手腕はあまりにみごとだったので、肥前の鍋島、肥後の細川、筑後の有馬、土佐の山内、備前の池田等々の諸侯から、あれこれとつてを求め、礼を厚くして、大石を迎えたいという申し出が殺到したらしい。プロ野球の名監督として、どっと人気が出たようなものだ。  この点も、乃木将軍とはまったくちがっている。明治二十九年十月、将軍は四十七歳で台湾総督に任ぜられたが、たった一年四か月で解任された。そもそも乃木将軍のような人物を新付の植民地におくりこみ、行政的手腕を期待するほうがまちがいで、ミス・キャストもはなはだしいといわねばならぬ。  それはさておいて、大石個人があだ討ちの決意を最終的に固めたのは、いつだったであろうか。これについては、いろいろと異説があるが、わたくしの推定では、元禄十五年七月、内匠頭の弟の大学が、本家の松平(浅野)安芸守《あきのかみ》のところへ引きとられることになり、赤穂藩復興の希望が完全に失われたというニュースが、山科《やましな》へ達したときである。それまで、大石は平和的解決の希望をすてなかった。というよりも、和戦の両面作戦をつづけてきたのだと思う。  [#小見出し]山科で道楽ざんまい  よく話題になることだが、赤穂を引き払って山科に閑居してからの大石は、はたしてどういう気持ちで道楽ざんまいの生活をおくっていたのであろうか。これには三つの見方がある。  第一は、あくまで敵をあざむきおおせるための反間苦肉の策から出たもので、好きでもない女を相手に、うまくもない酒をのんでいたという見方。  第二は、どうせ命はないのだから、行きがけの駄賃というほどではないにしても、せめて生きているあいだには、最大限に享楽したところで、文句はあるまいと考えていたという見方。  第三は、これで敵をあざむくとともに、自分も死にみやげにできるだけ楽しむという、一挙両得のつもりで遊んだという見方。  徳富蘇峰などは、この第三の見方をしているが、いかにも蘇峰らしく、現実的で興味がある。  これについて、わたくしの判定をのべる前に、赤穂を出てからの、大石の足どりを洗ってみることにしよう。  赤穂城を明けわたしたのは、元禄十四年四月十九日、凶変後三十五日目で、城の内も外もきれいに掃除ができていたという。  そのあと、大石の腕にデキモノができて、残務整理が少々おくれたけれど、それもおわって、赤穂をはなれたのは六月二十五日である。船で大坂にむかったが、その前に、家族たちを大阪におくり出した。家族は大石夫人|おろく《ヽヽヽ》(|おりく《ヽヽヽ》ともいう)長男松之丞(のちの主税《ちから》良金《よしかね》十三歳)、二男|吉千代《きちちよ》(十歳)のほか、女の子がふたりいた。  大坂で先発の家族とおちあったが、その日はちょうど、天満宮の祭礼で、たいへんなにぎわいだった。大石一家は舟をやとい、これにのって祭礼を見物してまわり、宿にかえったのは、明けがたに近かったという。  二十八日に京都の山科についているが、この地を選んだのは、ここは東海、東山両道の通る地点で、江戸や赤穂と連絡をとるのに便利だったからである。街道筋から、少しはなれた閑静な場所に、しゃれた家を新築し、庭には好きなボタンなどを植えた。だれが見ても、のんびりと余生を楽しもうとしているとしか思えない。  その前、妻子を夫人の実家のある豊岡に送ったということになっているが、これはまちがいで、大石一家は山科で仲よくくらしていたのである。ここで大石は母方の池田姓を名のっている。  大石は、また、備前岡山藩の家老池田|玄蕃《げんば》の子で、大石家へ養子に迎えられたのだという説もあるが、これは彼の母が岡山藩の池田|出羽《でわ》の娘であるところからきた誤解である。良雄の父良昭は、祖父のあとをつぐ前に、三十三歳でなくなり、そのとき、良雄は十三歳であった。この時代の相続法によると、父が戸主でないものの嫡子は、家をつぐことができないので、良雄は形式上祖父の養子となり、その死後に家をついだまでである。  良雄の嫡子主税は妾《めかけ》の子であるという説もあるが、これまた事実ではない。司馬僧正(実は井上|剣花坊《けんかぼう》)著『拙者は大石内蔵助ぢゃ』のなかに「土佐女のお多賀なるものが大石家に下女奉公し、内蔵助の妾となり、大石主税を生む」と出ているが、主税自筆の『義士親類書』には「母|石束《いしづか》源五兵衛娘(内蔵助正妻)」と書いている。この時代には、いまほど妾をもつことを恥としなかったので、義士のなかでも、片岡源五右衛門、早水藤左衛門、岡野金右衛門、間十次郎、横川勘平などは、妾の子とはっきり書いている。内蔵助にも妾がなかったわけではなく、そのあいだにこどももつくっているが、これは女の子だ。  さて、内蔵助の道楽の問題であるが、京の祇園、島原、伏見の撞木町《しゆもくちよう》などにおける彼の遊びぶりは、相当はでなものだったらしい。彼のあいかたは、当時撞木町で全盛をうたわれた笹屋楼の�浮橋《うきはし》�で、廓《くるわ》のなかでは彼は�うきさま�で通っていた。  これから百六十年ばかりおくれて、幕末維新の風雲いよいよ急をつげたころ、薩長土をはじめ、各藩の�志士�たちも、続々京都にのりこみ、藩の機密費で大いに遊んだものである。いわば�藩用族�だ。元治元年�蛤御門《はまぐりごもん》の戦い�(禁門の変)と呼ばれたクーデターに失敗し、流弾にあたって死んだ吉田松陰門下の逸才|久坂玄瑞《くさかげんずい》も、往年の内蔵助の心中を思いおこして、つぎのような小うたをつくったという。   祇園、島原、撞木町、   傾城狂《けいせいぐる》いのそのうちに、   病気なんぞで死なしゃんしたら、   忠か不忠か、わかりゃせぬぞいのう  こういった心事は、非合法時代の共産党幹部についてもあてはまることである。  [#小見出し]同志も疑った享楽 「大石は素行のおさまらぬ人といっては悪いが、女色はあまりきらいでもなかったらしい」と、明治の作家で義士伝の研究家として知られている塚原|渋柿園《じゆうしえん》が書いている。  夫人や幼いこどもたちを、夫人の実家におくって、いよいよ本格的に仇討ちの準備にとりかかってから、大石の道楽も本格的になった。よりよく敵をあざむくためともいえるし、死を覚悟するにおよんで、現世的享楽がいやました、と見られないこともない。しまいには、同志の人々までが、疑念をいだきだした。それに、軍資金をそうひとりで、湯水のようにつかわれてはたまらぬ、ということになった。 「いくらなんでも、遊びがひどすぎる。ひとつは夫人がいなくなったからでもあろう。このさい側女《そばめ》でもおかせてはどうか」 というわけで、周旋屋にたのみ、京都の二条寺町辺に住む一文字屋という古道具家の娘|かや《ヽヽ》というのを見つけて、大石にあてがった。彼女は評判の美人なので、大石は大いに喜び、山科の家に迎えてたいへん可愛がった。女のほうでも、心から大石を愛したといわれている。  赤穂の城をあけわたす前、大石の手から全藩士に涙金を分配したが、大石自身は一文もとらなかった。したがって、遊興費はすべて大石家の財産を処分したところから出ているということになっているが、あれだけの計画を立てながら、それに必要な機密費をのこしておかなかったはずはないし、いくら清廉な男でも、その機密費にぜんぜん手をつけなかったということは考えられない。  いずれにしても、いよいよ仇討ち決行のプログラムが具体的にできあがったころには、あり金をほとんどつかいきってしまい、まだ足りなくて、京都にある親類で、近藤家につとめていた進藤筑後守|長富《ながとみ》から、百両の借金をしている。  山科を引きはらって、江戸にむけて出発するときは、岡山藩の家老池田玄蕃の招きで、岡山にいくということにし、愛人の|かや《ヽヽ》にもそのむねをさとして、実家へひきとらせた。借りた百両は手切れ金の一部になったのかもしれない。江戸へついてからも、緋《ひ》無垢《むく》をわざわざ彼女のところへおくりとどけている。  こういった話は、大石の人柄を示していておもしろいが、どこまでが事実だかわからない。しかし、全部が全部つくられたものでもあるまい。結論として、元禄十四年の六月の末、山科に居をかまえてから、翌年の十月はじめに江戸へ下るまで、まる一年三か月間、彼はじゅうぶんに人生を楽しんだということになる。  仇討ちという大仕事と、そのあとに必ずくるにちがいない死を前にして、心の底から楽しめるものではないという考えかたもある。しかし、死が確定して目の前にせまってくるまで、それほど気にしない例は、特攻隊員、死刑囚、不治の病をわずらっている人々などの場合にも少なくない。とくに、幼少時代から武士道できたえられてきたもののあいだでは、死というものを現代人ほど神経質に考えていなかったろう。現に仇討ちをおえて、細川家などへお預けとなった義士たちのあいだでは、いよいよあすは切腹ときまったその前夜、いまでいう�ノド自慢大会�のようなものを開いたという記録ものこっている。  大石という人物は、いろんな文書を通じてうける印象からいうと、わたくしには、総評議長の太田|薫《かおる》のような人柄ではなかったろうかという気がする。社会運動家としての太田は、完全に戦後派で、どっちかというと模範的な社員だったのが、終戦直後の労働争議花ざかりのころ、推されて組合長となり、ついにはかつての軍部にたとえられるような闘争組織の全国的な最高指導者にまでなったのである。こういった時代のはげしい渦にまきこまれることがなかったならば、今ごろは重役になって、経営陣に加わっていたかもしれない。人柄や統率力からいうと、社長の役も、りっぱに果たせる人物だ。少なくとも、戦前からの職業的社会運動家に多い闘争型ではない。太田というのは養家の姓であるが、良家の養子に迎えられそうな面をも身につけている。  古い社会運動家でいうと、よく似ているようだが、大山|郁夫《いくお》は闘争型で、安部磯雄は教育家型だった。共産党幹部では、徳田球一が闘争型で、野坂参三は教育家型だ。徳田は享楽もきらいなほうではなかった。党の機密費もいくらか、そのほうへまわしていたろう。伊藤律にいたってはドン・ファンの一変種で、対女性関係においても、地下運動同様の刺激とスリルを見いだしていたのではあるまいか。  社会運動界で、乃木将軍に近い警世家型を求めるならば、太田の前に総評の陣頭指揮をしていた高野|実《みのる》であろう。彼はいつもツメエリの服をきて、生活はつつましく、いわば左翼の乃木将軍である。  とにかく、安部や野坂は、大石良雄の立場に身をおいたとしても、大石の真似はできなかったにちがいない。こういう戦略は考えもしなかったろう。乃木将軍についても同じことがいえる。大石の果たした偉大な警世的役割りは、結果においてそうなったのであって、乃木将軍の場合のように、計画的でも、性格的でもなかった。  [#小見出し]脱落あいつぐ  義士のなかで、終始戦闘的態度をとりつづけていた神崎《かんざき》与五郎が書きのこしたものに、『筆誅録《ひつちゆうろく》』というのがある。これには「一家の士三百八人、石肝鉄心のもの百十八人」と出ているが、いよいよとなってその三分の二近くが脱落してしまったわけだ。これを読むと、脱落の過程、脱落者の人柄や環境、脱落の原因や口実などがよくわかり、いまの労働争議の場合などと比較して、興味深いものがある。  はじめは硬派で、途中から軟化して、ついに脱落したものの代表は奥野|将監《しようげん》である。彼について、神崎はつぎのごとく�筆誅�を加えている。 「奥野将監、はじめは義をたくましくし、祖|山城《やましろ》半左衛門の武功を貴ぶ、しかもその鉄心たちまちとろけ、しかして空しく不義の泥水に入るものなり」  よかれ悪しかれ、すぐ先祖の名が出てくるところ、この時代の性格をよくあらわしている。脱落者というよりも、悪役の見本として、芝居などにも登場してくるのは大野九郎兵衛だ。神崎にいわせると、 「大野九郎兵衛、その気濁りて深姦邪欲なり」 となっている。彼は赤穂を引き払って行くときに、あわてふためいて、空家にいたいけな孫娘をおき去りにした。それに、むすこの郡右衛門とともに、武具や家財を梱包して、赤穂の商家へ預けて行ったが、義士たちがこれを見つけて、封印をほどこした。数か月たってから、大野父子が夜なかにこっそりやってきて、刀箱を開き、そこに入れてあった金三百両をとり出し、カゴにのって逃げ出そうとした。それが見つかって、袋だたきにあいそうになったので、父子とも青くなり、ガタガタふるえながら、箱から出した金をさし出したが、町中を引きまわされて追放された。それでも、内匠頭夫人や大石に哀訴して、預けた家財類をとりもどしたという。この話は、こういう場合にのぞんだ人間の物欲が、よくあらわれていて面白い。  また、赤穂藩士のなかに、萩原兵助、儀左衛門の兄弟がいて、どっちも握り屋で通っていた。器物もたくさんもっていたが、なかでも�大筒《おおづつ》�(大砲)二丁は、家の宝として知られていた。幕府の命をうけて、赤穂城をうけとりにきた隣の藩(播州竜野藩)の脇坂淡路守が、このことをきいて、ぜひ譲りうけたいということになり、けっきょく高い値で売りつけた。この時代には、隣の藩といえば、敵国も同様である。この期《ご》にのぞみ、こういうあくどい取り引きをしたというので、萩原兄弟は非難の的になった。  そうかと思うと、千葉三郎兵衛のような例もある。彼はあらたに百石で抱えられたものだが、律義ものでなんでも遠慮なくいってのけるものだから、内匠頭のゲキリンに触れ、永《なが》の暇《いとま》ということになった。そこで、一家を整理して、荷物は大坂に住んでいる兄のほうへむけて発送し、自分もその兄をたよって大坂へ行こうとして、船つき場まできたとき、お家断絶のニュースがつたわった。すると、彼はその足で赤穂に引き返し、大石にたのんで、仇討ちの仲間に加えてもらった。  このほか、すでに浅野家の禄をはなれて浪人になっているものもあちこちにいたが、このニュースをきくや、さっそく大石のところへかけつけてきた。不破数《ふわかず》右衛門《えもん》、間新六などは、このグループから、仇討ちにも参加したものだ。かれらの仇討ちは、これで名を売って、再就職のチャンスをつかもうとする下心からだという見方もあるが、実はもっと性格的なもの、というよりも、本能化された忠誠心から出た行動と見るべきではあるまいか。  脱落組で、いちばん手がこんでいるのは高田郡兵衛の場合である。郡兵衛は槍術の達人として知られ、これまた二百石で、新しく浅野家に抱えられたものである。叔父に旗本がいて、彼を養子に迎えたいといって、きかなかった。当時、郡兵衛は兄と同居していたが、兄はことわりきれなくて、弟の秘密を叔父にうちあけた。叔父は驚き、直参《じきさん》の身としてききずてにならぬ、さっそく公儀に訴えねばならぬといった。これを立ちぎきしていた郡兵衛は、そこへ姿を見せて、いまの話は兄の臆測にすぎないと、その場をとりつくろい、養子の件は、よく考えて返事しようといった。  進退きわまった郡兵衛は、親友の堀部安兵衛にこれをうちあけ、このうえは同志たちの前で切腹しておわびするほかない、といった。しかし、そんなことをされては、かえって幕府の嫌疑を深めるだけだから、けっきょく彼の脱退を認めることになった。  さて、義士たちが仇討ちに成功して、泉岳寺に引きあげてきたとき、郡兵衛はお祝いの酒をもってかけつけてきたが、義士たちはつっかえしたという。これは裏切りの口実に、念入りに仕組んだお芝居だと見られている。  [#小見出し]新参者が多かった  人間が幾人かあつまって、なにか大きなことをしようとする場合、必ず、そこに急進的な左派と穏健な右派が発生する。それに思想が加味されてくると、両派の対立はいっそうはげしいものになる。共産党、社会党などの場合は、これが公式のようになっている。  赤穂義士たちのあいだにも、左派と右派があった。しかも、領地から遠くはなれた江戸詰めのものに左派が多く、赤穂には右派が多かった。高田の馬場の仇討ちで知られた堀部安兵衛をはじめ、奥田孫太夫、それからのちに脱落した高田郡兵衛は、江戸の急進派三羽ガラスともいうべきで、早く決起せよとせめたてた。吉良の白髪首をうちとるのに、そう多くの人数も、ものものしい準備もいらない、腕っぷしの強いのが十人もいればじゅうぶんだというわけだ。軽挙妄動して、内匠頭の弟の大学がお家再興の許しをうけるさまたげになってはならぬというけれど、それは卑怯もののいいのがれにすぎない、ぐずぐずしているうちに、吉良が病死しようものなら、万事休すだ、というわけでいきりたった。堀部のごときは、手紙のなかで「上方《かみがた》の永分別《ながふんべつ》にも飽きはてた」とののしっている。  こういう現象はどうしておこったのであろうか。同じ赤穂藩士でも、江戸詰めのものは、江戸でかかえられたものが多く、そうでなくても江戸に住みついていると、気の早い江戸っ子|気質《かたぎ》に同化するということも考えられる。それよりも見のがしてならないのは、人間の大勢住んでいるところには、必ず世論というものが発生する。そして、この世論の影響力(圧力といってもよい)は、それを生む基盤となっている人口の量に比例する。当時の江戸は、将軍のおひざもととしてすでに大都市になっていたから、世論が強く人心に作用した。そして、その世論は、幕府のとった処置を非難し、赤穂藩に同情をよせるとともに、仇討ちを督促する形をとってきたのである。  仇討ちに参加するしないは、当人の忠誠心によってきまるのであるが、その忠誠心の度合いは、浅野家とのつながりの強弱——先祖以来つとめてきた年数、もらっている禄高、その他、主家からうけている恩恵の厚薄といったようなものによってきまるとは限らない。もっと性格的なもの、世論にたいする感応力によって動かされる場合が多い。当時の日本はすでに、江戸を中心として、世論の時代にはいっていたのである。見方によっては、義士の�快挙�そのものも、実は世論の産物であり、逆にまたこれによって世論の威力を増加したということにもなる。  現に、義士の身分を調べてみて気がつくことは、案外新参ものが多いことである。赤穂藩士は、内匠頭で三代目になっているが、寺坂吉右衛門をのぞいた四十六士中、譜代の家臣として仕えているものが二十人(十六家)、二代に仕えたものが十八人(十四家)、新参ものが八人(七家)となっている。  この四十六士に、討ち入り前自刃した萱野三平と橋本平左衛門(医者)のふたりと寺坂を加えると四十九士になるが、このなかで百石以上とっているのは二十四人、二十五石以下のものは二十五人となっていて、ちょうど半々だ。下級武士は、会社でいうと、平社員、臨時雇い、給仕、守衛、掃除夫といったところである。この連中が、このように高い忠誠心を示し、高級社員に相当するものが比率においてぐんとおちるということは、何を物語るのであろうか。  それに答える前に、この義士団の構成にかんする数字を、もう少しならべてみることにしよう。  討ち入った者の年齢別でいうと、七十六歳の堀部弥兵衛が最高、十五歳の大石主税が最低で、七十歳代がひとり、六十歳代が五人、五十歳代と四十歳代が各四人、三十歳代が十八人、二十歳代が十三人、ティンエージャー二人となっている。ぜんたいの平均年齢は三十七歳である。三十歳代が圧倒的に多いのはうなずけるが、六十歳以上のものが六人も参加しているのは、古い世代の忠誠心がまだ強く生きのこっていることを示すものだ。  つぎに興味のあるのは、義士のなかで、親子、兄弟、親類などでつながっているものが多いことである。大石良雄系が四人、吉田忠左衛門系が五人、小野寺|十内《じゆうない》系が四人といったぐあいで、親類閥が二十六人も加わっている。これは義士団ばかりでなく、こういった小藩の同族会社的性格を物語るものである。  これらの事実は、関ヶ原の戦争がおわってから百年あまりたって、全日本の統一が完成し、封建制度が確立するとともに、その中身がかなり変質していることを示している。ということは、武士道とか忠誠心とかいうものが、必ずしも世襲的・職業的武士階級のあいだに独占されている実践的な道徳ではなくなってきたということだ。  [#小見出し]慎重な�同志選び�  大石の第一回|東下《あづまくだ》り(関東へ行くこと)は、元禄十四年の十月二十日に山科を立って、十一月四日に江戸へついている。  江戸の急進派が、単独でも仇討ちを決行しかねまじい状態におちいったので、これを鎮撫《ちんぶ》するとともに、吉良家の様子をさぐるのが目的であった。  上野介は、負傷がいえるとまもなく、役儀ご免を願い出て許された。さらに、養子の左兵衛佐義周《さひようえのすけよしちか》に家督をゆずって隠居の身となった。自分のしたことに気がとがめたか、身辺の危険を感じたか、世論の圧力に屈したかのどちらかであろう。  吉良邸は、役職の重要さから、登城に便利な呉服橋にあったが、現職を去ると、こういうところに住んでいるのをうしろめたく感じたか、それとも幕府から内意でもあったのか、本所の旧松平|登之助《のぼりのすけ》の屋敷をもらって、そのほうへうつった。  こうなると、吉良の首をねらう側には、条件がよくなった。というのは、呉服橋だと、丸の内(江戸城構内)に属しているので、これに切りこみをかけたとすれば、それだけ罪が重くなる。それに本所の屋敷は、造作がそうがんじょうにできていない。  これでは、ご公儀から内匠頭の家来に、上野介を討てというナゾをかけられたも同じではないか、といったような評判が、江戸じゅうにひろがった。これを耳にして、江戸の急進派がますますいきり立ったことはいうまでもない。  いずれにしても、仇討ちがこうのびのびになっては、分配された金をつかいはたし、その日の生活にも困るようになる。世間ではきっと、赤穂浪士は食うに困って仇討ちをしたというだろう、それではやりきれないといい出したのは堀部安兵衛である。  こういった連中から攻めたてられて、ついに大石は、十五年の三月、すなわち内匠頭の一周忌までには必ず決起するという言質《げんち》をとられた。そして、まもなく山科にかえった。  だが、翌年二月二十五日の山科会議では、 「いかにも江戸会議では三月決起説に同意したけれど、これは江戸派の士気を沮喪《そそう》させたくなかったからで、大学殿の処分がきまらぬ前に、こちらから事を破ることはできない」 といって、どうにかなだめることができた。しかし、七月十八日、大学の処分が最終的にきまった以上、決起を延期する、ただひとつの理由もなくなった。  そこで、七月二十八日、京都|円山《まるやま》の重《じゆう》阿弥《あみ》の山荘において、さいごの幹部会議が開かれた。これには、江戸派、上方派を合わせて十八名が出席したが、幹部で欠席したものが二名あった。それでも、同盟に名をつらねていたものが、まだ百二十名ばかりいた。このなかから、安心して大事をうちあけられる、ほんとの同志をどうして選べばいいかということが問題になった。  大石は、この鑑定役に大高源吾と貝賀《かいが》弥左衛門を選び、ふたりにある策を授けた。ふたりは同志の家を一軒一軒訪ねて歩いて、まずこういった。 「大石殿の命をうけて参上いたしましたが、実は大学殿もおききおよびのような始末で、お互いの忠義も、もはやこれ限りということになりました。ついては、おあずかりした盟約書は、ひとまずお手もとにご返却申し上げます」  これをきいて、すなおに盟約書をうけとったものは、脈のないものである。これに反して、 「こんな腰ぬけとは知らずに、ともに大事をはかったのは心外千万である。ことばかわすもけがらわしい」 と、まなじりを決して怒ったものは、ほんものだということになる。こういう人物には、仇討ちがいよいよ実行の段階にはいったことをうちあけ、誓いを新たにしたのである。戦後は、そんなことはないが、戦前、左翼的な組合運動がほとんど非合法に近い状態にあったころ、ストを決行する場合、これに似た手続きをふんだ例もあったときいている。  さて、江戸についた大石は、日本橋の小山屋というところに宿をとった。ここには、ひと足先に江戸へ下った息子の主税が滞在していた。江州(滋賀県)の金持ちのせがれが訴訟ごとに出ていて、そこへ、叔父が後見にやってきたというふれこみだった。この小山屋というのは、当時の一流旅館で、オランダの甲比丹《カピタン》の定宿《じようやど》になっていた。のちに甲比丹は、大石が同宿していたことを知り、大いに感激して、本国にもそのことをくわしく書きおくった。�ローニン�とか�ハラキリ�とかいう日本語が、日本独特の風習とともに、ヨーロッパに伝えられたのは、これがはじめてだろうといわれている。  それにしても、赤穂浪士が仇討ちをするというウワサは、そのころ江戸じゅうに相当ひろがっていたらしい。幕府がたのスパイが、かれらの動きを本気に内偵していたら、気がつかぬことはないはずだ。それは「五・一五事件」前後から「二・二六事件」にいたる一部軍人の動きと同じで、軍首脳部や憲兵隊へつつぬけになっていても、ついにおさえきれなかったようなものである。  [#小見出し]義士に死者なし  赤穂浪士の討ち入りは、元禄十五年十二月十四日の夜となっているが、実は十五日の午前四時から六時までで、約二時間でおわっている。当時の習慣では、翌日の明けがたまで前の日にくり入れることとなっていたのである。  同志たちの�起請文《きしようもん》�すなわち盟約書とともに、討ち入り当夜の心得書、いわば作戦要務令のようなものをつくって、同志たちにくばっている。これは大石の命をうけて副統領格の吉田忠左衛門が起草したものだというが、実にこまかいところまで、神経をはたらかせているので感心する。  二、三の例をあげると、戦闘単位は三人ずつになっていて、お互いに助けあい、他をかまってはいけないことになっている。どんな役目をあてがわれても、亡君へのご奉公にかわりはなく、功の軽重を問わないのだから、異議を唱えてはならぬといましめている。武器は各自得意のものをつかっていいが、槍の柄は九尺にちぢめさせている。これは室内戦を予想してのことだ。味方に負傷者が出たら、同じグループのものが肩にかけて引きとり、それもできないばあいは、その首をきって敵の手にわたさぬようにせよといっている。目的を達したときの合図や引きあげるときの注意事項も綿密に指示している。目的を達しなかった場合には、全員が吉良邸内で切腹することになっていた。  これらの作戦は、いずれも山鹿流の兵法に基づいてたてられたのであるが、有名な討ち入りのときの太鼓のうちかたは、乃木大将の説によると、山鹿流でなくて越後流、すなわち上杉|謙信《けんしん》流ということになっている。どうしてこれを選んだのか、吉良家は上杉家と関係が深いからなのか、この点になると、わたくしにはよくわからない。  この戦闘で、吉良側の死者は上野介をふくめて十七人、負傷者は上野介の相続人左兵衛佐を加えて二十二人で、合わせて三十九人の死傷者を出している。これに反して、攻撃者側は死者はもちろん、重傷者が一人も出なかったというのは、まさに奇跡といわねばならぬ。あるいは�攻撃は最良の防禦なり�という原則を裏書きしたことにもなる。  吉良家には三人の家老がいたが、戦闘にはひとりも参加しなかった。これではいかにも不面目だというので、自分の手でひたいに傷をつけ、あとからノコノコあらわれて出たが、刀槍の傷でないことを見破られ、恥の上ぬりをしたという話も伝えられている。この時代は、赤穂義士のようなものを生み出す一方、武士の多くが、その世襲的特権の上にアグラをかいて、会社の重役、もしくはサラリーマンに近い存在と化していたことを物語るものである。  さて、首尾よく目的を達した義士たちは、吉良邸前で勢ぞろいして、予定どおり両国の回向院《えこういん》にむかった。  回向院というのは、これより四十五年前の明暦三年(一六五七年)一月十八日、本郷の本妙寺から火が出て、五百余の町々を焼きはらい、十万八千人の死者を出したとき、その死体をはこんできて埋めた無縁寺である。ここの境内において勧進相撲がおこなわれるようになったのは、天明元年(一七八一年)のことで、その後、国技館ができるまでは、回向院といえば相撲の代名詞のようになっていた。  義士たちは、ここでひと休みして、吉良家の残党や上杉家の援軍が攻めよせてくれば、花々しく一戦をまじえた上で討ち死するつもりであったが、敵はついにあらわれなかった。それに、寺の住職たちは、事情をうちあけてたのんでも、門を開いてもくれなかったので、やむをえず一同は内匠頭の墓のある泉岳寺にむかった。  このころになると、夜はすっかり明けはなれて、ヤジ馬がワンサとおしよせてきたことはいうまでもない。ウワサはその日のうちに江戸じゅうはもちろん、その近在に伝わったといわれているが、日本の末端にまでひろがるのに、いったいどのくらいの日数を要したであろうか。�口《くち》コミ�のスピードを知る上にはまさに絶好で、かねてからこの研究に手をつけたいと心がけているのだが、現在わたくしの手もとにはこれにかんする確かな資料はほとんどない。  それはさておいて、この十五日という日は、大小名の�お礼日�で、登城して将軍にお目みえする日にあたっていた。その日に、こういう大事件があったのだから、いまなら、さしずめ、新聞社さしむけのオープン・カーにのって、ビルの窓から投げる紙ふぶきをあびながら進むところだが、義士たちは大小名の通路を避けて、目だたぬコースを選んだ。まず、回向院から南へとり、深川にはいって永代橋をわたり、築地|鉄砲洲《てつぽうず》にあった旧浅野邸を今生《こんじよう》の見納めに見て、木挽町《こびきちよう》、汐留橋、金杉橋、芝口を経て、泉岳寺についたときには、午前八時ごろになっていた。  泉岳寺のことを�万松山《ばんしようざん》�というが、幼少年時代の乃木将軍が�生きている武士道�ともいうべき父に手を引かれて、毎月かかさず、ここにお参りしたころには、このへんはすっかり松山になっていて、近くに海が見えたそうだ。ここで将軍は、�切腹�の思想と作法について実地教育をうけたうえ、義士たちの錦絵《にしきえ》を買ってもらったのである。 [#改ページ] [#中見出し]江戸町民が見た義士   ——明治で公認賛美されるに至るまでの義挙の受け取られ方——  [#小見出し]義挙に寛大な処置  仇討ちに成功して回向院《えこういん》から泉岳寺に向かう途中、大石は吉田忠左衛門に富森助右衛門をつけて、愛宕《あたご》下の大目付|仙石《せんごく》伯耆《ほうき》守久尚《のかみひさなお》の屋敷へ自首させている。  伯耆守は、じきじき事情をきいたうえ、さっそく登城して政府に報告、さしあたり、義士たちを四つのグループにわけ、細川、松平、毛利、水野の四家に身柄を預けることとなった。  当時の伯耆守の地位は、いまでいうと、行政管理庁長官と検事総長を兼ねたようなものである。これが、義士たちの行動に、すっかり感心してしまったのだ。  政府は、さっそく評定所《ひようじようしよ》に命じて、この事件を裁定させることにした。評定所というのは、江戸時代の最高裁判所で、寺社|奉行《ぶぎよう》、町奉行、勘定奉行のほかに、大目付、目付も列席して審議し、その結果は、多数決できめて答申するのであるが、きまらないばあいは、反対側の意見をもそえて老中に提出し、その裁定をうけることになっていた。  この事件にたいする評定所の答申書を見ると、吉良、上杉の両家にたいしては、きわめてきびしく、浪人たちにはすこぶる寛大で、内匠頭のばあいとはまったく逆になっている。これも当時の世論の反映と見るべきであろう。  被告となった義士たちが預けられた四家のなかで、乃木将軍の主筋にあたる毛利家のことは前にのべたが、細川家は熊本の城主で、五十四万石の大藩だけに、大石良雄以下十七人をあずかった。当主は細川越中守|綱利《つなとし》といった。明治の法制学者細川潤次郎博士の書いたものによると、大石の切腹にさいし、介錯人となった安場一平《やすばいつぺい》という細川藩士は、明治時代に地方長官として鳴らした安場|保和《やすかず》の祖先である。死を前にして大石がいうには、自分は薩摩にならって、赤穂でも蝋《ろう》をとるハゼの木を空地にうえたいと思っていたが、ついに実現することができなかった。ついては細川藩にこれをすすめたいというわけで、細川藩でさっそくこれを試みたところ、好成績をあげたという。  松平藩は、伊予松山城主で十五万石、当主は松平隠岐守|定直《さだなお》といった。愛媛県の現知事久松|定武《さだたけ》の先祖である。乃木将軍が毛利家の江戸屋敷の長屋で生まれたように、有名な俳人内藤|鳴雪《めいせつ》は、芝三田一丁目にあった久松家の中屋敷の長屋で生まれている。鳴雪は変わった経歴の人で、文部省の役人であったが、病気でやめたあと、旧藩主にたのまれて、同郷出身の学生寮の監督をしているとき、学生のなかに正岡|子規《しき》がいて、その影響をうけ、四十六歳で俳句をはじめたのである。これにつづいて松山から高浜|虚子《きよし》、河東碧梧桐《かわひがしへきごどう》などが出るし、俳誌『ホトトギス』も、はじめ松山で発行された。夏目漱石も松山で中学校の先生をしているうちにその感化をうけ、松山は明治俳壇のふるさとのようになった。  松平藩にあずけられた義士は、大石主税以下十人である。主税は数え年で十六歳になったばかり、いまならまだ中学生であるが、死ぬときの態度は実にりっぱだったという。義士たちの切腹したあとにたてられた五輪塔は、鳴雪の「幼心に義士の観念を、堅く深く印象せしめた無言の教師であって、義士に関する錦絵や演劇、伝記などにも、少年のころから非常の感興を有し、物心つくにしたがい、ぜんじ崇敬の念を加えた」と書いている。  ところで、細川家では、はじめから義士たちにたいへんな同情をよせ、待遇もきわめてよかったのに反し、他の三家はすこぶる冷遇したように書いたものが多いけれど、これは事実ではないと鳴雪はいっている。しかしながら、各藩の立場や家風などによって、義士たちの待遇に多少の差のあったことは、彼も認めている。  細川家は、外様《とざま》中の大藩で、その声望、実力ともに、それほど幕府をはばかる必要のない地位にあったけれども、松平藩は「元来が幕府の親類で、当時は譜代大名同様の立場にあったので、何事についても、一々老中の指揮をうけていたれば、かかる大事件、高家の筆頭を討ちとりたるものにたいしては、その忠義にはいかに大なる同情をよせるも、もし幕府の意思に反するようなことありてはとの懸念より、何事も藩限りの取り扱いをなさず、万事当局の指図をうけ、当局が十分寛大の方針であることを確かめた以上、できる限り鄭重の待遇をなすこととした」というわけだ。  この鳴雪のことばのなかで、�幕府�のかわりに�池田内閣�を入れ、�松平藩主�のかわりに�自民党系知事�を入れたならば、この文章はいまでもそのまま通用しそうである。現に、�土曜交代休日制�を独断で実施したというので、政府からおしかりをうけた故|加納久朗《かのうひさあきら》千葉県知事は、上総一宮で一万二千石の小名の子孫である。そこへゆくと、愛媛県の久松現知事は、先祖が赤穂義士の処遇についてとった立場を、いまも忠実に守っているように見うけられる。  [#小見出し]江戸市民は支持  世間に強いショックを与えるような大事件がおこると、必ずそれにたいする反応があらわれる。その反応は世論という形をとるのであるが、その世論を検討することによって、その時代、その社会の性格をつかむことができる。  明治天皇の御大葬当日、乃木大将夫妻が自刃して、社会に強いショックを与え、これにたいする批判や意見がいろいろと出たことは、前にくわしくのべたが、これより二百十年前、赤穂浪士が主君の仇を討ちとるという事件がおこったときにも、これが世間で話題の中心になったことはいうまでもない。  こういう場合の世論は、ふたつにわけて考える必要がある。ひとつは一般民衆のこれにたいする感情的反応であり、もうひとつはその社会で指導的立場にある人々の意見である。両者は必ずしも一致するわけではなく、むしろ分裂し、対立することのほうが多い。むろん、指導的立場にある人々の意見にも、分裂や対立のあることは、近ごろでも、ことあるごとに新聞・雑誌やラジオ・テレビに出ている社会的名士のアンケートや評論が示すとおりである。  赤穂浪士の場合と乃木将軍の場合を比較してみると、乃木夫妻の自刃は、その社会的影響がどうあろうとも、純個人的なケースとして批判の対象になったのに反して、赤穂浪士の討ち入りは、大きな社会的事件としてあつかわれた。乃木将軍の場合は、�狂人か、忠臣か�ということであったが、赤穂浪士の場合は�乱臣賊子か、忠臣義士か�ということで、意見がわかれた。  高家《こうけ》という高い地位にある人物を討ちとるために、五十人に近いものが計画的に徒党を組み、ついにその目的を達したのであるから、社会秩序をみだす非合法的行為であることは明らかである。この点は、由比正雪や大塩平八郎の場合と同じである。しかし、赤穂浪士のねらったのは、吉良上野介という一個人であって、徳川政府打倒でもなければ、社会秩序の破壊でもなかった。  事件発生当時、大石良雄の名で幕府当局に嘆願書を出しているが、そのなかで、 「あえて朝廷を仇とするには非ざるなり。ただ城につきて自殺し、もって人臣の分を明らかにせんと欲するのみ」 といっている。この場合の�朝廷�というのは、幕府を指しているのであって、皇室のことではない。大石のこの文書ばかりでなく、当時の学者たちも、たいてい幕府のことを�朝廷�といっている。それは政治の実権をにぎっているものを意味したのだ。これを皇室の意味に用いるようになったのは、徳川幕府も末期に近づいて、尊皇意識が強くうち出されてからのことである。  いずれにしても、赤穂浪士たちは、たしかに治安をみだしはしたが、政治性はほとんどなかった。逆に、身命を犠牲にして主君の志をつぎ、その仇を討つということは、武士道的道徳思想の根幹をなすものである。この点からいって、当時の学者も民衆も、安心して赤穂浪士を�義士�あつかいすることができた。現に、町人をもふくめた市民社会におけるかれらの人気は圧倒的で、批判も例外も許さぬという形であった。  明治末期の日本には、西欧的な自由主義思想が相当広く、深くはいっていたので、乃木夫妻の自刃にたいしても、一部には否定的もしくは無関心の態度を示すものもあった。これに反して元禄末期の市民心理は、もっと単純であり、単一でもあった。というよりは、武士階級の停滞、腐散、無気力にたいする抵抗感の底流が、赤穂浪士の�義挙�を過度にもちあげたきらいがないでもない。これに似た複雑微妙な心理は、戦後の反米感情のなかにもまじりこんで、反基地闘争、安保反対闘争を心理的に水増ししているともいえる。松本清張の推理小説が、多くの読者をつかんでいるのも、戦後におこったナゾの事件、たとえば下山事件、松川事件などの真犯人をすべてアメリカの進駐軍らしくにおわせることによって、この大衆心理に投じたものと見られよう。  徳川時代には、復讐《ふくしゆう》そのものが美徳とされてきたのであって、決して犯罪ではなかった。逆に復讐をおこたったものは罰せられたのである。家康の遺訓にも、 「主父の怨寇《えんこう》は、これをむくゆるためには、共に天を戴くべからずとて、聖賢もこれを許せり。この讐あるものは、決断所帳面に記し、年月をしるしてその志を遂げしむべし」 とあって、大いに仇討ちを奨励しているのだ。  仇討ちを禁止する法律ができたのは、明治六年になってからである。主君のためのさいごの仇討ちは、明治四年十一月、加賀の金沢でおこなわれた。この事件では、十二人が切腹を命じられたけれど、やはり�烈士�としてあつかわれた。  要するに、赤穂浪士にたいして、幕府当局がどのような判決をくだすかということは、単に世間の最大の関心の的となったばかりでなく、幕府自身にとっての試金石とも見られたのである。  [#小見出し]�特赦�の風説も  五十年ぶりで青天白日の身となって、�日本の巌窟王《がんくつおう》�と騒がれた故吉田|石松《いしまつ》翁の場合は、自分の無実を立証することが目的であって、自分を罪におとしいれた人々——彼に不利な証言をした真犯人や、これをうのみにしてまちがった判決をくだした裁判官などに復讐することを考えていない。この点でデューマ作『巌窟王』のモンテ・クリスト伯とは、まったくちがっている。ひとつは、日本人とヨーロッパ人の基本的性格のちがいでもある。  西欧でも、むかしは復讐が公認されていた。復讐のもっとも盛んだったのは、ナポレオン一世を生んだコルシカ島である。コルシカは、地中海では四番目に大きい島だが、面積は日本の四国の半分たらず、人口も十分の一程度である。古くからさまざまな人種が雑居し、そのあいだに闘争が絶えなかった。十四世紀以来、この島を領有していたジェノバもついにもてあまし、ナポレオンが生まれた一七六九年の前の年、フランスにこれをゆずったくらいだ。この島で復讐が盛んだったのはその前で、復讐のそのまた復讐がおこなわれるという悪循環がつづき、それで命を失ったものが七千人に達したという。そこからナポレオンのような人物が出たのも決して偶然ではない。  そこへいくと、日本人の復讐はあっさりしている。道徳性をおびているとともに、江戸時代にはそれがいくらかスポーツ化されていたともいえる。  渡辺|世祐《せいすけ》博士が、昭和八年九月、中央義士会でおこなった講演によると、義士たちをあずかった細川、松平、毛利、水野の四家では、それぞれ|つて《ヽヽ》を求めて、老中に助命運動をおこない、ながく自分たちの家におあずけということにしていただきたいと願い出ている。そしてそれが許された場合には、自分たちのあずかっている義士たちのため、りっぱな大小、紋付き、カミシモなどを新調して、自分たちの家から送り出したいとその用意までしたという。それにしても、こういうことは、とても人力ではおよばぬ、神仏にたよるほかはないというので、各家とも、諸寺諸山にご祈願をしてもらったりしている。よもや切腹にはなるまい、せいぜい遠島《えんとう》くらいで、三、四年後には特赦になるだろう、という風説がもっぱらであった。というのは、それより三十年ばかり前の寛文十二年におこなった江戸|浄瑠璃坂《じようるりざか》の仇討ちの例も、まだ世人の記憶にのこっていたからだ。  浄瑠璃坂の仇討ちというのは、下野宇都宮の城主奥平家でおこったことである。家老の奥平隼人《おくだいらはやと》を相手に、奥平源八の父が争って自殺した。隼人は宇都宮を出て江戸にうつったが、源八の一門三十余人がこれを仇としてつけねらい、暴風雨の夜なかに、牛込浄瑠璃坂にあった隼人の屋敷を攻めて、これに火を放ち、その目的を達したのである。「武家《ぶけ》法度《はつと》」からいうと、徒党を組み、火を放った罪は極刑にあたいするのだが、復讐というので、一同伊豆の大島に遠島を仰せつけられ、三、四年後に呼びもどされた。おまけに源八は、まもなく井伊家に二百石で召しかかえられている。  当時、松平家(のちの久松家)でも、義士たちのために、遠島のしたくをして、もたせていく金まで用意したと内藤嗚雪は書いている。  これは余談だが、松平藩には、公然と切腹を命ずるほかに、�御意討《ぎよいう》ち�という一種の刑罰があった。藩士が特別の罪をおかした場合、藩主の命により、突然「御意でござる!」と、ことばをかけると同時に、うちかかって首をはねるのである。ときには相手が抵抗することもあるので、討手は徒士《かち》二人ときめられていたが、それでも手におえない場合もあったらしい。討たれるほうに、死の意識と苦痛を与えないという点で、不治の病人などにたいしておこなわれる�嘱託殺人�と同じようなものである。  さて、当時の学者たちのあいだで、室鳩巣がいちはやく、赤穂浪士を�義士�としてあつかい、強く無罪を主張したことは前にのべたとおりである。  それよりも社会的に大きな影響力をもったのは、林|大学頭信篤《だいがくのかみのぶあつ》の義士への讃辞である。かれらが徒党を組み、飛び道具までもって襲撃したのは上《かみ》を恐れざるものということで、厳刑に処したならば、きっと天下の笑いものとなって、こんご忠義の道は地におちるであろうというのだ。当時の彼の地位は、今でいうと、東大の学長と文部大臣を兼ねたようなもので、そういう人物が、このように義士の肩をもつということは、学長兼文相が全学連被告の特別弁護人として法廷に立ったのと同じであった。  のちに、将軍家の最高ブレーンとなった新井白石も、大石父子の画像の賛を求められて、つぎのようにのべている。 「われらなどのつたなき筆にて、この人の節を賛しつくし候ことも及ぶまじく候、これは幾重にもおことわり申候」  いかにも白石らしい巧妙な逃げ口上とも見られるが、とにかくこういった世論のなかで、どうして赤穂の義士たちが切腹させられたのか。  [#小見出し]徂徠が厳罰を主張  文部大臣にあたる林大学頭は、義士たちの行動を激賞したが、検事総長に相当する大目付の仙石伯耆守は、義士たちを取調べているうちに、かれらの堂々たる態度にすっかり感動して、「神妙の仕方なり」とほめているし、その報告をきいた老中(幕府の閣僚)小笠原佐渡守も「武士道盛大の儀天下の誉なり」と、将軍に言上している。  将軍綱吉も、はじめのうちはかれらの忠誠ぶりに感激して、寛大な処置をとらせるつもりだったらしい。だが、これに強く反対して、厳罰論を主張したのは荻生徂徠である。当時、将軍の側近としてもっとも勢力をふるっていたのは柳沢吉保であるが、その柳沢の有力な相談相手となっていた徂徠は、柳沢を通じて、つぎのような意見をのべた。 「赤穂浪士が徒党を組んで秩序をみだした罪は重い。林大学頭などのいうことは、学者の理論であって、政治というものはそんなものではない。もっとさきざきのことを考えねばならぬ。かれらを助命すれば、吉良家や上杉家のものもそのままにしておけないであろう。そうなると、浅野の本家でも見のがすことができまい。かくて騒ぎはますます大きくなるばかりである。法は守られなければ、世の中の秩序は保てない」  そこで将軍も、涙をふるって「切腹申しつけよ」という裁定をくだした。しかし、法は法として生かしておいて、別に抜け道がないではない。上野|輪王寺宮協弁《りんのうじみやきようべん》親王の存在がそれだ。輪王寺というのは、日光山の天台宗|門跡《もんせき》寺であるが、上野の寛永寺をつくった天海《てんかい》僧正が後水尾《ごみずのお》天皇の第三皇子を日光山主に迎え、これに寛永寺を兼掌させて、皇室から�輪王寺�の号をたまわり、江戸時代に仏教各宗を統轄する権限を与えられた。そしてその門跡には、代々皇族の法親王が歴任されていた。将軍家にとっては、京都で皇室がそむかれたばあい、いつでも擁立できる人質のようなものであったが、形の上では、皇室の江戸出張所みたいなもので、将軍がこれに最大の敬意を払い、毎月一回、互いに往来して意見を交換することになっていた。ちょうど二月一日はその日にあたっていたので、親王が登城されると、綱吉は世間話にことよせて、こんなことをいった。 「浅野内匠頭の家来のことども、すでにおききおよびのことと存じますが、その忠誠義烈、近来まれなるものどもですから、なんとかして助けてつかわしたく存じますけれど、それでは政道が立ち申さず、いかんともせんかたないことで、政治をおこなう身ほど心苦しいことはございません」  こういう綱吉の腹のなかでは、いちおう切腹の内命を与えはしたが、宮さまからも命ごいとあれば、法もまげないですむ、というナゾがかけられていたのである。  これにたいして親王は、ただきき流しただけで、なんとも返事をせずに、かえってしまわれた。このことが世間につたわると、親王のツルのひとこえに大きな期待をかけていただけに、がっかりして、親王は英明なかただときいていたが、将軍のこのナゾがとけないようでは心細い次第だと非難した。これを耳にした親王は、左右のものに申された。 「将軍家からあの話をきいたときほど、心苦しい思いをしたことはない。助命のナゾを読めないはずはなかったけれど、何をいうにも五十人に近い人間のことで、そのなかには血気の若者も少なくない。それが生きながらえて、とんでもない失敗でもしでかそうものなら、せっかくの忠義のおこないが台なしになる。忠臣のままで切腹させれば、末代まで武士の鑑《かがみ》としてのこる。といって、出家の身で、切腹をとはいい出せないから、なんとも返事をせずにかえってきた」  この話は『続明良洪範』や『徳川実紀』にも出ているので、ほんとかもしれないが、少々話がうまくできすぎているようでもある。しかし、封建社会においては、つねに権力は一方的に用いられ、裁判のばあいでも陪審制はもちろん、弁護士も認められていなかったので、どこかに救いを求める気持ちが強かった。そういった要求から生まれたものが、輪王寺宮のありかたとか、水戸|黄門《こうもん》の諸国|行脚《あんぎや》とかいった半フィクション的存在や物語である。河内《こうち》山宗俊《やまそうしゆん》が輪王寺宮使僧の名をかたって、悪質な大名をとっちめたという話も、この要求にあわせてつくられたものといえよう。  しかし、結果からいうと、とくに義士たちの後世に与えた警世的効果ということに重点をおいて考えるならば、この輪王寺宮のとった処置はまちがっていなかったということになる。現に、明治維新の功臣中、若くしてなくなったものはいいが、長く生きのびたもののなかには、権力をほしいままにしたり、身をもちくずしたりして、国民大衆の非難の的になったものも少なくない。また、日露戦争で、名誉の勲章を授けられたもののうち、戦後わずか二年そこそこのあいだに、非行失態のため、勲章をとりあげられたものが二千人をこえたという。  [#小見出し]民衆は切腹に不満 「罪九族におよぶ」といわれたきびしい制度のもとで、いちおう仇討ちに参加しながら、生きのこった寺坂吉右衛門をはじめ、義士たちをかくまったり、その陰謀を助けたりしたものの罪を少しも問われなかったということは、いかに検察当局が犯人たちに同情的であったかということを物語っている。ということは、それほど世論の圧力が強かったということでもある。  社会が名実ともに一元化され、一定の方向にむかって進んでいる時代には、法律と道徳が一体となって民衆の生活や思想を規制している。しかし、社会がある段階にきて停頓し、分解し、分裂してくると、道義心といったようなことばで表現される社会通念が、時の法律と衝突し、対立して、それぞれ反対の機能を発揮することになる。その社会の体制を維持しつづけようとする権力と、これにたいして批判的な反権力体制、もしくはその萌芽《ほうが》との矛盾が、こういう形をとってあらわれてくるのである。こういう場合に、道徳の法律への反抗がしばしば�世論�の形をとる。  新しく発生した勢力が、古い勢力と正面衝突をして勝敗を一気に決しようとするのが革命で、まだ古い勢力が強く、新勢力の側に、尋常の手段では勝算がないと見た場合には、暴動やクーデターに訴える。しかし、赤穂浪士の仇討ちには、そういった政治的要素は、ぜんぜん加味されていなかった。社会的分裂が、まだそこまですすんでいなかったのだ。それどころか、由比正雪が暴動をおこしたときよりも、形の上では、幕府の安定度が高められていた。したがって、法理論では対立があっても、道徳的には同じ平面で評価された。だが、当時の民衆は、この二元的な解決法に満足しなかった。  義士たちの切腹がおこなわれた二月四日には、夕方近くから西北の強い風が吹きすさんで、家家をゆるがすほどであった。そこで、江戸の民衆は、これは切腹させられた義士たちのたたりであると信じて騒ぎ出し、きっと大火事がおこるにちがいないというので、店はたいてい早く大戸をおろし、江戸じゅうは�死の町�と化したという。  当時、日本橋のたもとに、高札《こうさつ》が立てられていて、これに民衆の守らねばならぬ道徳訓が書かれていた。慶長のはじめ、江戸の町が開かれたころにできたもので、その第一条は「忠孝に励むべきこと」となっていた。  ところが、赤穂浪士の切腹後、いつのまにか、この高札の�忠孝�の部分に、墨が黒々とぬられた。そこで、新しいのととりかえると、こんどはその高札ぜんたいが、泥でぬりつぶされた。洗ってまた立てると、ぬきとって川のなかへ投げこまれた。つまり、�忠孝�を自分でないがしろにした幕府が、こんなものを立てても意味がないというわけだ。  この勝負は、ついに幕府の負けとなり、第一条を書きかえて「親子兄弟むつまじくすべきこと」と改めた。この時代には、処世訓は政府の命令で、道徳であるとともに、法律と同じような性格をおびていたのであるが、この事件によって、両者ははっきりと区別され、政府お仕きせの道徳は権威を失ってしまったのである。  一方、吉良家をついだ義周は、上杉|綱憲《つなのり》の二男で養子に迎えられたものだが、赤穂浪士に養父が討ちとられたときの態度ふるまいがよくなかったというので、義士たちが切腹を仰せつかった同じ日に、評定所へ呼び出され、大目付仙石伯耆守以下列席の上、領地を召しあげられ、諏訪安芸守にお預けとなった。安芸守の居城は信州高島にあったが、そこで彼は三年後になくなって、室町以来のこの名家も、ついに跡が絶えてしまった。  この判決は、浅野内匠頭の場合とはまったく逆で、これを裏返しにしたようなものである。こういう形で埋めあわせをしたのであろうが、これまた世論の圧力に政府が屈したのだといわざるをえない。とくに、義周は、数え年の二十歳、寝こみをおそわれて逃げまどったのがいけなかったというのであるが、別に罪を犯したわけではない。いや、この時代には、道徳的な批判が、そのまま法律となって処罰されたのである。  本所松坂町にあった吉良の屋敷は、その領地とともに、召し上げられ、一時松平|日向守《ひゆうがのかみ》にあずけられたが、不浄の地だということで、そのあとに住むものがなかった。けっきょく、捨て地として民間に払いさげられ、建物は解体し、古材として売り出したが、買い手がつかす、払いさげをうけたものは大損をした。また、この屋敷にはすごい池があって、しばしばそこで人が死んだため、いよいよ不浄だということになった。  吉良家に対する社会的制裁がそこまで徹底したことが事実だとすれば、これは明らかに一種のリンチ(私刑)である。日本では、世論がそこまで行った例は少ないが、日本よりも民主主義が発達したといわれるアメリカでは、このように世論がリンチに近い形をとる場合が珍しくない。日本の�村八分�がそれにあたる。  [#小見出し]讃美に逆らった学者  乃木将軍が自刃したとき、谷本|富《とめり》博士は世論にさからって否定的な意見をのべ、人相学までもち出して将軍をけなしたため、世論のふくろだたきにあって、ついに京大教授の地位を棒にふったことは、前にのべたが、赤穂浪士の仇討ちにたいしても、世論が圧倒的にこれを支持したにもかかわらず、まっこうからののしって、かれらを�凶徒�あつかいした学者も少なからずいた。讃美した文章は、どっちかというと紋切り型で、公式的であるが、非難したほうは、それぞれの立場、人格、個性がよく出ていて、こういうインネンのつけかたもあるものかということがわかり、すこぶる興味がある。  荻生徂徠の義士批判が、義士たちの処分に影響力をもったことは前にのべた。徂徠の高弟|太宰春台《だざいしゆんだい》にいたっては、徹底的に義士たちをやっつけている。  春台の述懐するところによれば、仇討ちのおこなわれたとき、彼は二十歳を出たばかりで、大いに感激したものだが、「長じて義理を解するにいたってより、はじめてその復仇のまったく僥倖《ぎようこう》に出たものなるを悟り、さらに六経《りつけい》を読み、大義に通ずるにおよんで、この挙のまったく不義無謀なることを覚えた」というのである。彼の諭旨を要約すると、だいたいつぎのとおりである。  一、仇討ちを決行する前に、吉良上野介が死んでしまったらどうする。  二、内匠頭を殺したのは吉良ではない。  三、内匠頭に切腹を命じたのは幕府だから、うらむなら幕府をうらむべきだ。  四、大石らが幕府の法規にふれないように、気をつけて行動したというのは卑怯である。  五、大石らは、どうして赤穂城をまくらに討ち死しなかったか。  六、赤穂城を明けわたした以上、さっそく江戸に出て、吉良家に討ち入るべきではなかったか。  七、ゆうゆうと敵状をさぐったり、秘計をめぐらして、ついに吉良を討ちとったのも、そのねらいはそれによって名利《みようり》を得るにあったのではないか。  八、結論として、大石らは、名を大義にかりて、その実利欲を求めたものと断定せざるをえない。  春台は、当時の一流学者で、文章家でもあった。おそろしく博学だったが、とくに経済学に関する著書が多く、人柄は谷本博士と相通じる面があったようである。  佐藤|直方《なおかた》は、浅見絅斎《あさみけいさい》とともに山崎|闇斎《あんさい》門下の双璧といわれた学者で、浅見が大石らの立場を支持したのに反し、直方は春台に同調して、頭からこれを否定している。  赤穂の浪士たちは、当然|斬罪《ざんざい》になるところを切腹ですんだのは、お上《かみ》のお慈悲というものである。しかるに、世間がこれに雷同して、�忠臣義士�などというのはもってのほかだ。無学なものは、世のなかの道理がわからないから、こういうあつかいかたをするのもやむをえないが、林大学頭までがかれらの死をいたみ、詩までつくってこれをたたえると、学者たちがみんなこれに雷同するのはけしからん話だ。  泉岳寺で自殺でもしたというなら、まだいくらか同情もできるが、大目付に一書をたてまつって、申しわけめいた陳情をしたのは、これであわよくばおほめにあずかって、死をまぬがれ、禄にでもありつこうとするコンタンから出たものとしか思えない。まったくあさましい限りで、死を決したもののすべきことではない、といった調子である。  さらに、直方は、吉良に切りつけて失敗した内匠頭を�未練腰抜け�とののしり、大石らに影響を与えた山鹿素行にまで攻撃のホコ先をむけている。つまり、素行の思想なるものは、幕府の忌諱《きい》にふれて流浪の身となったものの頭から出たもので、忠誠心どころか、反逆思想を鼓吹するものだ、というわけだ。  直方は、備後福山の人で、はじめ福山藩主に仕えていたが、のちに前橋藩主の顧問に迎えられ、年俸百金をうけていた。あるとき酒宴の席で、藩主から国政について意見をきかれ、万人の安危にかかわる問題を酒のサカナにするのはよくないといって、いさめたこともあるという。頑固というよりも、ツムジまがりの男だったらしい。  乃木将軍が座右の書として熱読し、私版までつくって、その一部を皇太子(大正天皇)に献じた『中朝事実』の著者も、春台や直方にかかると�謀反人�あつかいである。そこで思い出されるのは、終戦直後、当時の首相吉田茂の口から出た�曲学阿世�とか、�不逞《ふてい》のヤカラ�ということばである。そのころ、日本の学界、マス・コミ界は�進歩的�と呼ばれる、ひとつのムードに包まれていたし、時の東大総長南原繁は天皇の戦争責任を問い、退位説を唱えたというし、のちに学習院長となって皇族の教育を一手で引きうける身となった安倍能成《あべよししげ》は、�進歩的文化人�のもっとも有力な集団と見なされた「平和問題懇談会」に属していた。そのときの支配的なムードにまきこまれずにすむということが、いかにむずかしいかがわかる。これについては、もう少しくわしくのべる必要がある。  [#小見出し]義士にあらず �曲学阿世�といっても、なにが�曲学�で、なにが�阿世�だか、判定することが困難な場合が多い。封建時代とか、独裁専制のおこなわれている国とかにおいては、権力に追随して、個人の安全や利害のために、ものを書いたり、しゃべったりすることが�曲学阿世�ということになる。  だが、現代のような�大衆国家�の時代、�世論�という名の社会的ムードの支配する時代には、権力の質もかわってくる。少なくとも�権力�が多元化する。問題はただ�権力�におもねるとか、反抗するとかいうことではなくて、いずれの�権力�に奉仕、もしくは反抗するかということにかかっている。  こういった見地に立って、歴史的な事件や人物を批判する場合には、これまでの見方を、ただ�裏がえし�にしただけでは不充分である。ときには、裏返したものを、もういちど裏がえしにするとか、横からななめに見るとかいうことも必要になってくる。正しい評価は、棺をおおうたのちにきまるとか、知己を後世に求めるとかいっても、時代がうつり、社会の性格がかわってくれば、その評価もどうかわるかわからない。  それはなんぴとの予測をも許さないものだ。けっきょく、自分自身にたいして忠実であればいいわけで、批判は他人にまかせるほかはない、ということになる。  ところで、義士たちにたいする否定的な批判は、春台、直方のほかにもたくさん出たが、そのなかでとくにかわっているのは、釈大我《しやくだいが》という博学奇才の僧侶が書いたもので、題して『楠石論』という。これは楠正成と大石良雄をならべて論じ、どっちも忠臣でないという大胆な断定をくだしたものである。  その内容は、大石らについては�七罪�をならべ立てているが、春台、直方がいっているのとだいたい同じである。彼は、さらに内匠頭についても�五罪�をあげて、大石らはさらし首にするのが当然だといっている。  釈大我は、京都八幡正法寺の住職で、狂歌を得意としたというから、わざと人の意表に出るような説を立てて、世間を驚かすことをねらったものらしい。当時の反徂徠派の学者山本|北山《ほくざん》にこっぴどくやっつけられ、ぐうの音も出なかった。  義士にたいする否定的な論者のなかで、もうひとり、見のがすことができないのは、鳥取の漢学者|伊良子大洲《いらこだいしゆう》である。  彼にいわせれば、大石を忠臣とするのは世俗の論で、大石は�義士�でもなんでもない。家老としては、あらかじめ主君がまちがいをおこさないように気をくばり、国家の安定を計らねばならぬのに、それだけの知恵がなくて、主君を思いがけない禍《わざわ》いにおとしいれたのは、忠義とはいえない。  また、主君のおこなうところが義であれば、臣もまたこれをおこない、主君のおこなうところが非であれば、いさめてこれをやめさせるのが臣の道である。いさめることのできなかった場合には、なるべくその過ちをおぎない、国家(藩)を滅亡から救うことを考えねばならぬ。それもできなかったとすれば、自分の忠義のいたらぬところ、主君に益なきものとして、よろしく家臣とともに城中で自決し、その無能をわびるのが家老たるもののなすべきことで、これがすなわち義である。したがって、大石は�豪傑�かもしれないが、真の忠臣ではない。世俗的な忠臣、似て非なる忠臣である。  大洲は、さらに、武士道についても、相当つっこんだ批判をくだしている。�武士の風�すなわち武士道は、英雄割拠時代に、ひとつの権道としておこなわれたものにすぎない。いまは、主君に殉じて死ぬことも禁止されている。したがって、武人の習俗といっても、ことごとくこれを義とすることはできない。大石がこの習俗にとらわれたのも、不学のいたすところである。  結論として大石らは、�侠者《きようしや》�ではあるが、�義士�ではない。義は仁より出て、従容《しようよう》せまらず道にあたることを主とするものである。これに反して侠は情よりおこる、故に妄動《もうどう》して目的を達することしか考えない。これは衆人のもっとも喜ぶところであるが、義と侠を区別して考える必要がある。侠者は相たすけて非をなすものだが、直情径行、心肝をさらけ出してことにあたるから、世間はこれを歓迎するのであるが、聖賢の道とはいえない。  これでみると、大石も幡随院《ばんずいいん》長兵衛、河内《こうち》山宗俊《やまそうしゆん》、鼠小僧次郎吉などと、同列にあつかわれていることになる。このように「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」という武士道の基本的原則を否定してかかったのだから、当時すでに非難の声も高かった。彼の地位や立場からいって、こんなことをいえば不利なことはわかっていながら、頑として自説をまげなかったという。  彼の所論が正しいかどうかは別として、武士道というものにたいする近代的な反省と批判の萌芽が、この時代に鳥取のようなへんぴなところでめばえている点は、注目さるべきである。  [#小見出し]冷淡だった地元  地元の赤穂における義士たちの評判はどうであったか。現在は赤穂市にはいっている元新浜村の役場に『事原帳』というものが保存されている。これは事件日誌のようなもので、元禄年間におこったおもな出来ごとはたいてい記入されているのであるが、十五年十二月十四日のところには、「仇討義士四十七人なり」と特筆大書されている。国をあげての大評判になったことだから、地元としては大自慢で書きこんだものと思われる。  ところが、伴蒿渓《ばんこうけい》という国学者の書いたものによると、浅野家断絶のニュースが伝えられたとき、赤穂の町人たちは大いに喜び、モチなどをついて祝ったということになっている。その理由としては、赤穂藩の上席家老が大野九郎兵衛で、これが行政面を担当し、ひどい搾取をつづけていたことがあげられている。  赤穂藩の�四大事業�というのは有名である。第一は赤穂城の造営、第二は大規模の干拓で、赤穂の南を流れる千種川の河口に大きな堤防を築き、新しい塩田をつくった。はじめは漁師の家が四、五軒しかなかったところに、十年後の明暦二年(一六五六年)には人口二百余人、二十五年後の延宝八年には二千人近くの大部落ができた。これが新浜村だ。  第三は水道工事である。千種川の上流から水を引いてきて、町の大通りの下に大きな土管を埋め、どこの家でも、素焼きのカメをいけさえすれば水が得られるようにした。この時代に日本で水道の施設ができていたのは、江戸と備後の福山と赤穂の三か所しかなかったという。  第四は新田の開発で、不毛の沼をひらいて良田百余町歩をえた。  こういった事業は、内匠頭の先々代の長直《ながなお》の時代になされたもので、浅野家が禄高に比して豊かだという評判をとったのも、そこからきているのである。加賀百万石と争って山鹿素行を召し抱えることもできたのだ。しかしそれにしては吉良上野介におくった謝礼が少なすぎるというので、吉良を怒らせ、それが大きなわざわいのもとになったともいえる。  乃木大将のウマ好きは前に書いたが、江戸時代の武士は、だいたい三百石以上、すなわち将校階級でないと自分のウマを持てなかった。いまの自家用車のようなものだ。乃木大将のウマ好きも、自分のウマをもつ身分になりたいという、父祖伝来の夢と結びついていると見られないこともない。ところで赤穂藩には足軽その他の軽輩をのぞいたものが二百十余名いたが、そのなかで騎馬兵は七十名だった。これは比率からいうと、普通の藩の三倍にあたる。こういうはでなことができたというのも、藩の財政が豊かだったからだ。  しかしながら、その裏では、領民にたいする搾取が相当きびしかったことも考えられる。なるほど、塩田開発や水道施設などによって、領民の生活も大いにうるおったかもしれないが、それ以上に、各種の名目による取り立てもはげしかったのであろう。  浅野家断絶ときいて、赤穂の領民がモチをついて祝ったという話は、あるいは単なるウワサにすぎなかったかもしれない。だが、赤穂藩士から、後世のカガミになるような忠臣を大量に出したけれど、赤穂の町人や農民のあいだでは、これに同調するような動きはまったく見られなかった。少なくとも、わたくしの目についたところでは、そういった記録はなにひとつない。町人や農民が、人間あつかいされなかった時代に、そういうことを望むほうが無理かもしれないが、藩主がほんとうに領民からしたわれていたならば、少しはそういう動きがあってもいいはずである。  赤穂の華岳寺《かがくじ》は、浅野家が建てた菩提寺である。これには、大石のはからいで田地三町五反歩(約三・五ヘクタール)を寄付しているが、浅野家をはじめ義士関係者の墓は久しく荒れるにまかせ、石塔もすみっこのほうに積みかさねてあった。他の義士関係者の墓所も、明治末期まではだいたいこれに似た状態であったというから、泉岳寺とはたいへんなちがいである。  なるほど、赤穂の義士は、世間からどんなにもてはやされようとも、幕府から見れば、�天下の罪人�である。そのあとにきた新しい藩主の永井伊賀守やその藩士たちも、これにかんしては、幕府をはばかって、あたらずさわらずの態度をとりつづけたのであろう。前藩主の時代からここに住んでいるのは、町人に限られているが、かれらは新藩主のごきげんをそこねてはたいへんだから、義士などについては口にすることさえ禁物になっていたといわれている。  だが、わたくしは、日本人をそこまで卑屈な民族とは思わない。ほろぼされた旧領主にたいする親愛感を長く失わずにいた例は日本全国にいくらもある。貪欲《どんよく》だといわれた吉良上野介の旧領である三河国の吉良では、いまだに「忠臣蔵」を上演しても、客がはいらぬときいている。  赤穂の領民が、浅野家に別に恨むところがなかったらしいのに、それほど親愛感をもたなかったとすれば、それは大野九郎兵衛のみの責任に帰すべきであったろうか。  [#小見出し]わからなかった能力  浅野家断絶の凶報をきいて、赤穂の町人がモチをついて祝ったという話は、伴蒿蹊の『閑田《かんでん》次筆』という随筆集に出ているのだが、著者の蒿蹊は、通称庄右衛門といって近江八幡の豪商のむすこである。伴家は、江戸、大坂などに店をもって、畳表、蚊帳《かや》、傘などを手びろくあきなっていたが、蒿蹊は家業のかたわら国学に志して、ついに一家をなした。和歌にも長じ、とくに万葉の知識が深く、皇室の知遇もうけ、当時京都では�国学四天王�のひとりにかぞえられていた。  前にわたくしは、大阪は日本の中国で、大阪商人が東京その他に出て活躍している姿は、南方諸地域における華僑に似ているところから、�阪僑�にという新語をつくったのであるが、そういった大阪商人の中核体をなしているのはほとんど近江人である。  近江というところは、大陸からわたってきた中国人や朝鮮人が多く住みついた土地である。古くからキャラバン(隊商)を組んで日本全国を股にかけて商売して歩いたのも、大陸の習慣がそのままのこされているのだともいわれている。  全国がいくつかの藩にわかれて、日本が連邦のような形をなしていた時代に、取り引きの範囲を藩外までひろげるには、各藩の経済力、政治情勢、指導的立場にある人物の性格、領民の生活水準、そこでおこった重要なできごとなどについて、正確な知識をもっていることが必要である。いまのことばでいうと、情報の収集だ。そういう点からいって、近江は、隊商の基地であり、商売の中心であるとともに、ニュース・センターの役割りをもはたしていたのである。  こういう土地に生まれて育った蒿蹊が、専門の学問のほかに、鋭いニュース感覚と豊富な知識を身につけていて、各地の興味ある事件や人物にかんする著作が多いのも、決して偶然ではない。『閑田次筆』『閑田耕筆』『近世|畸人《きじん》伝』『続近世畸人伝』などがそれで、閑田というのは彼の号だ。赤穂や大石良雄にまつわるいろいろな話も、そのなかに出ているのである。  蒿蹊の書いたものによると、それまでの大石はいっこう用いられなかったばかりでなく、しょっちゅう失敗をして、年に六、七回も謹慎を仰せつかっていた。それが、大事件|出来《しゆつたい》とともに、急に矢おもてに立ち、藩が町人から借りていた金を、きれいさっぱりとかえしたので、世間はこんな人物がいたのかと驚き、大石を見なおした。ということは、それまでの大石は、平凡人としてのんびりと生活を楽しんでいたか、それとも大野におさえられて、手も足も出なかったか、どっちかであろう。とにかく、仇討ちで天下に名をなしたけれど、ふだんはあまり有能な政治家ではなかったことは明らかである。  また、大石が山科に出てきてからの所行について蒿蹊は、「人みな爪《つま》はじきをするばかりにて、ある智ある人も、復讐の後すら評して、彼はあまりに人に誹謗《ひぼう》せられて、そのいいわけに事を発せしなりとさえいいしとなり。かくばかりならずば、敵方も油断すべしや」 と書いている。山科と近江八幡とは、すぐ近くだから、この記述は比較的正確だと見てよい。それほど大石は、徹底的に遊んだということだ。  精神科の医者にいわせると、専門家が見ぬけないほど、たくみに精神病者のまねのできるものは、それだけで精神病者と見てよいそうだ。大石の遊びについても同じことがいえるだろう。これから先になると、人間心理の分析は不可能に近く、強いて結論を出しても、結論のための結論になる恐れがある。  ついでに、江戸後期の狂歌師兼|戯作者《げさくしや》で�蜀山人《しよくさんじん》�として知られた大田|南畝《なんぽ》も、その著『半日閑話』のなかで、つぎのような意味のことを書いている。 「赤穂城をうけとりに行った人のおともとして、大石内蔵助に対面したという人の話によると、あとで大石が吉良を討ちとったときいて、あの男にそんなことができるのかと驚いた。とはいうものの、どこか誠実で、入念なところのある人物だという感じをうけた。見たところ、小づくりで、やせがたで、ウメボシみたいなおやじで、このような大望を抱き、思慮に富んだおこないができるとは思わなかった。まったく人は見かけによらぬものだ」  わたくし自身も、なん十年にもわたって人物をあげつらってきたが、こういうのを見ると、そらおそろしくなってくる。人間のほんとうの能力というものは、なにかのチャンスにぶつかって、どういう形で出てくるかわからないのだから、軽々しく断定はくだせないということが、いまさらのごとく痛感される。  先年、小豆島に行ったとき、浅野家の旧藩士で仇討ちに参加しなかったものが�村八分�のようなかたちで赤穂を追われ、小豆島に亡命者のコロニー(植民地)をつくって住んでいたときいた。できれば、こういう人たちの記録を手に入れたいものだ。  [#小見出し]也有、非義士論に一矢  その後、荻生徂徠や太宰春台の非義士論をやっつけた文章は、数限りなく出ているが、なかでもいちばん手きびしいのは、名古屋の俳人で博識奇才をうたわれた横井|也有《やゆう》の『野夫談』である。これはただの評論ではなく、その構成、趣向が奇抜で、諷刺文学としても、第一級品にかぞえられている。その荒筋をのべるとこうだ。  便所のくみとりを業とする九作《きゆうさく》という男が、出入りの旦那のお供をして江戸見物に出かけて、信貴野閑吟《しぎのかんぎん》という医者の家に滞在中、春台の『四十六士論』のことをきかせられたが、なんとしても合点がいかず、国にかえってから、ご隠居を相手に、長談義をこころみるという筋で、也有は九作の口をかりて、春台にむかってつぎのように呼びかけている。 「あなたは大石らのしたことはまちがいだといわれるが、もしもあなたが浅野家につかえておられたとすれば、仇討ちの相談にはのられますまい。といって、ひとりで籠城するわけにはいかないし、吉良家へ切りこむようなこともなさらないでしょう。  つぎに、あなたは、仇討ちの前に吉良が病死した場合には、大石らは坊主になるか、それとも吉良の死体にむちうつほかはなく、それでは天下の笑いものになると書かれましたが、それはどういうことですか。人の命の頼りにならぬことはわかっていますが、そんなこと考えていたのでは、他人に金を貸せませんし、婚約もできません。それに、五年も十年も仇討ちをのばしたというのなら、世間のそしりをうけてもしかたがありませんが、討ちそこなわぬために、あくる年の冬まで仇討ちをのばし、そのあいだにはかりごとをめぐらし、準備をしたというのが、どうしていけないのですか。犬がかみつくようなことをして、こちらばかりが死んだのでは、吉良家はますます安泰で、恐ろしいものなしの高まくらということになりますが、草葉のかげで、内匠頭さまの無念は、ますますつのるばかりではありませんか。  上等の人物は、人の美をたたえますが、下品で卑劣な人物は、人の美名をねたみ、なんとかしてこれにケチをつけようとします。これは、学問や知識と関係のないことで、根性の問題です。あなたの義士論は、天下の笑いぐさになるばかりで、紙屑かごにでもほうりこめばいいものを、わざわざ書物にして世に問うとは、なにごとですか。わたくしは、毎日大小便のくみとりをしておりますので、不浄物もキャラ(香料)と同じにおいがいたします。そのなかにはまりこんでしまうと、是非善悪の区別がつかぬのでございます」  ざっとこういった調子で、也有は春台先生をくみとり人同様にあつかっている。  横井也有は、通称孫右衛門といって、元禄十五年、すなわち義士の討ち入りのあった年、尾張藩で千三百石をとる重臣の家に生まれた。五十二歳で役職をとかれてから八十歳でなくなるまで、もっぱら文芸に親しみ、ゆうゆう自適の生活をおくった。俳句ばかりでなく、螻丸《けらまる》と号して狂歌にも長じた。武芸はもちろん、絵画、和歌、漢詩などいずれの面でも驚くべき才能を示すとともに、酒もよくのみ、タバコも好きで、琵琶などの芸ごとにも通じていた。しかし、彼の才能がもっともよく発揮されているのは、俳文集『うづら衣』で、これについて、国文学者でやはり俳人の佐々醒雪《ささせいせつ》は、「俳文の妙は�うづら衣�につきる。もしも一部の�うづら衣�なく、ひとりの也有翁がなかったならば、俳文というものはわが国の文学史上から消え去ってしまったであろう」とまでいっている。   バケものの正体見たり枯尾花 という有名な句があるが、これは也有の作だと伝えられている。そのころ、松木|淡々《たんたん》という俳人がいて、ひどくいばっているという評判が高かった。也有は会って見て、つまらない人物だということがわかり、その場でこの句をつくって彼をいましめたというわけだ。  一説によると、菊車《きくしや》という西国の俳人が淡々を訪ねたとき、淡々はドンスのフトンをかさねた寝床で面会したので、菊車がふんがいし、この句を口ずさみながら帰って行ったのだともいわれている。ただし、下の句は「枯尾花」のかわりに、「雪の朝」または「雪の暮」ともなっている。  松木淡々は大坂の俳人で、むかしから、俳句で財産をつくったのは、この淡々と陸奥の俳人|建部綾足《たけべあやたり》くらいのものだということになっていたが、新しいところでは高浜虚子がいる。淡々は生涯京都の水しかのまなかったというから、どういう人物だか想像がつく。  話が少々わきみちにそれすぎたが、横井也有は諷刺作家、ユーモア作家としても一流である。そして、その諷刺やユーモアは、シンラツだけれど、さすが大家に育って教養も高いだけに、気品がある。十返舎一九《じつぺんしやいつく》や式亭三馬《しきていさんば》とちがっている。也有に近い人物を大正、昭和の文壇に求めるとすれば、さしずめ『ブラリひょうたん』の著者、高田|保《たもつ》というところか。  [#小見出し]水戸学は称讃  横井也有は元禄十五年生まれだが、水戸の徳川|光圀《みつくに》は元禄十三年、すなわち浅野家が断絶した前の年になくなっている。光圀があと二、三年生きていて、大石らの処分について将軍家から諮問《しもん》をうけたとすれば、はたしてどういう意見をのべたであろうか。  光圀個人としては、室鳩巣や林大学頭などと同じように、大石らの行動に感動したであろうということは、だれしも推定できることである。しかし、彼は単なる学者ではない。�天下の副将軍�として、徳川政府にたいしても相当強い発言権と圧力をもっているとともに、水戸藩主として自分で政治をおこなう立場にもあるわけで、治安をみだしたものにたいする制裁ということも考えねばならないであろう。また、警世的効果という点からいっても、大石らを生かしておかないほうがいいということになる。けっきょく、輪王寺宮と同じような結論に到達したのではなかろうか。  だが、それでは民衆がなっとくしないにちがいない。光圀にたいして民衆がいだいているイメージとくいちがってくるからだ。それにしても、光圀の皇室に対する忠誠というものは、どこから、どうして発生したか、そしてそれはどの程度のものであったであろうか。  一説によると、徳川家康は、徳川の血を永続化するために、万一の場合にそなえて、直系同族のひとりを天皇家の味方につけた、つまり、徳川宗家がほろびても、徳川の血はどこかでつづいていくように、という考えからきたもので、そのために選ばれたのが水戸家である。これを立案して家康にすすめたのは、家康の最高顧問であった傑僧天海僧正だということになっている。  これはうがちすぎた見方で、いくら深謀遠慮の家康でも、まさかそこまで考えていたとは思えない。光圀の尊皇思想については、彼の生母の身分が低く、父|頼房《よりふさ》の命によって、あやうくヤミからヤミヘ葬られようとしたとき、これを助けて守り育てた三木|仁兵衛《にへえ》という家臣の妻が、前に後陽成天皇の中宮《ちゆうぐう》につかえたもので、幼少時代の光圀に尊皇精神を吹きこんだとか、�徳川御三家�のなかで、水戸藩は尾張、紀州の両藩に比べて、立地条件が悪く、禄高もずっと低い、そこから生まれた劣等感が反発心をおこさせたのだとか、いろいろといわれている。これは三笠宮の�進歩的�な思想と同じで、三笠宮家は高松宮家などに比して資産が少なく、扶養家族が多いからだともいわれているが、そういうことは単なる説明にすぎない。人間の精神的な動向というものは、もっと深いところに根ざしていて、かんたんに分析解明できるものではないと思う。  いずれにしても、徳川家康あっての水戸家であって、光圀の尊皇思想にも限度があったことは明らかである。しかしながら、徳川の権威が絶対的で、現実の勢力としての皇室がこれに太刀うちできず、�朝廷�ということばが幕府を意味した時代には、幕府にたいする批判や抵抗も、幕府のもっている権威を逆用したほうが有効と見られる場合が多い。ソ連が近衛文麿の長男|文隆《ふみたか》を罪もないのに戦犯として抑留したり、中共が西園寺公望の孫|公一《きんかず》を引きとって、対日渉外係のような役目をつとめさせているのも、同じような目的から出たものと見てよい。  とにかく、光圀が生きていて、赤穂浪士の処分について相談をうけたならば、輪王寺宮以上のジレンマにおちいったにちがいない。事実、水戸藩は、光圀の死後、明治維新にいたるまで、いつもジレンマにさらされてきた。  光圀に迎えられて、『大日本史』の編集にたずさわり、その�総裁�すなわち編集長にまでなった三宅|観瀾《かんらん》は、『烈士報讐録』というのを出している。この資料は、大石の親友で一時浅野家につかえ、仇討ちの相談にものった寺井|玄渓《げんけい》という医者から出ているので、比較的正確である。また観瀾とともに、水戸史館の双璧といわれた栗山|潜鋒《せんぽう》も、「忠義碑」の碑文のなかで、大石らのために大いに弁じている。  その後も、楠正成と赤穂義士をほめることが、水戸学派の伝統のようになっていて、これが徳川幕府を倒す強い原動力となったことは、改めていうまでもない。  この伝統をうけついで、徳川|斉昭《なりあき》(水戸八世で、烈公《れつこう》と呼ばれた)がつくった弘道館の総裁に就任した青山|延于《のぶゆき》は、『垂糸《しだれ》桜』と題する長詩を編している。赤穂にのこる旧大石邸の庭に、大石の愛した垂糸桜があるが、これにちなんで、義士たちの忠誠心をたたえたものである。  その序文において、延于は、「わが本邦大石氏のごとき、精忠金石を貫き義気天地を動かす、宇宙の大もその比を見るまれなり」 といっているが�宇宙�までもち出してくるところは、いかにも水戸的で、藤田東湖の有名な『正気《せいき》の歌』を思わせる。  [#小見出し]警世と憂国の思想  水戸学派は筆をそろえて赤穂義士をほめたたえているが、青山延于の子|延光《のぶみつ》も、『四十七士伝』を出している。これを書いたのは、かぞえ年で十八歳のときのことである。  有名な藤田東湖がこれに序文をよせて、「近古忠義の烈、赤穂諸君にすぎたるはなし」とまで激賞している。東湖も延光と同年輩だから、どっちもひどく早熟だったわけだ。もっとも延光の父延于、東湖の父|幽谷《ゆうこく》ともに一流の大学者だったから、家庭環境もよく、思いきった秀才教育がなされたのであろう。いまなら高校を出たばかりで、大学の受験準備で頭がいっぱいになっている年ごろである。こういう実例を見ると、現在の教育制度は、個人の才能を最大限に発揮するためにあるのではなく、むしろブレーキになっている面が多いということがわかる。  東湖は、安政二年の大地震で圧死したが、延光は明治三年、六十三歳でなくなった。  日本の社会主義運動に大きな足跡をのこした山川|均《ひとし》夫人というよりも、日本の女性には珍しい頭の鋭さを見せて、評論家としても一家をなしていた山川|菊栄《きくえ》は、もとの姓を青山といった。彼女の母親は千世《ちせ》といって、青山延于の子の延寿《のぶひさ》(延光の弟)の娘で、母の実家をついだのだ。  菊栄の父親は、明治の�文明開化�の時代に、日本人の食料改良に目をつけ、いちはやく養豚業などをはじめて、家を外にとびまわっていたが、留守をまもる母親は、お茶の水女高師第一回卒業の賢婦人だった。その血としつけをうけついだ菊栄は、番町小学校から津田英学塾へと、当時の女性の秀オコースをすすんだ。卒業後、馬場孤蝶《ばばこちよう》の「閨秀文学会」に参加して、彼の文学談義を熱心にきいたものだが、彼女の人となりには、乃木大将や内村鑑三と同じように、文学や芸能をうけつけない面があった。平塚|雷鳥《らいちよう》のはじめた回覧雑誌に寄稿したことはあるが、『青鞜《せいとう》』の同人には加わらなかった。  雷鳥にしても、相州平塚の豪族三浦大助|義明《よしあき》の血を引いているとかで、森田草平の『煤煙《ばいえん》』に描かれているように、塩原でのデートに母の懐剣をもって出かけたりするところは、いかにも武士の娘らしい。菊栄にいたっては、そうした面がいっそう強く出ている。菊栄には、『武家の女性』と題する著書もあって、彼女の育った家庭的環境がよく描き出されている。  したがって、菊栄は、社会主義者の山川均と結婚し、自分もそういった立場にたってものを書くようになったが、性格的には、どっちかというと反共的、少なくとも反ソ的である。戦後、彼女が労働省の初代婦人少年局長に就任して、その職責をまっとうするとともに、そういった傾向がますますはっきりと出てきた。水戸学派のもっていた革新的な面で、まず社会主義にくいついたのであるが、ソ連的な共産主義にはなじめないわけだ。いわば、山川菊栄というのは、乃木静子夫人を社会主義者にしたような感じで、武士道でしつけられたきびしさがある。  藤田東湖の親友で、水戸烈公の知遇をうけた安井|息軒《そくけん》は、日向の生まれで、江戸に出て昌平黌《しようへいこう》(幕府直轄の大学)の教授にもなったが、思想系列からいうと、準水戸学派ともいえる人物である。彼の赤穂義士論というのは、一風かわっている。  磐城《いわき》の鍋田翁という八十歳の老人が、熱烈な義士ファンで、義士伝の研究とその遺品の収集に生涯をささげ、四十数巻にわたる著作を完成して、その序文を息軒に求めた。これを見て、息軒は大いに喜び、翁がかくも長寿をたもったのは、こんなりっぱな仕事をしたからだと激賞し、つぎのような序文を書いた。 「天地は�元気�というものによってできている。これが宇宙のあいだにみなぎっていて、日月の光りとなり、高い山や広い海ともなっているのだが、これが人間にあらわれると、剛健正大の気力となり、何万年たっても、なくなりも衰えもしないのである。ただし、ときどきこれがダレてくることがある。こういう際に、台風となり、地震となり、雷となり、霜や雪となって、これを新たにするのであるが、人間の場合もこれと同じで、赤穂義士の行動は台風や地震などとかわりはない。平和が長くつづいて、人心が緊張を欠いたとき、突如としてこういう人物があらわれてくるというのは天のなせるわざで、これによって一世を震該《しんがい》させ、ダレかかった気力をまたふるいたたせたのである」 というわけで、息軒は四十七士を「天のくだしたる偉人」といっている。  息軒は、天文、地理、算数にも通じていて、これと警世的、憂国的思想とが結びついたもので、東湖の�正気�説と同じ発想である。こういう考えかたは、水戸学派ぜんたいに共通している。ひとくちにいって、思想的スタミナが異常に高いということだ。明治維新の火つけ役となった水戸が昭和にはいって右翼行動派のメッカのように見られたのも、もとをさぐれば、ここから発しているともいえよう。  [#小見出し]反幕感情を秘めて……  水戸学派とならんで、王政復古の思想的源流となったものに京都学派がある。かれらは京都またはその周辺に住んでいて、皇室にたいする親近感が強く、将軍のおひざもとから遠ざかっているだけに、比較的自由な立場で、幕府の政策を批判することもできた。したがって、かれらの赤穂義士論は、圧倒的に大石たちを支持しているが、その底には反幕府的、反江戸的感情が流れていることも否めない。  この点は、いまの日本の思想における京都学派のありかたについてもいえることである。根強くのこっている反東京的感情が、現在の京都系文化人の多くをも、伝統的に左翼的、進歩的、反政府的たらしめているのである。  江戸時代の京都学派で、義士讃美論を書いているのは、浅見|絅斎《けいさい》、伊藤|東涯《とうがい》などから頼山陽にいたるまでかぞえきれないほどいる。  浅見絅斎は山崎闇斎門下で、勤王論の先駆者である。彼の義士論は、太宰春台の説を向こうにまわして、堂々と反論しているが、それだけに常識的でもある。彼は、楠正成をしたうあまり、自ら�望楠軒《ぼうなんけん》�と号し、生涯一度も関東の土地をふまなかったし、門人の三宅観瀾が水戸藩に仕えたというので絶交してしまった。  伊藤東涯は、京都学派の大御所仁斎の子で、江戸の荻生徂徠にとっては、もっとも手ごわいライバルだった。東涯は徂徠の文章を評して「鬼の面をかむってこどもをおどかすようなものだ」といっているが、『義士行』においては「千古の公論ほろぼすべからず」という断定をくだしている。紀州藩から五百石をもって迎えられたが、ついに応じなかった。 『翁草《おきなぐさ》』という書物は、義士の逸話をあつめたものだが、その著者|神沢其蜩《かんざわきちよう》は大坂人で、京都町奉行の与力だった。与力というと、いまの警視級で、大塩平八郎もそうだが、相当のインテリがいたらしく、神沢も俳諧詩文に通じていた。彼は春台の説をつぎのようにやっつけている。 「春台が浅野の家来だったとすれば、どういうことになるか。農民までも城にひっぱりこんではなばなしく戦い、亡主内匠頭をも叛逆者に仕立てなければ、おさまりがつくまい。こんなまぎらわしい義者よりも、大野九郎兵衛のように、はじめから腰のぬけているほうがずっとましだ」  純粋の京都学派ではないが、義士外伝のなかでも異色のあるのは細井|広沢《こうたく》である。彼は堀部安兵衛とは堀内源太左衛門の同門だった関係で、赤穂浪士のあいだに親友が多かった。仇討ちのことは前々から知っていたばかりでなく、討ち入りの前夜、神田紺屋町にあった堀内邸で開かれた訣別の会に、義士以外ではたったひとり、生卵を手土産にして出席、激励の詩を吟じたりしている。大石父子とは初対面だったが、よほど信用されていたらしい。仇討ちが失敗に帰した場合には、吉良邸に火を放って全員自決するという申し合わせも、その場でなされたので知っていた。  その晩、広沢は自分の家にかえると、屋根にあがって形勢を観望していたが、明けがたに安兵衛がやってきて、門をたたき、成功を知らせてかけ去った。広沢ははだしのままそのあとをおっかけて、永代橋で追いつき、いとまごいをしたという。  広沢の父は玄佐《げんさ》といって京都嵯峨の出身だが、遠州掛川藩につかえているときに広沢が生まれた。広沢はのちに、儒者として名をなし、柳沢吉保に重く用いられたが、兄細井芝山の案に基づき、柳沢を通じて将軍|綱吉《つなよし》にはたらきかけ、神武天皇から崇光《すうこう》天皇にいたる六十六陵を修理することを建議して実現を見た。広沢は、いわば京都二世だが、やはり京都学派らしい精神を失っていなかったといえよう。  尊皇愛国の家元みたいにいわれている頼山陽が、楠正成とともに赤穂義士を大いに賞揚していたことは、改めて書くまでもない。そればかりでなく、彼は義士にかんする逸話をあれこれと書きのこしている。  そのひとつは父の春水からきいたことである。竜野藩士井口某が、その使用人から、今夜赤穂浪士の討ち入りがあると教えられ、二階から見はっていると、暁近くなって、防火装束をしたものが五十人ばかり、下を通りすぎるのが目についた。春水はこの話を竜野藩士のひとりからきいたのである。  また、越前藩の国家老《くにがろう》本多某の江戸邸は、本所の吉良邸と隣りあっていたが、討ち入り当夜、吉良の隣屋敷はどこも、使用人を寝させないで、厳重に警戒していた。明けがたになって、吉良邸の方を見ると、いつのまにか見物人が大勢あつまってきて、人垣をつくっていた。これは本多某について江戸に行ってかえってきた下僕の話のまた聞きである。  こういう話は、そのまま信用できないが、前にものべたように、赤穂浪士の仇討ちの計画は、当時かなりひろく知れわたっていたようである。しかし、世間はこれに同情して、陰に陽に援助し、知らぬは吉良家のみという状態にあったのであろう。 「これ、そもそも天意か、もって人心を見るべきなり」と、山陽は断定している。  [#小見出し]公認された忠誠  慶応三年(一八六七)は王政復古すなわち政権交代の年で、翌四年四月二十一日、征東大総督|有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王が江戸城にはいられた。その前、三月十五日には旧幕臣のなかでも、もっとも傑出した人物といわれた川路聖謨《かわじとしあきら》が自刃し、四月五日には小栗上野介が切られ、同二十五日には近藤勇も処刑されている。七月十七日、江戸は東京と改められた。  八月二十七日、明治天皇の即位式がおこなわれ、九月八日、明治と改元された。同二十日、天皇は京都を発して東京に行幸された。十一月五日、行列が高輪にさしかかったとき、勅使を泉岳寺に派遣し、「百世のもと、人をして感奮興起せしむ」という勅語とともに、金三千|匹《ひき》をたまわった。これで赤穂義士の忠誠心が、明治政府によって公認されたことになる。 �明治維新�が、�革命�であるかどうかということは、�革命�ということばの解釈によってちがっている。一般には、「政治権力の根本的変革を中心とする社会的大変動」を意味していて、その点からいうと、�明治維新�は明らかに�革命�であるが、階級支配の変革をともなわず、同一支配階級のなかで、権力の移動がおこなわれたのでは、�革命�とはいえないという解釈もなされている。  いずれにしても、明治の変革を内面的に見れば、大衆の忠誠心の対象となるものに、大きな変動のあったことは明らかである。江戸時代の忠誠心は二重構造になっていた。士農工商を問わず、一般民衆は藩主に、藩主は将軍に忠誠を誓うという建て前になっていた。そこへ皇室という新しい権威が再登場し、国をあげて、これに忠誠を誓わねばならぬということになったのであるが、この頭の切りかえは、かんたんにはいかなかった。天皇、将軍、藩主のあいだに、忠誠心の分裂がおこった。そこへ、欧米の民主思想、議会主義、共和思想なども、どっと流れこんできて、忠誠心の対象と内容を各自がえらばねばならぬことになった。 �維新�といっても、実は薩摩と長州が若い天皇を擁し、徳川にとってかわっただけだという説が、旧幕臣やその勢力下に長く生きてきた江戸や関東の大衆のあいだに流布された。また、薩摩と長州の対立、ヘゲモニー(覇権)の争奪も、一時は相当深刻なものがあった。当時のこういった情勢を考えると、明治天皇の東京御着と同時に、赤穂義士の忠誠心が称揚されたことの政治的意義がよく理解される。天皇の側近たちが、このように忠誠心の分裂している際、何はさておいても、忠誠心一般の電圧を高める必要を感じたのであろう。  新しい国際知識からくる忠誠心の分裂も、すでに幕府が倒れる前からはじまっていた。高山彦九郎、蒲生《がもう》君平《くんぺい》とともに�寛政の三奇人�と呼ばれた林子平《はやししへい》は、「楠公は小なり」、つまり、眼界がせまいといっている。  福沢諭吉の有名な�楠公権助《なんこうごんすけ》論�も忠誠心の大転換を説いて、当時の社会に大きなショックを与えたものであるが、福沢はまた『学問のすすめ』第六編で、国法は守らねばならぬこと、復讐は許さるべきでないことを知らせるために、赤穂義士の場合をひきあいに出し、これを否定的にあつかっている。  これにたいして、これまでとまったくちがった立場で猛反撃を加えているのが、馬場|辰猪《たつい》とともに、土佐が生んだ自由思想家の双璧といわれる植木|枝盛《えもり》である。植木の『赤穂四十七士論』は、明治十二年に土佐で出版されたもので、三十四ページの小冊子だが、内容は痛烈をきわめている。彼の論旨は、だいたいつぎのとおりである。 「欧米諸国のような文明の発達した自由な国では、福沢のいうとおりであるが、これを日本のような専制国にもってきて、あてはめようとするのは、とんでもないまちがいである。公議(立憲)政体の自由国においては、国法は国民によってつくられたのだから、貴《たつと》くもあり、必ず守らねばならぬのであるが、専制独裁の国にあっては、国法は政府が勝手につくったもので、人民とはなんの関係もない。したがって、これを守らねばならぬという理由はない。福沢は、浅野も吉良も赤穂藩士もすべて日本国民で、政府の法にしたがい、その保護をうけることを約束したものだといっているが、とんでもない話である。日本の人民が、いつの時代に、どういうことばで、政府の法にしたがい、その保護をうけると約束したというのか。政府のきめた法律に背《そむ》けば、その政府から見れば、罪人にはちがいないが、天下の罪人とはいえない」といった調子である。  明治九年、植木は『郵便報知』に『猿人政府』と題する一文を投書して禁獄二か月の体刑をうけ、釈放後に書いた文章のなかで「自由を求めるには、銀料をもってせずして勉強をもってすべく、金貨の代をもってせずして鮮血をもってすべし」と論じているが、この『赤穂四十七士論』は、その続編とも見るべきもので、明治初期のウルトラ(極端)自由主義の思想が端的に表現されている。 [#改ページ] [#中見出し]浪曲に生きた二神話   ——義士伝と乃木の自刃で最高潮に達した大正の浪曲ブーム——  [#小見出し]周期的な�義士熱�  赤穂義士と地元民との関係については、前にもちょっとふれておいたが、明治になって、義士ブームが全国的にわいてくると、地元にも「義士追慕会」というのができた。明治二十五年ごろのことである。  毎年十二月十四日の義士討ち入りの日には、浅野家の菩提寺となっている華岳寺に、会員が夕方からあつまって追悼会を開いた。まず、会長が祭文を朗読し、全員の焼香がおわると、義士研究会の講演にうつり、余興として義士をあつかった琵琶、講談などが演じられる。そのうちに夜がふけて、午前四時、すなわち義士が討ち入りをした時刻がくると、お神酒《みき》が出て、ソバをごちそうになり、解散するのである。  また、赤穂の小学校では、当日午前四時に、全校生徒が校庭にあつまり、手に�二《ふた》つ巴《どもえ》(大石の家紋)�の紙旗をもって、�義士の歌�をうたいながら、華岳寺まで行進し、校長の祭文朗読や住職の義士談をきいてかえり、文字どおり町民の�眠りをさます�ということになっていた。 「大石旧邸保存会」ができたのは明治四十年で、大石神社もつくることになったが、思うように基金があつまらなかった。けっきょく、本殿は赤穂町、拝殿は赤穂郡でもつことになって工事をすすめ、大正元年十一月、明治天皇御大葬直後に、やっと神殿ができあがった。社務所、玉垣、大鳥居などがそろったのは大正六年である。  大正二年には「赤穂義士研究会」というものができた。これは社団法人組織で、定期的に講演会を開き、その内容をパンフレットにして出版した。  これで見てもわかるように、義士ブームといったようなものが、全国的にひとつの周期をなしておこっている。第一波は明治二十七、八年の日清戦争前後、第二波は明治三十七、八年の日露戦争前後、第三波は明治末期から大正初期にかけてである。いずれも、日本の�危機�感が国民の胸にわいてきたときで、国家意識や民族主義思想の高揚期と一致している。  義士熱が高まるにつれて、義士発祥の地を見たいというところから、赤穂には観光客が殺到し、赤穂町民もこれにあおられた形である。そこで、赤穂では「義士せんべい」「義士おこし」「大石まんじゅう」「大石ようかん」「主税《ちから》もち」「討ち入りそば」などが売り出され、一時は�義士�でないと夜があけぬといったようなさわぎになった。  一方、義士にかんする出版物や興行物がハンランし、学者や文筆家のあいだに、義士研究の専門家と称する人がたくさん出てきた。その多くは、にわかじこみの�専門家�である。おびただしい義士研究書のなかで、いちばんまとまっていて信用できるのは、福本日南の『元禄快挙録』であることは前にものべたが、日南を�いま鳩巣�と名づけて、彼の著書に折り紙をつけたのは、明治の漢学者|信夫恕軒《しのぶじよけん》である。  恕軒は鳥取藩士で、たいへん博学であったばかりでなく、「才気|横溢《おういつ》、筆を下せば、千言立ちどころになり、口を開けば、その雄弁は懸河の勢いあり」といわれた。当時は、いまの講義や講演のことを�講説�とも�講談�ともいって、区別がはっきりしなかったようだが、彼の場合はユーモアがあって、普通の人がきいてもおもしろく、ずいふん人気があったらしい。のちに東京帝国大学の講師に迎えられたが、はじめ本所に私塾を開いていた。そのせいか、早くから義士研究に手をつけて、この道の最高権威と見られていた。  明治十一、二年の十二月十四日、彼は泉岳寺の本堂をひとりで借りうけ、義士の法会《ほうえ》を兼ねて講演をおこなうという計画を立てた。それが世間に伝わると、すごく評判になった。  ところが、その前の晩になって、文部省の提灯をさげた役人が二、三人、恕軒の家にやってきて、おそろしいけんまくで、 「官吏ともあるものが、一般公衆にむかって演説をするというのはふつごうである。どうしてもやりたいというのなら、辞表を出してからにするがよい」 と申し立てた。英語のスピーチを�演説�と訳したのは福沢諭吉だが、この場合の�演説�は、いまの�講談�の意味にとられたらしい。いずれにしても、これで彼の義士講演は、ついにお流れになったという。いまなら、大学の先生が、ラジオやテレビの娯楽番組に出てタレント化しても、文部省はなんともいわないし、世間も怪しまなくなった。  恕軒には『赤穂誠忠録』『義士の真相』などの著作があり、そのなかで「無根十三条」と題し、世に流布されている義士伝中のウソ話十三項を指摘している。  国際法の権威信夫|淳平《じゆんぺい》博士は、恕軒の長男で、元朝日新聞東京代表信夫|韓《かん》一郎、名古屋大学教授信夫清三郎は、いずれも淳平のむすこで、恕軒の孫にあたる。  [#小見出し]講談にかわって浪花節  明治末期の日本は、義士ブームの波におそわれた。明治四十三年元旦号の『日本及日本人』は、ほとんど全誌をあげて、「四十七名士之四十七義士観」をのせているし『東亜之光』は臨時増刊で「赤穂義士号」を出している。そのほか、この前後に、義士にかんする出版物がおびただしく出ている。どうしてこういう現象がおこったのか。  当時、幸田露伴は「義士談の喜ばるる所以」と題して、つぎのごとくのべている。 「その理由は、出版印刷業の自由になり、さかんになったのもその一つであろう。また浪花節のような新規な音曲で、俗耳《ぞくじ》に入りやすく、その趣味を鼓吹したのもその一つであろう。しかしそのもっとも大きい原因は、ここに一つの日本人の特性があると仮定して、その特性はまずは永久不変なものとして、人にうえつけられているのであるが、ただ他の傾向が出てくれば、その特性がちょっとおおわれてしまうことがある」 「義士談などの喜ばれるということは、日本人の古くからの特性から出たことで、狭いといえば狭い、固いといえばたいへん固い、ほめていえば義烈、くさしていえば狭隘なことに相違ない。細い道で二人が相会って、戦わざるをえんような場合に、死を決して戦う。しかしその戦うや、その目的は決して自己の安全や利益のためでない。それより以上の目的のために戦う。そういうことをたいへん立派なことに思う。これが日本人の一特性なのである。たとえば日清、日露の戦争でも、機械的、数学的には、優勝の地位に立っておらんでも、着々大勝を制したのは、一にこの国民特性の発揮の結果なのである」  明治維新以後、日本人は�文明開化�すなわち欧米文化のとりこみに夢中になって、この特性が一時おおわれていた。  それが、明治末期になって、出てきたというわけだ。  もうひとつ、見のがすことのできない点は、この特性が危機感とともに出てくるということである。明治末期の日本は、日露戦争には勝ったものの、政界は混乱し、財政的には行きづまり、思想の面でも、幸徳秋水の�大逆事件�がおこったりして、このままですすめば日本はいったいどうなるのか、という不安感がつのるばかりであった。  そのころの日本人のこういった気持ちにぴったりあう�新規な音曲�があらわれた。それが浪花節である。  日露戦争のあとで大隈重信は、 「この勝利は講談のおかげである」といっているが、日露戦争ころまでは、日本人特有の心理にうったえていたのは、主として講談であった。これにとってかわって、もっとひろい層にアピールして、露伴式に表現すれば「骨鳴り血わくの感」をおこさせたのは浪花節である。同じ日本人心理に訴えるものでも、娘義太夫《むすめぎだゆう》は、文学的、情緒的、女性的、平和的で、ファンの層がちがっていた。  浪花節は、「チョボクレ」「アホダラキョウ」などから転化したもので、神道の「祭文《さいもん》」、仏教の「声明《しようみよう》」などともつながっている。もとは「チョンガレ節」「ウカレ節」などといって、大道芸、門付《かどづけ》芸の一種であった。のちに小屋がけで客をよぶようになっても、寄席の高座にはのぼれなかった。三味線がついたのはずっとあとのことで、はじめはひとりで語ったのだ。内容も独自のものではなく、ありきたりのものから借りてきて、低い層の卑俗な興味にうったえていた。  それが一躍、東京の大劇場の舞台に出て、連日大入り満員ということになったのだから、世間が驚いたのもむりはない。その革命的変革をもたらしたものとして、桃中軒《とうちゆうけん》雲右衛門、吉田奈良丸のちの大和《やまと》之丞《のじよう》、京山小円《きようやまこえん》の三人をあげるのが普通であるが、なかでも雲右衛門の天才に負うところが多い。  もっとも、浪花節をはじめて大劇場の舞台に引き上げたのは、雲右衛門でなくて美富一調《びとういつちよう》だという説もある。しかし、浪花節の内容、節まわし、品格に大変革をもたらし、その地位を画期的に高め、全国的な人気をあつめたのは、なんといっても雲右衛門である。  雲右衛門は、茨城県結城在の生まれで、本名を岡本峰吉といった。父の繁吉も兄の仙吉も浪花節語りで、のちに峰吉が父の名をつぎ、旅まわりなどをしているうちに、お浜という愛人をえて九州におちる途中、岡崎で日露開戦の号外の鈴の音をきいたという。  日露戦争がおわるまで、雲右衛門は九州でくらした。そのあいだに、玄洋社盟主の頭山満《とうやまみつる》、当時九州日報社長兼主筆の地位にあった福本日南など、�九州浪人�に可愛がられた。これによって、彼の人柄や芸風が一変したのである。  [#小見出し]売り出した雲右衛門  性格的に、思想的に、九州人は、日本人のなかでも独特の伝統をもっている。日本軍でいちばん強いのは九州の師団だといわれていたが、いまでも自衛隊志願者が圧倒的に多いのは九州地方である。右翼思想が浸透し、敗戦で日本が�民主化�されても、各種の右翼団体が存在していて、根強い勢力をはっている点で、九州は日本でも特殊な地帯だといえよう。  これに似た地域を関東に求めるならば、それは茨城県である。日本の愛国団体、または右翼団体の多くは、九州人か茨城県人によって構成され、動かされているともいえる。九州人も茨城県人も、単純で、素朴で、頑固で、仁義にあつく、おこりっぽく、ケンカ早い。ことばや動作の荒っぽいところも似ている。露伴が日本人の一般的�特性�として指摘している点を拡大強化したものが、九州人気質、茨城県人気質だと思えばまちがいない。  浪花節の文句は、文章にすると、意味のよく通じないところがある。雲右衛門にしても、門づけをしながら成長して、小学校にもはいらなかった。耳学問でよくもあそこまでいったものだと思うが、九州にいるあいだに、そのころ福岡や長崎で鳴らした新聞人や琵琶の作家などの指導をうけて、これまでの口演内容を検討し、文章上の誤りを訂正し、新しい材料の提供をうけた。そればかりではない。人柄の上でも、かれらの影響をうけて、いちだんと重みを加えた。ひとくちにいって九州化したのである。  節まわしの上でも、古くから九州で発達した琵琶調をとり入れた。題材は義士伝に集中したが、これが彼の新しい浪花節とよくマッチした。  もともと、関東の浪花節にはタンカというものがある。これはヤクザの仁義のやりとりのようなもので、大衆のもっとも歓迎するところであるが、雲右衛門のもとの師匠の浜勝《はまかつ》は節よりもタンカを得意としていたので、雲右衛門はそのコツをよくのみこんでいた。  これらと彼の天成の美声と結びついたのだから、まさに鬼に金棒である。かくして大衆の心をつかむ膳立てはそろった。日露戦争がおわって、まだ勝利の陶酔感がいくらかのこっている東京に、彼は義士伝をひっさげ�武士道鼓吹�を一枚看板にしてのりこんできたのである。  明治四十年四月、本郷座でフタをあけたときの人気はすごいもので、�十町荒らし�(一町は約一一〇メートル)ということばが生まれた。彼の浪花節が本郷座にかかっているあいだは、付近十町四方の寄席の客は、すべてこれに吸収されて、ガラあきになるという意味である。前に娘義太夫の初代竹本|綾《あや》之助の人気が絶頂に達したとき、�八町荒らし�といわれたものだが、雲右衛門はこれより二町うわまわって、新記録をつくったのである。ラジオの人気番組が、銭湯をカラにしたというのと同じだ。  これまた九州仕込みだろうが、彼の自己演出も型破りだった。頭を総髪にして、長い毛をうしろへたらした姿は、いかにも堂々として、曰《いわ》くいんねんがありそうで、『慶安太平記』に出てくる楠木流の軍学者由比正雪を思わせた。明治四十年七月一日号の『日本及日本人』は、舞台上の彼の雄姿をつぎのごとく描いている。 「雲右衛門の本郷座に赤穂義士を演ずる、金ピカづくめの襖《ふすま》を立てまわし、舞台の装飾などすべて上方式の濃厚というべきをおぼゆといえども、その技芸は、彼の肉声の美と相まって、ほとんど絢爛《けんらん》の極に達し、聴衆をして神往《しんゆ》き魂馳《こんは》するをおばえざらしむ」  彼が語り出すと、大石内蔵助が彼にのりうつったようで、きわめてあざやかな印象を与え、全聴衆をなんともいえぬ陶酔状態に引き入れた。ことばから節、節からことばへののりかえにも、これまでの浪花節には見られない独特の品格がそなわっていた。  東京に出る前の年、彼は大阪で十日間興行したが、連日大入り満員で、なかには感動のあまり、小指を切って舞台にあらわれた若者もいたという。  そうかと思うと、徳富蘇峰のごときも、雲右衛門の節をきいて、 「これはまさに、りっぱなひとつの文章だ」 と、感嘆したといわれている。その後、これまで浪花節などというものをきいたこともない伊藤博文その他の諸名士や皇族などの前でも口演し、かれらのあいだに多くのファンをつくった。  独演で一夜の収入が、当時の金で千円をこえた。�ひと声千両�のことばがここから生まれた。  全盛時代の雲右衛門は、遊びもはでだった。大石の遊んだという祇園で、自分も大石流にだだら遊びをしてみたいといい出し、一力亭へ出かけた。そこで、黒チリメンの羽織の裏に、百円や十円の紙幣をぬいこんだのをぬぎすてて、そのまま幇間《ほうかん》に与え、一座のものを驚かせたりした。また二つ巴の定紋をつけた羽織ハカマの姿で、芸者や幇間を大勢おともにつれて、四条大通りをねり歩き、大石を気どるような稚気もあった。  [#小見出し]乃木殉死で最高潮  日露戦後の日本で、浪花節が異常な人気を博したのは、義士伝による�武士道鼓吹�が戦勝ムードにのったからでもあるが、側面からこれを助成したものに、レコードの発達がある。  エジソンが蓄音機を発明したのは、一八七七年(明治十年)で、そのころのレコードは、銅の円筒にスズの箔《はく》をまいたものだった。同十二年には早くもこれが日本に紹介され、はじめは写声器、蓄語器、蘇音《そおん》器などといった。  金をとってレコードをきかせたのは、明治三十二年以後のことである。浅草観音の境内で、野天で開業したのだが、蝋管《ろうかん》のレコードをゴム管を耳にあててきいたのだ。  日本ではじめてレコードの吹きこみをしたのは、イギリスのグラモホン会社で、明治三十四年築地居留地のメトロポール・ホテルにおいてであった。ついで、三十八年にアメリカのコロムビア、三十九年にドイツのベカ・レコード、四十年にビクター・レコードなどが、ぞくぞく日本にやってきた。しかし、そのころは日本では録音するだけで、原盤を本国に送り、レコードにして再輸入したのである。日本ではじめて商業的なレコードの録音、製作、販売をおこなったのは、日米蓄音器会社(三年後に日本蓄音器商会と改称)で、明治四十年、すなわち雲右衛門が本郷座にのりこんだ年である。当時レコードの内容としては、浪花節が圧倒的であった。このようにレコードの発達普及と浪花節は、切りはなすことのできないものである。  雲右衛門の向こうをはって、大阪浪曲界の王座を占めていたのは、二代目吉田奈良丸である。彼がはじめて東京に出て興行したとき、「日本一、吉田奈良丸」のスローガンをかかげたところ、東京側の大家たちは大いにふんがいし、弟子に命じてこのスローガンを書きこんだポスターを片っぱしからはぎとらせたという。  雲右衛門の節調が男性的なのに反し、奈良丸のほうは優美で、いくらか女性的であったが、ことばは七五調の美文でおぼえやすく、節も真似やすく、いまの流行歌と同じように、しろうとが口ずさむのに適していたので、たちまちにして全国を風靡《ふうび》した。彼の代表的名曲をあつめたパンフレットは、いまのヒット・ソング集同様に売り出されて、ベストセラーとなった。浪花節というよりは歌謡曲に近いもので、のちには「奈良丸くずし」という歌謡曲が大いに流行した。  かくして巨万の富を築いた奈良丸は、名も大和之丞と改め、大石内蔵助山科閑居跡の保存に力をつくしたり、同地に大石神社を建立したりして、義士顕彰につとめた。  雲右衛門、奈良丸につづくものは京山小円で、小円にはどっしりとした重量感があった。一時、この三人が浪曲界の人気を三分している形だった。小円は『乃木将軍』と題する長編を十面のレコードに吹きこんでいる。  ※[#歌記号、unicode303d]ああ偉なるかな乃木将軍   生きては武士道の権化《ごんげ》たり   死しては護国の神となる   げにも尊き言の葉に   よし行く道は遠くとも   花ある方をたどりなん   人に待たるる身にしあらねばと   自筆の和歌に美しき   姿はそれとあらわれて   大和心の山桜   散りては後に香をのこす   乃木ご夫婦のいさぎよき   殉死は年の名にしおう   大いに正しき初の秋   日も高き菊月の中の三日の夕暮に   神去りませし大君の   御跡したいて我はゆく   されども出でていつまでも   帰ります日のなしときく   今日の御幸《みゆき》は悲しきと   のこしたまいし筆の跡 といった調子で、「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」という乃木夫妻の辞世の歌や、「大正」という新しい年号なども、うまくよみこんでいる。  以上のべたところによって明らかなように、浪花節は義士伝によっておこり、一時おとろえかけたが、乃木将軍の殉死によって最高潮に達した。  雲右衛門が死んだのは大正五年である。かつての豪奢も夢と化して、文字どおりに陋巷《ろうこう》に窮死した形だった。その死を見とった松崎|天民《てんみん》のことばによると「雲の前に雲なく、雲の後に雲なし」ということにもなる。  その後、活動写真(のちに映画)が目ざましく発達し、思想的には�大正デモクラシー�全盛の時代を迎え「武士道は浪花節とともに去りぬ」という感じを与えた。  しかし、それは時代の波がしらにのみ即した観察である。浪花節の強味は、大衆の実感を動かすところにあるというが、その�実感�というのは、民族的感情をなしているもので、そうかんたんにかわるものではない。現に浪花節は、三波春夫や村田英雄となって、不死鳥のごとくよみがえっている。  [#小見出し]海を渡った忠臣蔵  赤穂浪士の仇討ちがはじめて芝居になって上演されたのは、討ち入りの翌年で、これは三日後に禁止された。近松門左衛門が『碁盤《ごばん》大平記』と題して浄るりにしたのは五年後である。その後、この題材と取り組んだものは多かったが、義士劇の決定版ともいうべき『仮名手本《かなでほん》忠臣蔵』がはじめて竹本座の舞台にかかったのは、寛延元年(一七四八年)八月で、元禄十五年から四十六年たっている。  この脚本は、竹田|出雲《いずも》以下三人の合作で、事件を『太平記』の世界にもちこみ、主人公を塩谷《えんや》判官と高師直《こうのもろなお》にすりかえて、検閲の目をくぐらせたのである。それまでに、これに似たものが十数種も出ていたというから、新作というよりも集大成と見てよい。  これが中国語に訳されて『海外奇談』として紹介されたのは、清《しん》朝の乾隆《けんりゅう》帝の五十九年(一七九四年)で、日本で初演されてから、これまた四十六年目である。  欧米に紹介されたのは、さらに一世紀ものちのことで、たいてい『四十七人のローニン』という題になっている。はじめてこれに手をつけたのは、フランスの作家ゴンクール兄弟というよりも、兄のエドモンであるが、�ローニン�という日本語には、いまの�ゼンガクレン�と同じように、適当な訳語がないというので、序文でくわしく解説している。エドモンは浮世絵の研究家で『歌麿』『北斎』の著作によって西欧の近代美術に大きな影響を与えたが、彼に協力したのは、林|忠正《ただまさ》という日本人の美術商である。 『四十七人のローニン』は、各国語に訳され、詩の題材にされたり、劇になって上演されたりした。ハンガリーでも、これが上演されて、たいへんな好評を博したときいた。そして�ローニン�というと、赤穂義士を意味するようになった。  アメリカでは、明治十二年(一八七九年)、為永春水《ためながしゆんすい》の『いろは文庫』が、斎藤修一郎という日本の留学生と、当時アメリカにいたイギリスの作家エドワード・グレーの共訳で、『忠義のローニン』と題して、ニューヨークから出版されている。この出版をめぐって、あまり日本に知られていない秘話のあることを知った。  斎藤はハーバード大学に留学していたが、同級生のなかに、のちにアメリカ大統領となったセオドア・ルーズベルトがいた。ルーズベルトは、はじめ黄色人種と机をならべることに不快の念を抱いていたが、斎藤と口をきいてみて、優秀な人物であることを知り、二人はすっかり親しくなった。  ところが、あと一年で卒業というときに、斎藤の送金が絶え、日本にかえらねばならなくなって、ルーズベルトのところへおわかれのあいさつに行った。そのさい、かねてアルバイトのつもりで訳していた原稿を彼に見せた。  これを読んでルーズベルトは大いに感動し、その出版のために、あらゆる便宜をはかってくれた。それがまた、日本人というものにたいする彼の認識を改めさせる上に役立った。のちに新渡戸稲造の『武士道』がアメリカで出版されたとき、ルーズベルトがこれを大量に買い上げ各方面に配ったというのも、こうした予備知識があったからである。  これが、その後の日本の運命にどんなに大きな影響をおよぼしたかは、日露戦争で、奉天会戦後、日本が進むことも退くこともならなくなったとき、ルーズベルトがのり出して、講和のためにひとはだぬいだり、アメリカ太平洋岸の日本人移民排斥運動の緩和をはかったりしたのを見ればわかる。むろん、こういったことは、大統領個人の好意から出たと単純に考えるのはまちがいで、アメリカの太平洋政策につながるものであるが、こういう場合、国の最高指導者の個人的感情とぜんぜんかかわりあいがないと見るのもまちがいである。  彼は大統領を二期つとめ、その間、対欧外交に平和政策をとったというので、ノーベル賞を授けられた。一九一二年、第三党をつくって三度大統領選挙に打って出たが、ついに成功しなかった。  太平洋戦争当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、このセオドア・ルーズベルトの甥である。もしもセオドアが太平洋戦争の当事者だったとすれば、あるいは日米間の破局を避けることができたかもしれない。しかし、このふたりのルーズベルトの背景になっていたアメリカの性格も、アメリカをめぐる国際情勢も、すっかりかわっていたことを見のがすことはできない。  一方、斎藤修一郎は、『忠義の口ーニン』の出版で学資をえて、無事ハーバード大学を卒業、帰国後とんとん拍子に出世して、井上|馨《かおる》蔵相の秘書官から、第二次伊藤博文内閣で後藤象二郎農商務大臣の次官にまでなったが、明治二十七年、有名な�金時計事件�に連座して職を辞し、不遇のまま、明治四十三年になくなった。  [#小見出し]高橋是清の義士観 「二・二六事件」の犠牲となった高橋|是清《これきよ》は、日本人にしては珍しい国際人で、数奇をきわめた経歴の持ち主であった。かぞえ年の十四歳でアメリカにわたり、渡航費の代償として奴隷に売られたりしたが、明治維新をサンフランシスコで知り、幕府がまた勢力をもりかえすかもしれぬと話し合ったと、その自伝に書いてある。さいごまで幕府がたであった仙台藩出身の彼の心の底にあるものが、こういう希望的観測を生んだのであろう。  その高橋が、『日本及日本人』の明治四十三年元旦号で、『海外に及ぼせる義士の感化』と題し、その感想を語っている。 「赤穂義士がその主君のために仇を討ち、怨みを報じたということは、その当時の時勢においては、人臣たる本分をつくしたものである。しかし、その行動においては、時勢とともに変化するものであるから、今日においても、なおああいうふうの仇討ちなどをやってもよいということはできないが、あの時代においては、たしかに完全なる本分をつくしたものといってよい。つまり、その精神たるや、私をすてて公に奉じた犠性的精神であって、その精神は今日においても、じゅうぶん学ぶべきものであると考える。この私をすてて公に奉ずるという精神さえもっておれば、国家は決して衰えることがないのみならず、ますます隆盛におもむくのはいうまでもないことである。この精神はひとり我が国ばかりではない。欧米諸国でも尊崇されていることで、赤穂の義士は遺憾なくこの精神を発揮したものである。  僕が先年ペルー国に行ったとき、そこに住んでいるドイツ人のへーレンという人は、たくさん日本の美術品をもっていたが、そのなかに一つの小さな釣鐘があって、大石が自らつくったものということで、銘がきってあった。へーレンは非常に大石の精神に敬服している結果、この釣鐘も珍重愛玩おく能わずというふうに見うけられた」  このへーレンという男は、ドイツの大金持ちのむすことかで、明治二年に日本へやってきて、築地に豪華な邸宅をかまえ、大名のようなくらしをしていたが、帰国後、ドイツの領事館員としてペルーに行き、ときの大統領バドローの姪《めい》をめとって、ついに中央銀行の総裁になり、ペルー財界の大立て者として幅をきかせていた。  もともと、ペルーは鉱山国で、食料はほとんど外国から輸入していたが、バドローが政権をとるとともに、農業開発の計画を立て、日本移民を入れることになり、へーレンの使っている日本人を日本へ送った。そのときもってきた銀山の鉱石を見て、日本側では大いに食指を動かし、三浦|梧楼《ごろう》、藤村|紫朗《しろう》、古荘嘉門《ふるしようかもん》、高島|義恭《よしたか》、高橋|長秋《ながあき》、小野金六などのお歴々が出資して、資本金百万円の鉱山会社を創立することになった。明治二十一年のことで、当時の農商務大臣井上馨も熱心にこれを支持した。その秘書官が、為永春水の『いろは文庫』を訳した斎藤修一郎で、高橋是清が特許局長だった。  かくて日秘鉱業株式会社が設立され、高橋は日本側代表として、技手、通訳、さらに第二陣として技手、坑夫、職工などを引率し、ペルーにのりこんだのである。  ペルーの首都リマにつくと、ヘーレンは一万坪(三三〇〇〇平方メートル)もある広大な屋敷内に、高橋らのため豪壮な新館をつくって待ちうけていた。これには純日本風の見事な大庭園もついていたが、これをつくったのは、松本辰五郎といって東京目黒の植木屋である。彼はのちにメキシコにうつり、大きな農園や牧場を経営して、日本人成功者中での第一人者となった。わたくしが彼に会ったのは昭和三十年で、九十五歳だといったが、まだいたって元気だった。  そのほか、南米では、花類の栽培で成功している日本人が多い。チリにはツバキ、アオキ、モクレン、フジ、ジンチョウゲ、ツツジ、オモト、シュロ、グミなど、日本の庭木類はたいていそろっている。これは明治四十五年に、イマニュエル・プンスターというイギリス人の富豪で、チリに大農園を経営しているのが、世界漫遊の途中、日本に立ちより、すっかり日本が気に入って、日本の庭木とともに、日本の植木屋や大工などを船にのせて、もってかえったのがひろがったのである。  それはさておいて、高橋らのペルーにおける鉱山経営は大失敗におわった。というのは、インチキな鉱石の見本で廃鉱をつかませられたのだ。  ところで「二・二六事件」で高橋を殺した青年将校たちにしても、「私をすてて公に奉じた犠牲的精神」という点では、赤穂義士とかわりはなかったのである。問題は、時勢とともに変化しなければならぬ�行動�の内容にあるわけだ。  [#小見出し]外債調達に一役  高橋是清の思い出のなかで、赤穂義士と関係のある話が、もうひとつある。  日露戦争がおこったとき、日銀総裁は松尾|臣善《しんぜん》で、高橋は副総裁であった。  この戦争で日本のつかった戦費は約十五億円と計上されているが、日清戦争のときは、戦費のおよそ三分の一は海外への支払いにむけられた。日露戦前の日本の歳費は三億円前後で、日本銀行の正貨準備は一億五百万円、兌換券《だかんけん》発行高は二億円台であった。こんなことで、ロシアを相手の大戦争にのり出せるものでないことは、はじめからわかっていて、どうしても外債にたよるほかはなかった。その外債募集の大任を負わされたのが高橋是清で、当時日銀の秘書役だった深井英五がこれに随行した。  これが成功するかどうかは、日露の戦果、ひいては日本の運命を左右したともいえる。宣戦布告がなされたのは明治三十七年二月十日で、二週間後の二月二十四日に、高橋らはこの重大使命をおびて横浜を出発したのだ。当時、日本財界の大御所ともいうべき地位にあった井上馨は、かれらを見送りにきて、涙をポロポロ流しながら激励したという。  ニューヨークについた高橋は、金融関係者のおもなところに会って、それとなくあたってみたが、そのころのアメリカは自国の産業開発のため、むしろ外国資本を導入しなければならぬ状態にあった。しかし、一般アメリカ人の同情は日本にあつまり、日本が戦争にふみきったのは、「冒険少年が雲つくような巨人に組みついた」ようなものだと見られ、日本人の勇気をたたえた。  高橋としては、外債を一日も早く成立させないと士気にも影響するので、アメリカに見きりをつけ、ロンドンにむけて出発した。  大西洋をわたる船に、ミス・ラングツレーという名女優がのっていた。彼女の後援者のなかには、イギリスの皇太子などもいて、社交界の花とうたわれていただけに、豪奢なもので、数人の侍女をつれ、食事の場合にも、専用の食卓につき、ほかの船客には口もきかず、女王然とかまえていた。  ところが、ある日、彼女は高橋に、船の事務長を介して、お目にかかって話をしたいと申しこんできた。高橋は驚いた。どういうわけかときくと、彼女は前にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『四十七人の口ーニン』を読んで、日本人というのは、こんなりっぱな精神をもっているのかと感嘆し、日本に強い関心をよせていたが、こんど日露のあいだに戦争がおこり、つぎつぎにはいってくる日本の戦勝ニュースをきいて、日本にたいする信頼感を深め、ぜひ日本人に会って話してみたいと思っていたというわけだ。  ひとつは船旅の退屈しのぎでもあったのだろう。ふたりのあいだで、いろいろと話がはずんだ。彼女は日本の芝居についての知識をぶちまけたうえ、つぎのような質問を発した。 「日本の役者は、舞台で死ぬるとき、自然と顔の色がかわるときいていますが、これにはなにか極意でもあるのでしょうか。特殊なクスリでもつけるのですか」  これにたいして高橋は答えた。 「わたしにはよくわかりませんが、そういわれてみれば、なるほど、日本の芝居では、死ぬるときに、だんだんと役者の顔色がかわってくるようですね。しかし、それは別にクスリを用いるからではなく、心理状態からくるのだろうと思います」  その後も、ふたりはときどき会って話をしたが、船がイギリスの港についたとき、彼女はいった。 「日本人というのが、�四十七人のローニン�のように、勇敢で義侠心に富んだ民族だとすれば、わたしは女の身でも、日本人とともに戦場に出て戦ってみたいと思います。日本政府が許してくれるでしょうか」 「もしもあなたが日本軍に加わってくださるなら、一個大隊の精兵をふやしたよりも有力でしょう。陣頭に立つあなたを見たら、ロシア軍はたちまち降参してくるでしょう」 と冗談をいって、ふたりはわかれた。  こんなふうに、英国人の対日感情はよかったけれど、さて、日本の公債を引きうけるということになると、おいそれとはのってこなかった。日本にとって英国は同盟国ではあるが、この同盟の条件は、交戦の相手国が二国になった場合に限り、共同参戦をすることになっていて、一国同士で戦っているあいだは、英国は中立国で、公債を引きうけると中立違反になるという説もあった。それに、英国側にいわせると、ロシアに金を貸すのは、土地を担保にして大地主に貸すようなもので、最悪の場合にも、担保の土地だけはのこる、日本の外債に応じるのは、成績のいい学生に学費を貸すのと同じで、前途有望かもしれないが、中途でポックリ倒れられたら、それっきりだ、といったような見方をするものが多かった。  それでも高橋は、各方面を説いて、四回にわたり、総計八億二千万円の外債を募集することに成功した。その裏で、赤穂義士の物語りが、日本人のイメージをつくるうえに、大きな役割りを果たしたことは争えない。  [#小見出し]ハムレットと忠臣蔵  演劇としての『忠臣蔵』は、いつやってもあたるというので�独参湯《どくじんとう》�といわれ、芝居の出しもののなかでは、久しく王座を占めてきた。これが日本人にうける理由として、明治四十三年に、坪内|逍遙《しようよう》はつぎの諸点をあげている。  第一に、現代的事件として感興を呼ぶ要素をそなえていること。  第二に、元禄時代の理想である忠勇義烈を経《たて》とし、いつの世にもかわらぬ人間の本能ともいうべき復讐欲を緯《よこ》としていること。  第三に、この劇に登場してくる人物が、元禄武士の理想にかなっていると同時に、狭斜《きようしや》のちまたで豪遊し、風流をきそった当時の町人の好みにもあっていること。  第四に、主役以外の人物にも、写実的な描写がおこなわれ、時代物と世話物をうって一丸としたおもむきがあること。  第五に、作者の舞台的技巧、人物の配合、背景の変化、波瀾対照の妙をきわめ、これだけでもじゅうぶん歓迎される価値があるのに、後世の作者がさらにいろいろと手を加え、おもしろきが上にもおもしろく、あまつさえ、名俳優がこれを演ずるつど、時代の好みに応じ、新しい工夫をこらし、なるべく自然に近づけようとしたこと。  第六に、脚本そのものの価値のほか、伝統からくる一種のありがた味が加わって、催眠術的作用をおよぼしていること。 『忠臣蔵』というと、すぐ引きあいに出されるのは、シェークスピアの代表作『ハムレット』である。どっちも復讐をあつかっていることと、上演回数が圧倒的に多いということでよく似ているが、復讐の内容はまったくちがっている。 『ハムレット』は王族内の争いで、日本のお家騒動のようなものだが『忠臣蔵』のように、�忠義�という概念でつらぬかれていない。日本では、お家騒動でも、必ずといっていいくらい�忠義�が登場してくる。  シェークスピアの『ハムレット』が世に出たのは一六〇三年で、赤穂義士の討ち入りに先立つこと約一世紀、竹田出雲の『仮名手本忠臣蔵』がはじめて上演されたときよりも一世紀半ほど早い。日本では、明治三年に出た中村|正直《まさなお》訳『西国立志篇』のなかで、その一部が�詩�として紹介されたのが最初であった。日本ではじめて上演されたのは、明治三十六年本郷座においてであった。その後、文芸座で、坪内|士行《しこう》、守田|勘弥《かんや》らの演じた『ハムレット』は好評を博した。  一昨年、わたくしはデンマークで、『ハムレット』のモデルになったという古城を訪れた。この城は、せまい海峡をへだてて、向こう側のスウェーデンが手にとるようにみえるところにあった。周囲に堀をめぐらし、函館の五稜郭《ごりようかく》を思わせるような構造で、幽霊が出たというヤグラを見せて、ガイドがまことしやかに説明した。むかし、この城に Amleth(アムレッス)という皇子がいた。この名前のおしまいのhを頭へもっていって、Hamlet(ハムレット)にしたのだという。『忠臣蔵』には、つくられた部分も多いが、物語りの骨組みになっている復讐そのものは、明らかな事実である。これに反して『ハムレット』は、十二世紀のデンマークの歴史家が書いた『デンマーク国民史』に出てくる話で、どっちかというと伝説に属するものだ。シェークスピア以前に、同じ名前の戯曲が出ていたことも確かで、これは Ur-Hamlet(『原ハムレット』)と呼ばれている。おそらくシェークスピアがこれと取り組む前に、幾人もの知られざる作家が手がけて上演されていたのであろう。  それどころか、シェークスピアそのものの実在も疑われていて、哲学者フランシス・ベーコンの匿名だという説さえある。そうでなくても、今のように著作権の確立しなかった時代のことで、俳優兼座付作者であったシェークスピアが、所属劇団の必要に応じて、古くからあった題材、もしくは台本を巧妙にまとめて集大成したものが、彼の著作としてのこされているのであろう。彼が天才だったとしても、その才能はこういう形で発揮されたものと思われる。  そういう点で、こういった物語りや芝居は、いわば民族の遺産の蓄積されたものである。中国の『水滸伝《すいこでん》』などについても、同じことがいえる。この物語りの作者は、ふたりということになっているが、ほんとうは幾人もいたにちがいない。それぞれの時代におこった新しい事件、風俗、民衆の好みが、だんだんとつけ加えられて、あのような雄大な物語りになったものであろう。登場する豪傑の数も、はじめは三十六人だったのが、のちには百八人にもなり、それぞれ庶民の夢と反抗精神を代表させている。  戦前、わたくしは『千一夜物語』の翻訳を手がけたことがあるが、この物語りの舞台になっているイラン、イラク、シリア、エジプトなどを旅行して、これらの土地に住んでいる民衆の生活と夢が、そのままこの物語りに反映していることを知った。  そこへいくと『忠臣蔵』は、あまりにも日本的だ。  [#小見出し]由良蔵と由良吉もある…… �江戸三座�のひとつといわれた市村《いちむら》座(明治二十五年、浅草|猿若町《さるわかちよう》から下谷|二長町《にちようまち》に移転、昭和七年焼失)の座主で、カブキの指導者でもあった田村|成義《なりよし》が、大正五年十二月発行の雑誌『日本魂』の義士号に書いているところによると、明治元年から大正二年までに『忠臣蔵』が東京で三十九回上演されている。そしてその八割までは、満員つづきの盛況だったという。  その間、大石良雄を演じた俳優について、彼はつぎのごとく語っている。 「大石良雄といったような、人格の高い、胆力のある、遠慮深謀の偉大な人物を、舞台の上にあらわすというのは、ただ俳優としての技倆ばかりでは、とても企てうるわけではありません。つまり、一見して『なるほど、大石良雄という人はこんな人であったろう』と思うだけの品位、態度、その他、大石良雄として有せねばならぬ、ほとんどすべてのものをもたねばならぬのです。  そこで、芝居の方面では、『ほんとうに、大星由良之助になったのは、沢村宗十郎(六世)だけで、そのほかのは、由良蔵か、由良之進か、由良吉、由良平くらいのものだけであった』とよく申しますが、先代の団十郎(九代目)は、宗十郎のほかに、いまひとり、大星由良之助をあらわしえた名優だと、信ぜられるのです。  明治十一年の十一月に、団十郎、菊五郎、左団次の三優が一日がわりの由良之助で、新富座《しんとみざ》で『忠臣蔵』を上場したことがありましたが、その時に、こんな川柳ができました。   由良蔵と由良吉もある新富座  ずいぶんと皮肉な批評ではありますが、実際、由良之助という役は、非常になんぎなものであります」  赤穂義士の統率者であり、その象徴でもあった大石良雄は、江戸時代の庶民の理想像であった。現実の大石が、必ずしもそういう理想的な面ばかりをそなえていなかったことは、前にのべたとおりであるが、数多くの脚本作家や演技者が修正に修正を加えていくうちに、文字どおりの理想像ができあがってしまったのである。  日本人の理想像としての大石良雄は、三つの面をそなえている。ひとつは武士道の精華という面、二番目は町人的な遊び人としての面、三番目は権力にたいする反逆者としての面である。これら三つの面が、主君の仇を討つという大義名分のもとに統一され、舞台の上で身をもって表現しなければならぬということになると、それは至難のわざであることはいうまでもない。  今とちがって、俳優の社会的地位や教養の低かった時代に、これら三つの面を兼ねそなえた人物を求めるのは、求めるほうがむりであったともいえよう。それは、技能の習得や人間的修業の到達しうる限界をこえているのである。そこで、�由良蔵�や�由良吉�が出てくるわけだ。  もうひとつ考えねばならぬことは、時代的な限界である。江戸時代につくられた大石のイメージは、明治時代になると、かなりかわってきているのである。  それについて、坪内逍遙はつぎのごとく語っている。 「明治の心をもって、元禄の作意に筆を加え、夢幻と写実とを調和せんと試みて、水と油のような結果をかもし出しているのが多い。これがせっかくの『忠臣蔵』を一段おもしろからぬものとなす所以である。この不調和の手入れを今の手際でつづけたなら、『忠臣蔵』は芸術としては見られないものになるであろう。徳川時代にも絶えず筆を加えたのだが、それはさすがに封建時代の理想を会得《えとく》していての加筆だ。今の俳優や狂言作者の加筆は、個人主義、自然主義の加筆で、封建時代の理想をはなるることはなはだしい。師宣《もろのぶ》の浮世絵の古びたのを西洋絵具で色揚げするようなものである」  また俳優についても、 「今の俳優のたいがいは、いかなる方面にむかっても、ほとんど理想というようなものをもたず、いわゆる現在主義、自然主義をもって新時代と解釈する手合《てあい》が多いんだから、てんで封建道徳の理想などは会得することができにくいかと思う。よし会得したとしても、もちろん同感はしまいと思う。その同感なき心でその人物に扮するから、自然の結果として観客を動かす力も弱い。あたかも浮世絵の美人を描く筆で、仏画を描かんとするようなものである」 といっている。これは戦後の日本でさかんにおこなわれたカブキその他古典の新解釈や新演出についてもいえることで、その極端な例が武智鉄二の�タケチ・カブキ�である。 [#改ページ] [#中見出し]ノギイズムの原形質   ——長州藩の児島高徳という異名をとった忠誠の人・将軍の父——  [#小見出し]古い型の�忠誠心�  乃木大将は、江戸麻布日ヶ窪の長府藩邸に生まれたが、同邸は、赤穂義士のなかの武林唯七など十名が預けられて切腹したところであることは前にのべた。このように、赤穂義士と乃木将軍とは、切りはなすことのできないものであるが、そのつながりは、そういった偶然に近い縁故に基づいているだけではなく、乃木大将の人間形成の上に、赤穂義士が重大な役割りを演じた。それが、将軍の性格や生涯を運命的に決定したともいえないことはない。  日本民族がうけついだ精神的遺産のなかで�忠誠心�のモニュメントとして、もっとも大きな影響力をもったものをあげるとすれば、まず楠正成、ついで赤穂義士、もっとも新しいところでは乃木希典ということになる。正成の時代には、まだ�武士道�という観念が発生していなかったが、正成およびその一族の自己犠牲の高さと純粋さが、後世の人々に強くアピールして、日本的�忠誠心�の理想像となったのである。しかし、彼が生きていた時代の日本の大衆に、それがどの程度に高く評価されていたかは疑問である。  同じ�忠誠心�の象徴でも、正成の場合は一族の代表としてであり、赤穂義士は四十七人の群像である。かつて三宅雪嶺《みやけせつれい》は、『幕府赤穂浪士の処分を誤まる』と題して、つぎのごとく語った。(『歴史公論』昭和八年十一月号) 「四十六人ことごとく同罪とするのは当っておるまい。千五百石の家老から何人|扶持《ぶち》の足軽まで一様にみるのは、階級を重んぜない時代でも妥当といえず、しかもこれを重んずることの甚だしかった当時にあって、四十六人一様に切腹という断罪はよろしきをえていない。首魁と目さるべき大石内蔵助、原惣右衛門、堀部弥兵衛など、三四人あるいは五六人を死刑にし、その他を流刑または禁錮にすべきであったと思う。否、場合によっては、死刑を大石一人にとどめておいてもよかった」  これは近代的な法律の解釈で、封建的な事件にはあてはめられない。この仇討ちは、明らかに集団的なもので、参加者の身分や役割りによって、罪を重くしたり、軽くしたりするべきものではない。『忠臣蔵』というのは、モニュメントとして見れば、�忠義の群像�としてあつかうべきものである。神崎与五郎などは、給与は寺坂吉右衛門についで低く、しかも浅野家に仕えてまもないものである。「察するに、その心中は�五石三人扶持の新参者が、君の仇討ちに参加するのも面白かろう�といったぐあいで、この壮快なる企てに味方したのではあるまいか」と福本日南は指摘している。「多少もの好きのきらいがある」とさえいっている。(『日本魂』大正五年十二月号)  このように、赤穂義士の集団的な仇討ちは、日南が�快挙�ということばで表現しているように、壮快な面を多分にそなえている。武士道や忠義が実戦からはなれて、道徳化し、制度化するとともに、いくらかスポーツ化した時代の産物ともいえよう。これがカブキや浪花節の題材として圧倒的好評を博したということは、この事件そのものにそういう要素がふくまれているばかりでなく、これに参加した義士たちの人柄や心理のなかにも、忠臣劇に登場するという意識、自己陶酔に似たものがあったのではなかろうか。本来の�武士道�そのものは、もっと現実的で、もっときびしいものではなかったろうか。つまり、『忠臣蔵』は、平和な時代の�武士道�、なかばスポーツ化された�武士道�である。 といって、わたくしは�武士道�や�忠誠心�のすばらしいモデル・ケースとしての『忠臣蔵』の意識を否定したり、その社会的影響力を低く評価しようとするものではない。 『忠臣蔵』が�忠義の群像�だとすれば、乃木大将は個人像もしくは夫婦像である。そこにわたくしは、正成や赤穂浪士とはちがった意義を見いだすのである。  社会的変革期は、一面からいうと、�反逆心�と�忠誠心�の大量生産の時期である。乃木大将が生まれて育った徳川末期には、忠義のためにすべてを犠牲にして、ほとんど報いられることなく死んで行ったものが、数限りなく出たし、また生きのこって�元勲�などと呼ばれ、権力と栄華をほしいままにしたものも多かった。とくに乃木大将を生んだ長州からは、そういった人物が大量に出た。  早く死んだものはしかたがないとして、生きのこったもののなかで、若き日の�忠誠心�を、その純粋性を失わずに、晩年までもちつづけたものが、果たしてどれだけあったであろうか。  その点で、乃木大将の場合は、楠正成や赤穂義士とはちがって個人的で、別個の性格をそなえている。ことばをかえていえば、近代社会にもちこされた古い型の�忠誠心�である。それがどのような社会的、家庭的環境において発生し、成長し、最期まで保存されたのであろうか。  [#小見出し]身分は中の下  乃木大将の父は長府藩士で、希次《まれつぐ》といった。五歳で萩の乃木本家から養子にきたものだ。希次の兄の希幸《まれゆき》もやはり養子だったが、これが九歳のときになくなって、そのあとへ弟が迎えられたのである。この時代には、同族間の養子縁組みが多いが、これはその家についている禄を失いたくないからだ。  希次は、はじめ秀《ひで》という家つきの娘と結婚して、長男|信通《のぶみち》を生んだ。信通は藩主毛利|元周《もとちか》の近習役に召し出されたが、二十三歳でなくなった。この夫婦関係はおもしろくなかったとみえて、ついに離婚した。  希次が再婚した相手は、寿子《ひさこ》といって、常陸の土浦藩士長谷川金太夫の長女である。土浦藩というと、赤穂浪士の処分を評定所で裁定したとき、老中としてこれに列した土屋政直のあとだから、乃木家と多少のつながりがないわけでもない。  希次と寿子のあいだに、次郎(早世)、希典《まれすけ》、キネ、真人《まこと》、イネ、集作《しゆうさく》の四男二女が生まれた。のちにイネと金太夫の孫の勝太郎とが結婚して、そのあいだにできたのが有名な彫刻家長谷川栄作である。乃木大将の木彫や銅像は、ほとんど彼の作品だ。  希次は儒者で医者を兼ねていたが、禄高は八十石だった。武士としては、中の下というところだろう。彼は医者がきらいで、武家の故実とか、小笠原流礼法とかに通じ、武芸にもひいでていた。とくに弓術を得意とし、十二歳のとき、深川三十三間堂の通し矢で評判をとった。これが、藩主の耳にはいって、医薬を免ぜられ、お馬回《うままわ》りに加えられた。  長藩一般の習慣として、同じ士分のなかでも、兵学者、医者など、特殊な業をもって仕えるものは�業家《ぎようけ》�として軽んじられた。一種の職人あつかいされたわけだ。  希次は忠誠剛直で、�長藩の児島|高徳《たかのり》�という異名をとったというから、どんな人柄だか、想像がつく。はじめ�喜十郎�といったが、負けずぎらいで、口やかましく、いちどいい出したらあとへはひかないので、ある親しい友人が冗談半分に、 「少しばかりことばをおへらしになってはいかがですか」 といった。これをきいて、喜十郎は、大いに悟るところあり、さっそく「まず名前から削ろう」というわけで�喜�の字をすてて、ただの�十郎�と改めたという。  希典が生まれたのは、嘉永二年だが、その祝いに狩野《かのう》芳崖《ほうがい》を自宅に招いて、小型の六曲屏風に端午《たんご》の図を描かせた。のちに芳崖は、明治初期の日本画壇で橋本|雅邦《がほう》とならぶ巨匠となったけれど、そのころはまだ二十歳で、江戸に出て狩野|勝川《しようせん》に入門したばかりだった。乃木家とは同郷で、懇意でもあったので、芳崖の生活を助ける意味で、これを描かせたのであろう。その後、芳崖は食いつめて郷里にかえり、カイコをかったり、ささやかな文房具店を開いたりしていたが、明治十二年にふたたび上京した。  芳崖の才能を見出したのは、東京大学のお雇い教師に迎えられたアメリカ人アーネスト・フェノロサである。当時は欧化主義の全盛時代で、日本人の目は、すべて海外にむけられ、自国の美術などをかえりみるものはなかった。芳崖が市井《しせい》にくすぶって、陶器の下絵などをかいて、やっと生活をささえているところへ、突然、青い目の外人が、芳崖の友人狩野|友信《とものぶ》の紹介状をもって訪ねてきた。そのころの美術展覧会に出ていた芳崖の作品に強い感銘をうけ、作者に会ってみたくなったのだ。芳崖にしてみれば、こんな毛唐に日本画のほんとの価値がわかるものか、と思った。しかし、せっかくきたのだから、ひとつ試《ため》してやろうという気になり、この外人を旧藩主の毛利家へつれて行った。そして同家所蔵の美術品をいろいろと出して見せたが、感心した様子はなかった。  ところが、たまたま女中べやにあった芳崖の屏風絵を出してみせると、 「これはすばらしい」 とうなった。そこで、ふたりははじめてうちとけて語りあった。そして、この外人の鋭い鑑識眼に、こんどは、芳崖のほうで感嘆した。それから、ふたりは、すっかり親しくなった。フェノロサは、しばしば芳崖の家を訪ねて、激励し、勇気づけた。  これは明治十七年のことで、二十一年に芳崖は六十一歳でなくなった。しかし、美術学校の校宝となっている「悲母観音」をはじめ、彼の代表的傑作と見られるものは、このさいごの四年間にかかれたのである。  その後、フェノロサが、岡倉天心などとともに、日本画の復興、改革、東京美術学校の創設に努力したことは、あらためていうまでもない。  ところで、芳崖が乃木将軍の誕生祝いにかいた六曲屏風は、将軍の幼な友だちで、兄弟のように親しかった桂《かつら》弥一の家に、今も所蔵されている。  [#小見出し]将軍の日本的陰影  乃木大将よりふたつ年下で、同郷で、少年時代から親しかった真鍋斌《まなべあきら》中将は、幼いころの大将について、つぎのごとく語っている。 「大将は俗にいう泣き顔の人であった。しかし、その泣き顔のなかには、形容のできぬ笑《え》みがひそんでいた」  そういえば、乃木大将の顔というより人間ぜんたいを包んでいるもの——硬そうにみえる外皮の内側に、なんともいえぬペーソスとユーモアがあったようだ。わたくしは、将軍に直接会ったわけではないが、将軍にかんする文献、写真、絵、筆跡などととりくんでいるうちに、そういう感じをうけた。将軍を直接知らない人は、その硬そうな外皮からくる印象だけで批評し、いちどでもその人柄に接したものは、独特のペーソスとユーモアのオブラートを通して、日本の古典的なヒューマニズムを見いだし、深い親しみを感じるのであろう。  楠正成とか、加藤清正とかも、実はこういう型の人物ではなかったろうか。大将が正成に傾倒していることは、桜井の正成父子|訣別《けつべつ》の地に立っている記念碑の字を大将が書いているのを見ても明らかであるが、清正についても大将は大いに同情をよせ、死ぬ前、清正の贈位を希望する意見を発表している。大将自身に、どこか暗い悲劇的なカゲがさしているだけに、こういった悲劇的な武将が好きらしい。  これら三人の武将は、剛毅のようで、しかも真竹《まだけ》のようにしなやかで、シンが強く、きびしい現実に耐えながら、いつも筋を通すことによって、周囲に負けずに、さいごまで自己を生かしぬいたところがよく似ている。純日本的な理想像として大衆に親しまれたのも、身についた�忠誠心�という面からのみきているのではない。  乃木大将が生まれたときは、いたって虚弱で、朝から晩まで泣き通しだった。すでに男の子をふたりまでなくしている両親は、なんとかしてこんどは無事に育てたいという念願から、彼には�無人《なきと》�という名前をつけた。反対の意思表示をすれば、運命に抵抗することができるという当時の信仰からきたものである。しかし、近所のこどもたちは、彼を�泣人《なきと》�と呼んでからかった。性格の点でも臆病で、ガキ大将にはなれなかったらしい。  このように乃木大将の身辺には、生誕から死にいたるまで、一種の�弱さ�がつきまとっている。その�弱さ�は悲劇性につながるものだ。もっとも、この�弱さ�は、はじめは両親によって、のちには当人の努力によって、ある程度克服された。そして、一見、天性とはまったくちがったような人物ができあがった。しかも、それは名人によって鍛えられた名刀のように、肉体の面でも精神の面でも、驚嘆すべきねばりづよさを発揮するにいたった。  彼は、決して生まれながらの英雄豪傑でもなければ、天才的な謀将でもなかったが、日本画的な陰翳をたたえた純日本的武将となった。   |山 川 草 木 転 荒 涼《さんせんそうもくうたたこうりよう》   |十 里 風 腥 新 戦 場《じゆうりかぜなまぐさしんせんじよう》   |征 馬 不 前 人 不 語《せいばすすまずひとかたらず》   |金 州 城 外 立 斜 陽《きんしゆうじようがいしやようにたつ》  この有名な詩によって浮かんでくる大将のイメージは、陣頭指揮をする軍司令官でもなければ、観戦武官でもなく、従軍記者でもない。心ならずも職業軍人となった詩人が、軍司令官の服装を身につけて、こみあげてくる涙をじっとおさえている姿である。ここで彼は�泣人�のむかしにかえったのだともいえよう。 「余は武士の家に生まれながらも、武家礼法などを好み、また文学の方に志をむけ、武芸の方をおろそかにしたり。あるとき学者となり身を立てんとの志をおこし、実父の許可を請うた。父は、武士の家に生まれたるものが、かかる懦弱《だじやく》なることにてはよろしからずとて、断然として許可せられなかった」 と、大将自身で語っている。本来平和的な性格をもって生まれたものが、抗しがたい周囲の圧力に屈し、運命に身をまかせて、戦争を職業とする道をえらんだのである。  日露戦争当時、第三軍に配属されたアメリカの従軍記者スタンレー・ウォシュバンは、乃木大将のこの二重人格を見ぬいて、つぎのように書いている。 「私たちに言葉をかけるときの将軍の眼は、柔和《にゆうわ》で、いんぎんで、きわめて円満な眼であったが、いったん幕僚や伝令士官に命令するとなると、二つの瞳孔が収縮して、鋼鉄色の二点に化し、風貌一変して、個性も感情もない、戦争の機械になる。ひるがえってまた私たちにたいするときは、まったく別種の人物となり、声まで変る。スチブンソンの小説にあるジキル博士とハイド氏の如き変りかたである」  [#小見出し]三百里歩き通す  安政五年というと、維新の変革劇の第一幕が最高潮に達したときである。井伊|直弼《なおすけ》が大老となり、アメリカその他の国々に強いられて、勅許をまたずに条約を結び、国内では、将軍|家定《いえさだ》の死、継嗣問題をめぐる争いが白熱化し、六年にはいると、反主流派の水戸徳川|斉昭《なりあき》などが謹慎を命ぜられるとともに、�安政の大獄�がおこって、梅田|雲浜《うんぴん》、吉田松陰などが処刑され、翌万延元年には、桜田門外で直弼が暗殺されて、いちおう幕がおりたのである。  この年、乃木将軍はかぞえ年で十歳になったが、父希次の身辺に大事件がおこった。藩主から謹慎を命ぜられ、家をあげて東京を去らねばならなくなったのである。  それまで、希次は、藩主の子どもたちのお守り役をつとめ、忠勤をぬきんでて、しばしば藩主の恩賞にあずかっていた。それについて、こんな話が伝えられている。  ある厳冬の日、世子《せいし》(藩主の嗣子)のおこないに、目にあまるものがあって、希次はたびたび訓戒したが、反省しようとする様子がみえなかった。そこで、希次は、いきなり庭に出て、着物をきたまま、雪のふる池にとびこんだ。  世子はびっくりして叫び声をあげたので、ほかの家臣たちがかけつけてみると、希次は池のなかで目をつむり、何をいっても口をきかなかった。幼ない世子は、ついに泣き出した。そこで、希次は目を開いて、おごそかにいった。 「若さま、これからこの希次の申しあげることをきっと守るとお誓いあるまでは、希次は死骸になってもここから出ませぬ」  これがまもなく長府藩をつぎ、三条|実美《さねとみ》らを奉じて、長州勤王派の一方の旗頭となった毛利元敏である。のちに宮中|御歌所寄人《おうたどころよりうど》となった人だ。  このように剛直な、古武士のような希次が、どうして藩主のおとがめをうけることになったのか。  その理由については、いろいろといわれているが、そのひとつは、どこにでもある相続争いからきているという見方である。長府毛利家の藩祖は、元就の孫の秀元だが、十二代目の元運《もとゆき》が死んだとき、嗣子の元戦がやっと三歳だった。時局重大の折柄というので、元運の兄元寛の子元周がとりあえず相続し、元敏が十歳になれば、元周は退くということになった。無人《なきと》と同年の元敏がちょうど十歳になったので、希次がその約束の実行を強く主張したのがいけなかったというわけだ。  もうひとつは、希次の性格が剛直すぎて、周囲との調和を欠いたためだという説である。  長く近習役をしていた希次が、こんどは御番手《ごばんて》に転じた。近習役は奥づとめであるが、御番手は表づとめで、習慣も作法もちがっている。ここでは、禄高や年齢とは別に、このなかでの年功序列制になっていて、古いものほど幅をきかせ、新しいものは古いものにたいして、主従のような関係におかれるのである。出入り口までちがっていて、新任者はそこで両刀をはずし、無刀のままはいってくることになっていた。  しかし、希次はこの習慣にしたがわなかった。いくたび注意されても、殿さま以外の指図で、武士の魂である刀を手放すことはできないとがんばった。そこでついに、�鍋かるひ�すなわち、公務以外のことでは、一切つきあいをしないし、口もきかぬということになった。勤務中、昼食や用便のために席をはなれようとしても、代わってくれるものがなくなった。  こういった年功序列制は、封建制度が固定化し、動きがとれなくなったときに発生するもので、現在秩序にたいするひとつの抵抗でもある。今からかれこれ五十年ばかり前、わたくしは生まれた村の若衆組に入れられたが、組の会合に出れば、地主の子も小作人の子も、身分をぬきにして、加入年度に基づく別な秩序のもとにおかれた。しかも、それはきびしいもので、これにしたがわなければ、その一家が�村八分�になるのであった。  いずれにしても、希次のように、古風な武士|気質《かたぎ》にこりかたまった存在は、太平つづきで官僚化した江戸時代の武士社会にいれられなかったものと見るべきであろう。  この謹慎と転任の命令が出たとき、希次の妻寿子は、ちょうど妊娠中だったので、しばらく猶予を乞い、次女のイネが生まれ、寿子の健康が回復するのを待って出発した。長女のキネは江戸の親類に預け、希次夫妻に、十歳の無人、五歳の真人《まこと》、みどり児の次女イネの五人づれだ。転任手当が支給されるわけではなく、家財道具を売りはらってえた金を路銀に、江戸から、下関に近い長府まで、三百里の長旅についたのである。母とふたりの弟妹はカゴにのり、これにそうて無人は父とともに歩き通した。  長府の外浜についた乃木一家は、いよいよ城下にはいるというので、服装を改めた。希次はカミシモ、無人は木綿《もめん》の紋服に小倉のハカマ、寿子も同じ紋服をつけた。といっても、出迎えてくれる人はなかった。  当時の制度として、江戸詰めのものが帰国した場合は、新しく召しかかえられたものと同じように、家屋敷を支給されるのが普通であるが、乃木の場合は、帰国のむねを藩にとどけ出ても、なんの沙汰もなかった。いちおう城下に宿をとったが、金がかかりすぎるので、間借り生活をつづけ、そのうちに手ごろの空家がみつかって、そのほうへうつった。  翌安政六年二月になって、やっと閉門百か日ということになった。判決がくだったのである。へたすると切腹させられるところだったから、まずほっとしたわけだ。それとともに、給与も八十石から五十石にへらされた。五十石といっても、これは�表高《おもてだか》�であって、まるまる五十石もらえるわけではない。それに閉門中は無役で、勤務手当てがぜんぜんつかない。  乃木家の生活は、日ましに苦しくなっていった。さしあたって必要でないものは、売り払ったり、質に入れたりしたが、それも長くつづかなかった。刀剣その他の武具だけは、身分不相応なものをもっていたけれど、これだけは絶対に手放そうとしなかった。  そこで、生きるための最小限の不足をおぎなうには、内職でもするほかはない。そのころ、武家でも中以下のものは、内職をするのが普通で、別に恥ずかしいことではなかった。楊枝《ようじ》をけずったり、ロウソクのシンをつくったりするのだが、これは主人を中心に、家じゅうが手伝ったのである。当時は、すでに商業主義経済の段階にはいりつつあったので、�禄�という名の限られた給与は、物価の上昇に追いつかず、下級武士はこういうみじめな形で、商品生産の片棒をかつがせられたのである。  乃木家のえらんだ内職は、塩センベイやキヌタマキをつくって売ることであった。キヌタマキというのは、米の粉の練ったのをのばし、その上にアズキの餡《あん》をのせてまきこんだものだ。これは母の仕事で、その原料になる米をついたり、粉をひいたりするのが、十一歳の無人の役目であった。できあがったものは、長府から二里ばかりはなれた馬関(下関)の菓子屋へはこんで売りさばいてもらった。いずれも、江戸ふうの味がするというので評判がよく、思ったよりよく売れて、大いに助かった。  前にも書いた桂弥一というのは、このころから無人といちばん親しい友だちであったが、のちに乃木大将の思い出話を書き、これを大将に送って、まちがいや気に入らぬところがあれば、遠慮なくけずってくださいといってやった。これがかえってきたのを見ると、つぎのように書きこんであった。 「貧困のため母の涙にしばしば歎息候ことなどは、あまりくどく相成候間、相略し申し候」  大将としては、この時代のことは古傷のようなもので、あまりふれてもらいたくなかったのであろう。  この年六月、やっと閉門の期限がきれた。臣籍をけずられるようなこともなく、もとのように世子のお守り役として出仕すべしということになった。そのとき希次は五十七歳であった。  ある日、希次は自分の家屋敷の周囲がなん間あるかはかったうえ、戦場に出て行くときのような完全武装をして、かけ足でまわり出した。腹がすくと、前もって用意してあった小型のにぎりめしを口に入れたまま走りつづけた。大便の場合はやむをえず便所にはいるが、小便は走りながらすませた。  これが、昼も夜も休みなくつづいた。そのあいだじゅう妻の寿子は、縁側に腰をかけたままで、希次が一周するごとに記録をとった。雨がふっても休もうとしなかった。  希次にとって、これはひとつの大きな試練であり、実験であった。君家に一大事がおこったとき、いまのからだで、どの程度まで奉公に耐えられるか、幾日かかってなん里走れるか、体力の限界を知ろうというわけだ。けっきょく、七日七夜走りつづけて、まだ倒れるところまではいかなかったというので、自分の体力に自信をもつことができたという。おそらくこれを見た近所の人たちは、希次は気が狂ったと思ったにちがいない。  かぞえ年で五十七歳といえば、今日の会社勤めでいえば、ちょうど定年退職も過ぎた年ごろである。  [#小見出し]郷里に残る乃木イズム  希次が寿子を後妻に迎えたのは四十六歳のときで、寿子は二十歳、二十六年の開きがあった。これに関連して、こんな逸話がのこされている。  彼の江戸時代のことだが、近習役をやめて御番手という役目についてからの彼の勤務は、今の午前十時に出勤、御殿玄関内の大広間に、午後四時まで着座する。それから自宅にかえり、夕食をすませてまた出勤、六時すぎになってその日の勤務はおわる。それから夜勤と交代するのであるが、夜勤は、午後十時から翌朝六時までになっていた。昼夜とも、だいたい八時間勤務で、その点は今とたいしてかわりはないのだが、そのあいだずっとすわりつづけていなければならぬのだから、今の人にはちょっとつとまりそうもない。  昼食や用便のため席をはずす場合には、同僚にたのんでいくことになっていたが、前にのべたように、�鍋かるひ�にされると、それもできない。しかし、頑固で辛抱強い希次は、昼食をぬきにし、非番のときにも、なるべく湯水を口に入れないように心がけた。また夜勤の場合には、交代で少しは眠ることを許されていたけれど、希次は夜具の包みによりかかったままで、一睡もしなかった。  この状態がかれこれ八か月もつづいた。これが藩内で大評判になり、重役たちの耳にもはいった。今のことばでいうと、人道上すててはおけぬというわけで、古手の同僚たちに警告が発せられ、この冷戦はいちおう緩和された。  だが、このために、希次は健康を害し、藩医に診察してもらった。別にこれといって悪いところはないけれど、からだが衰弱しているようだから、養生するがよい、とくに夫婦の間は当分つつしみなさいといわれた。  それから七年たった。ある日、希次から藩医のところへ、酒肴にそえて手紙がとどいた。一身上のことでぜひ相談したいから、今夜おうかがいしてもいいかというわけだ。  その晩、希次は訪ねてきて、よもやまの話をしたうえ、急に改まっていうには、 「実は、先年ご診察をうけたとき、からだが弱っているから、夫婦の間はつつしめといわれたので、その後はずっと、家内とは別の部屋にねて、先生のおことばを守ること、まる七年になりますが、まだ私のからだは回復しないのでしょうか。これをうかがいに参上したわけです」  これには藩医も驚いた。手をついて、ひたすらあやまるほかはなかった。藩医のほうでは、七年前にいったことなど、すっかり忘れていたのだ。  この話はうまくできすぎていて、どう見てもマユツバものである。このあいだに、無人の弟や妹も生まれているはずだ。禁欲生活を七か年もつづけたというのは誇張で、七か月のまちがいか、せいぜい二、三年であろう。それにしても、この逸話は、希次の人柄を端的に物語っている。  民族の場合でも、個人の場合でも、こういった伝説もしくは神話が多い。現存の人物にもそれがある。ゴシップと呼ばれているものがそれだ。しかし、これらは単なるつくり話ではない。話そのものはつくられたものでも、たいていそのなかに砂金のような真実がはいっていると見てよい(後に乃木家の遺族から筆者によせられた手紙によると、これは実話で、希次が七年間禁欲生活をつづけたことはまちがいないという)。  さて、乃木家も、閉門の期限がきれて再出仕が許され、禄ももとの八十石に復し、これに勤務手当二十石がついて、合わせて百石となった。そこで、二十五両出して、ささやかな家を一軒買った。  この家は今も長府にのこっている。建て坪が八坪二合五勺(二七平方メートル強)で、六畳、三畳の二室と、二坪(六・六平方メートル)ほどの土間があるきりだ。もともと門長屋だったのを住宅にしたもので、天井もない。しかし、希次はこのほうがかえって便利だといって、屋根裏にヤリ、ナギナタ、弓矢、陣笠などをつるし、六畳の座敷の名ばかりの床には、ヨロイビツ、具足などをおいた。現在はこの室に、大将の両親と、少年時代の大将の像がおかれている。  庭には、乃木家でつかった井戸とか、旅順開城の際に敵将ステッセルと会った水師営にちなんで、ナツメの木がうえられている。  この屋敷にとなりあって乃木神社がある。昭和三十七年、乃木夫妻自刃五十年祭記念に新築されたもので、なかなかりっぱなものだ。寄付者の名札には、岸信介、佐藤栄作兄弟をはじめ、今をときめく長州系政治家、財界人が、ずらりと名をつらねている。  近くの長府博物館へ行くと、乃木関係の資料が百五十点も陳列されている。そのなかには、日本映画史を飾る「水師営会見」のフィルムもある。戦後、ソ連の大使館からこれを貸してくれといってきたが、ことわったという。  それよりもわたくしが興味を感じたのは、現在下関から出ている新聞に、銘菓「乃木の誉」「乃木せんべい」「乃木包丁」「乃木刃物」「乃木学生服」などの広告を見つけたことで、かつての乃木家の内職が思い出された。  乃木大将の郷里では、乃木イズムが今もこういう形で生きているのだ。 [#改ページ] [#中見出し]明治を形成した群像   ——維新をリードした下級武士の忠誠が少年乃木に投げた影——  [#小見出し]�勤皇�は倒幕の手段  明治維新は、マルクス主義的な立場から見た�革命�ではないにしても、国家を支配する権力の移動という点では、大きな革新であった。その革新の震源地となったのはまず水戸で、長州、薩摩、土佐などが、これにつづいたということになっている。しかし、この革新にたいするこれらの藩のねらいや各藩の演じた役割りは、それぞれの伝統、性格などによってずいぶんちがっている。時期の問題でなくて、質の問題だ。  水戸は光圀の大義名分論、すなわちイデオロギーから出たもので、それだけに、いざとなると、もろい面がある。光圀の場合は、まだ観念的な段階にとどまっていたが、斉昭の代になると、�烈公�というおくり名が示しているようなはげしい性格をもって幕府に抵抗し、その部下から、幕府の大番頭である井伊直弼を倒すテ口リストまで出た。しかし�尊皇�の名において結集した新興勢力が強くなり、決定的な段階にはいってくれば、水戸藩の革新的なボルテージ(電圧)がガタおちになった。宗家あっての水戸家という考えかたが強く出てきて、藩主や一部側近の勝手な行動を許さないのだ。重臣たちにとっては、徳川家がほろびたのでは、元も子もなくなるというところから、時と場合によっては、藩主を殺しても、宗家に忠勤をぬきんでるということになる。  現に、水戸家の重臣|結城寅寿《ゆうきとらひさ》は、幕府と組んで斉昭を倒そうとし、それが未然に露見して殺されたという事件もあった。斉昭のあとをうけた斉篤《なりあつ》が凡庸なのに乗じて、藩内で結城派の残党が勢力をもりかえし、藤田東湖の系統に属する勤皇派の天狗党とはげしく対立、天狗党が敗れて、水戸藩はついに維新のバスにのりおくれてしまった。  大正の終わりから昭和のはじめにかけて、日本に社会主義、共産主義のアラシがおしよせてきたとき、最初にこれにまきこまれ、勇敢な闘士となったもののなかに、支配階級の子弟が多かった。旧久留米藩主伯爵有馬|頼寧《よりやす》などは、革新思想の同情者、同調者の域を出なかったが、旧三河吉田藩主で理化学研究所の所長であった子爵大河内正敏のむすこの信威《のぶとし》(のちに磯野姓を名のる)とか、桂太郎、仙波太郎とともに�陸軍の三太郎�といわれた陸軍大将宇都宮太郎のむすこで現自民党代議士の徳馬など、二世組になると、かつては左翼の陣営で、連隊旗手的な役割りを演じたものが少なくない。  このように、旧秩序にたいする思想的、良心的な批判ないし反逆は、その秩序の内部で、恵まれた特権的地位にあるもののあいだにまず発生し、これがもっと下のほうにひろがって、その秩序を崩壊にみちびくというのが、公式のようになっている。水戸の勤皇思想というのも、そういった性質のものであった。  これに反して、長州の勤皇は、はじめから倒幕に根ざしている。ほんとの目的は幕府を倒すことにあるのであって、その思想的根拠を勤皇に求めたにすぎない。そして倒幕の有力なキメ手になったのが攘夷であるが、それも倒幕の手段であった。したがって、幕末における長州の動きを思想的に見ると、矛盾だらけというよりも、支離滅裂であった。  長藩では、毎年元旦の未明に、城中|正寝《しようしん》の間で、君公ひとりが端坐していると、その御前に首席家老があらわれ、うやうやしく手をついて、 「幕府ご追討の儀はいかがでござりましょうか」 という。すると君公は、 「いや、まだ早かろう」 と答える。この会話が儀式化され、年中行事のひとつとなって、二百何十年間もつづけられたという。きびしい徳川の支配下にあって、そういうことが可能であろうか。少々疑わしい点がないでもないが、仮にこういった儀式がおこなわれていたとしても、知っているのは君公と首席家老だけであったにちがいない。いずれにしても、この藩には倒幕思想が、古く深く根をおろしていたことは事実である。  長州人にいわせると、毛利家の勤皇思想は、そんなものではなく、藩祖元就が、兵馬の権は朝廷にあるというので、陶晴賢《すえはるかた》を討つのに、勅許をえて兵を動かして以来、四百年もつづいている。領内|石見《いわみ》の銀山が、徳川政府の手にうつるまでは、ここからとれる銀は、ほとんど朝廷に献じていた。関ヶ原の戦いに敗れて、それまで十三州を領していたのが、防長二州三十六万石にけずられてからも、苦しい藩財政のなかから、朝廷への献金をおこたらなかったという。  勤皇思想という点では、織田信長も同じであった。しかし、元就にしても信長にしても、天下統一の目的を達成したのちまで、この思想をそのまま失わずにもちつづけたであろうか。こういった野心的な武将たちにとって、勤皇は、有望な投資といって悪ければ、心のよりどころとなって、自分自身や部下をはげますことに役立っていたのではなかろうか。  変革期というのは、民衆の側から見ると、忠誠心が分裂し、多元化するときである。  乃木大将が十歳で、父につれられて江戸から長府にうつってきた安政五年から、慶応四年(明治元年)にいたる十年間は、日本史上まれにみる忠誠心の動揺期、分裂期であった。しかも、そのゆすぶられかたのもっともはげしかったのは長州藩で、こういう時代と環境を背景にして、乃木の人間形成がなされたのである。  当時は、朝廷、幕府、藩主というふうに、忠誠心の対象が三元化されていた。とくに、藩主にとっては、朝廷か幕府か、そのいずれかをえらばねばならぬ立場に追いこまれていた。毛利藩においても、はじめのうちは、「天朝へは忠節、幕府へは信義」といったような、あいまいなスローガンでごまかしてきたが、情勢が切迫してくると、それもできなくなった。藩内は、妥協主義の右派と、忠誠心の急激な転換を要求し、これを実践にうつそうとする左派に、分解してしまった。前者は�俗論党�、後者は�正論党�と呼ばれた。むろん、これは左派から出たことばで、右派では左派を�激徒�といった。のちのことばでいうと、�過激派�である。  戦前、日本の軍部で革新思想がもりあがってきたとき、�俗論党�とか�正論党�とかいうことばが、そのまま用いられていた。さいきん、日本の左翼陣営で、ソ連や中共にたいする関係について書かれたものを見ると、�俗論��正論�ということばが出てきている。ここでも、今や忠誠心の分裂がおこっているらしい。  しかるに、青少年時代の乃木について書かれたものを見ても、彼の内面生活に、忠誠心の分裂という現象はおこっていないようである。藩主とそれからいちだん高いところに朝廷があって、これらへの忠誠心が、一元的に調和を保っていたのであろう。  ところで、長州藩における�激徒�の温床となったのは「松下村塾」で、そこにあつまった多くの青年を指導したのが吉田松陰である。そして、この青年たちのなかから、維新の功労者が多く出て、そのうちの幾人かは、明治の�元勲�にまでなった。乃木将軍のことばによると、「ご維新の霊火が、松下村塾よりもえ出した」ということになっている。  しかし、将軍自身は、いちども松陰に会っていない。将軍がはじめて萩に出てきたのは元治元年、将軍十六歳のときである。松陰は、これより六年前の安政六年に、江戸へ送られて処刑されてしまったからだ。それでも、松陰と将軍のあいだには、思想的にも血族的にも、切りはなすことのできないつながりがある。それについて将軍はつぎのごとく語っている。 「余の家は、代々毛利家の分家ともいうべき長府の毛利家の家臣であるが、余より四代ほど前の祖先の代に、余の主家より出でて、本家の毛利家をつがれたお方がある。そのとき余の祖先の弟が、そのお方にしたがってご本家の家臣となり、新たに家をおこして玉木姓を名のった。そこで、余の家と玉木家とは本支の関係ともいうべきわけで、もっとも親密なる親族関係を持続したのである。ところで、余の父の代になって、玉木家に子がなかったために、杉家より文之進という人を迎えて、そのあとをつがせることになった。この玉木文之進という人は、吉田松陰の叔父にあたる」  文之進は、松陰の父杉|百合之助《ゆりのすけ》の末弟で「松下村塾」というのは、もともと文之進が開き、松陰がこれをうけついだものである。少年時代の乃木はからだが弱く何をしても人後におちる。これでは武芸で身を立てることもむずかしく、学問でもするほかはないと考え、両親に無断で家を出て、文之進をたよって萩にきたのだ。  ところが、文之進から、 「からだが弱いから武芸ができないなどとは、ふとどき至極である。そういう腰ぬけは、断じて世話することはできない」 とハネつけられた。  しかし乃木は、 「余も一心じゃ。どうあってもこの家は動かないと、覚悟をきめて、三日三晩すわりこんだ。この決心に幾分か心を動かされた様子で、かつ文之進の夫人が、そばで見ていてよほど気の毒に感ぜられたとみえて、いろいろととりなしてくれた結果、ようやくお許しが出たのである」  のちに、この玉木家へ将軍の弟の真人(正誼)が養子に迎えられた。このように、杉、吉田、玉木、乃木の血族関係はきわめて複雑で、織機のオサのように入りくんでいる。松陰の実兄杉|民治《たみじ》の孫にあたるのが、現在ジェトロ(日本貿易振興会)の理事長で、日韓予備会談の日本政府代表ともなった杉道助であることは有名である。道助の書いたものによると、杉、吉田の両家では、四代にわたって養子縁組みがなされてきたという。こういったいわば閉鎖社会で、家と血と禄を維持して行くためには、どうしてもこういうことになるのであろう。  [#小見出し]改名と人間の成長  現代人は、原則として名前はひとつしかない。しかも、それはたいてい父がつけたものだ。こんなものを死ぬまでもちつづけるというのは、どう考えても不合理である。  わたくしは、人物評論をするときに、名前を参考にするが、それによって当人の性格や運命がわかるというと、姓名判断になる。これでわかるのは、この名前をつけた父の趣味、教養で、ひいては当人の育った家庭的環境が、おぼろげながら浮かんでくるのである。  そこで、父のつけた名前でも、当人の気に入れば、そのままでもいいが、そうでない場合は、当人が成年に達し、自分でえらんだ、もしくはこれからえらぼうとする職業なり、人生コースなりについて、だいたいの見通しがついたとき、改めて自分の名前を再検討し、自主的に選定するのがほんとうである。  その点で、むかしの武士の子弟が、十五歳で元服し、ついでに名前も改めるのは、いい習慣だと思う。それによって自主性、独立性が高められるからだ。  吉田松陰の伝記をよむと、かぞえ年で十一歳のとき、藩主の前で兵書の講義をし、十九歳になると、家学の師範をつとめている。というと、恐るべき早熟の天才のように思えるが、これに似た例はほかにもたくさんある。松陰が教えをうけた佐久間象山にしても、幼にして天才と呼ばれ、七歳のころには挙動成人のごとく、十五歳で家学をうけ、易経を暗《そら》んじたといわれている。  しかし、能力の点では、現代人もそんなに劣っているわけではない。島田清次郎が処女作『地上』をもって世に出たときは、たしかに天才という感じを与えたし、中条百合子が『貧しき人々の群』を『中央公論』に発表したときは十八歳で、まだ女子大に在学していた。現役の作家でも、三島由紀夫、大江健三郎などは、早熟の天才といえないこともない。ただし、現在は主として文学や芸能の面に偏し、学問の世界では、そんなに早く世に出て名をなすことはむずかしい。というのは、むかしとちがって、学問そのものが複雑になったからでもあるが、現在の教育制度が、人間を画一化していることは争えない。  それはさておいて、むかしの人は、成人、地位、環境の変化に応じて、名前もカメレオンのようにかわっている。とくに、維新の変革期に活躍した長州系の�志士�たちの場合は、名前を少なくて半ダース、多いのは一ダースくらいもっている。ひとつは非合法時代の共産党員と同じように、地下活動をする必要と便宜からきているのであろう。かれらの動きや人柄を名前の面から見ると、別な興味がわいてくる。  吉田松陰を例にとると、幼名正一をはじめ、大次郎、寅次郎、虎之助から、矩方、義卿などというむずかしいのもある。そのほか臨時の匿名、変名はかぞえきれない。寅次郎、虎之助というのは、寅《とら》年生まれにちなんだものであるが、とくに彼が愛用したのは、�二十一回猛士�という号である。 �二十一回�というのは、�吉田�という字を分解して再構成したもの、�猛士�は虎からきたもので、虎のごとき猛威をふるうことが、生涯に二十一回あるべきだという彼の抱負を物語っている。なるほど、長藩の�激徒�の指導者にふさわしい名前である。  大仏次郎の『鞍馬天狗』でおなじみの桂小五郎は、いかにも大衆文学の主人公にふさわしく、変幻出没の妙をきわめた彼の活躍にうってつけなので、木戸|孝允《たかよし》が世をしのぶ仮の名だと思われているが、実は本名のひとつである。彼の実父は和田|昌景《まさかげ》といって、萩の藩医であった。同藩の桂九郎兵衛の養子に迎えられ、通称小五郎、のちに貫治、準一郎と改め、松菊と号した。孝允というのは、世に出てから、その地位にふさわしいものをえらんだのである。  伊藤博文は幼名を利助といった。父は林十蔵といい、水のみ百姓で馬車ひきなどをしていたが、食いつめて、伊藤という仲間《ちゆうげん》のところで下働きをしているうちに、同家に子供がないので、家族ごと養子に迎えられたのである。そのとき利助は十四歳で、それまでは他家に若党奉公をしていた。利助はその身分に応じた名前だが、その後、彼の地位が上昇するにつれて、俊輔となり、博文と改め、春畝または滄浪閣主人と号するにいたったのである。  薩摩の人物でも、西郷小吉から隆盛へ、大久保|正助《しようすけ》から利通へかわっている。その他維新の�元勲�たちの幼名、通称、変名、匿名などを調べて、姓名の面から彼らの成長過程をみるのは、単なるいやがらせではない。  [#小見出し]天才的なアジテーター  戦前、萩の名物は、松下村塾と松陰神社、維新の�元勲�たちの生家、恩給で生活している退役の将官たち、くずれかかった土塀のなかの夏ミカンであった。その筆頭は、なんといっても松陰の遺跡で、そのために全国から萩にやってくるものが、最盛時には年間二十万人をこえた。夏ミカンは、樹齢が古くなりすぎて、味がおち、売りものにならなくなったけれど、近ごろのジュース・ブームでもちなおした。毎日、萩の海辺につり糸をたれていた�閣下�たちの姿は消えたが、松陰の遺跡と�元勲�の生家だけは、いまもそのままのこっている。  松下村塾といっても、安政四年十一月、杉家の宅地にあった物置きを修理し、のちに、弟子たちの手で少しばかり建てまししたもので、翌五年十二月には、松陰が投獄されているから、この塾が開かれていたのは、ほんの一年あまりである。その前、自宅で教えていた期間を加えても、せいぜい二年半にすぎない。この短期間に、維新の変革に大きな役割りを演じたものが大量に養成されたというので、松陰は日本史上まれに見る�人つくり�の天才ということになっている。いずれにしても、驚嘆すべき人物速成である。  しかし、わたくしの見るところでは、松陰は偉大なる教育家というよりは、天才的なアジテーターであった。彼のところへあつまってきたものが、彼から求めたのは、知識や理論ではなくて、行動への刺激であり、その裏づけになる信念である。教育家というのは、人間をつくるものであるが、アジテーターは人間を一定の方向にむけるものだ。  その当時の日本、とくに長州藩にせまっていた内外の情勢が、そういう人物を要望していた。そこへ、松陰のような人間的な魅力と高い精神的スタミナをもった男があらわれて、かれらの心に点火し、その意欲をバクハツさせたのである。かれらの多くは、松陰がいなかったとしても、歩んだコースやなしとげた功績に、そう大したちがいはなかったであろう。事実、長州系の人物で、松陰に会ったこともないものでも、松陰門下同様の、あるいはそれ以上の役割りを演じているものが少なくない。のちに�長州の三尊�のひとりとなった井上馨のごときも、松陰門下ではない。だが、松陰門下でなくても、この時代に長州藩をつつんでいた精神的ムードの影響をうけている点にかわりはなく、世間から松陰門下と思われるような型の人物になったのである。  同じことだが、たとえば夏目漱石の門下から、小宮豊隆、阿部次郎、安倍能成、野上豊一郎、鈴木三重吉、森田草平らの学者、作家、評論家などが、一時に大量に出た現象についてもいえよう。むろん、これは漱石の個人的な力に帰すべき点が多い。それと同時に、かれらを生んだ時代的、社会的環境、同じグループの相互影響や競争心も無視することはできない。野球や水泳の優秀な選手が、ある時期に、あるところで群をなして出てくるのも、これと同じである。こういう現象は、ずばぬけた指導者のいるところでおこりやすいが、相互影響や競争心だけでもおこりうる。武者小路実篤、志賀直哉、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]、有島武郎、長与善部などを出した『白樺』派、小山内薫、谷崎潤一郎、和辻哲郎、大貫晶川などの第二次『新思潮』派、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、豊島与志雄などの第三次『新思潮』派などのばあいがいい例である。  したがって、長閥とか薩閥とかいっても、特別に優秀な能力をもった人材が、ある地域に大量に出たのではなく、たまたまその才能がその時代の性格と要求にマッチし、変革期に大きな役割りを演じて、その多くがときの権力と結びつくことができたということである。漱石門下や『白樺』や『新思潮』出身の作家たちが、ある時期に日本の文壇を支配したのと、そうかわってはいない。才能のむけられた方向がちがっているだけだ。  ところで、松陰は二十九歳でなくなっているが、明治以後まで生きのこっていたとすれば、どういうことになっていたであろうか。  いちおうは木戸孝允、伊藤博文、井上馨、山県有朋などの上にすわって、西郷隆盛、岩倉具視などと対等の発言権をもったであろう。しかし、彼の性格からいって、その地位に安閑としておることができたかどうかは疑問である。  明治の新政府で、本戸は長州派のリーダーとして薩摩の西郷、公卿の岩倉とともに、�実力者トリオ�を形成していたが、その後、弟分の伊藤が大久保についたりして、晩年はあまり幸福ではなかった。木戸のかわりに松陰がその地位についたとしても、おそかれ早かれ、引退もしくは失脚の運命が待っていたのではなかろうか。松陰は後藤象二郎や板垣退助のように、晩年をけがすようなことはなかったとしても、江藤新平、前原一誠、西郷隆盛のあとを追うか、あるいはかれらに先んじて、権力の座からすべりおちる公算が大きいと見るべきである。というよりも、松陰の人柄そのものが、権力の座にふさわしくないのだ。  [#小見出し]彦九郎の忠誠心  幕末から明治にかけて活躍した長州人中、忠誠心の感度と純粋性が最高に達したままで死んでいったものは、まず吉田松陰であろう。しかし松陰の忠誠心は、どっちかというと政治的、集団的、二元的であった。というのは、彼の忠誠心は、単純に皇室へのみささげられていたのではなく、長州藩の利害、藩主への奉仕ということも、彼の頭から消えることはなかったからだ。  徳川時代を通じて、皇室にたいする純個人的な忠誠心が、最高度に達した人物を求めるならば、まず京都の三条大橋で皇居をふしおがんで泣いた高山彦九郎をあげねばなるまい。王政復古の明治にはいって、このようにボルテージの高い忠誠心のもち主は、かえって少なくなっているが、乃木将軍のごときは実に珍しい例である。乃木将軍は、松陰よりはむしろ彦九郎に近い。  将軍が自刃したとき、あやうく狂人としてあつかわれるところであったが、久留米で自刃した彦九郎は、その死に立ちあった医者によって、�狂死�という断定を下されている。  彦九郎は、蒲生君平、林|子平《しへい》とともに、�寛政の三奇人�といわれていたくらいで、奇行に富んでいた。彼の生まれた上野《かみつけ》国新田郡は、新田義貞の出たところである。彦九郎は十三歳で『太平記』を読んで発奮し、志を立てたという。彼の生まれたのは、延享四年、九代将軍|家重《いえしげ》のときで、新田義貞が死んでから、四百年以上もたっている。そのあいだ冬眠していた皇室への忠誠心が、大昔のハスのタネのように、奇跡的に発芽したのである。  彦九郎の先祖は新田の家来であったが、新田がほろびてからは百姓になっていた。しかし、畑仕事をする場合にも、決して両刀を手放さなかったという。  武家だと、領主に養われているので、勤皇といっても限度があり、忠誠心も分裂せざるをえないのであるが、彦九郎の場合は、主家をもたないだけに、皇室への忠誠心が純粋で、異常と見られるまで高められたのであろう。  天明の末期、京都に大火があって、皇居が焼けたときいた彦九郎は、夜を日についで京都へかけつけた。その途中、木曾の山中で、数人の盗賊におそわれたが、それについて、備後の儒者|菅茶山《かんさざん》がおもしろい話を書きのこしている。  姫路のある百姓が、牢屋で山賊といっしょになったとき、長いあいだ山賊をしていて、おそろしい目にあったことはないかときくと、たった一度ある、木曾の山中で、仲間とともに、通りかかった大男に金を要求すると、相手は大声を出して「バカものめ」とどなりつけ、ノシノシと歩いていった。その声は山々にひびきわたってすさまじく、一同たまげて尻もちをついた。すると、その男は半丁(五〇メートル余)ばかり行ってこちらをふりかえって見たが、その目が光っておそろしかったこと、天狗というものがいるとすれば、まさしくこれだと思った、というのである。  さらに菅茶山は、彦九郎との会談について、つぎのように書いている。 「その話、中古より士道のおとろえしことをなげき、はなはだしきは流涕《りゆうてい》をなす(涙を流す)。歴代天子の御諱《おんいみな》、山陵まで暗記して、ひとつも誤らず」  このようにして彦九郎は、各地を遊説していたが、東北にきたとき、蒲生君平が彼に会いたいと思って、そのあとを追っかけた。石巻までくると、道ばたに後醍醐天皇の供養塔が目についたので、近くにいた山男に、近ごろこのへんへ偉そうな男がこなかったかときいた。山男は答えた。 「十日ほど前のこと、ひとりのおさむらいが、この供養塔の前で身をきよめ、礼服にきかえてひざまずき、ふところから何か書いたものをとり出して、一句読むごとに泣いておられました」  寛政五年六月、九州をまわって久留米にたどりついた彦九郎は、同地の医者で同志でもある森嘉善の家を訪ねた。  どうも様子がへんで、自分が書いた日記やもらった手紙を水にひたし、夢中になって破った。  そのあと、森がちょっと席をはずしたスキに、彦九郎は切腹した。剣をもったまま森をよび、京都の方角をきいて、そのほうにむかって席を改め、柏手《かしわで》をうち、心のなかで念じた。 「何か遺言状でも」と森がきいた。 「わたしが日ごろ忠と思い、義と思ったことが、みな不忠不義となりました。今になって自分の不明がわかって、気が狂ったのです。天下の人にそう伝えて下さい」  まもなく息が絶えた。検使がきて、事情をきいたとき、森が答えた。 「気が狂ったのです」  そのころ、尊号|宣下《せんげ》問題がおこり、白河楽翁《しらかわらくおう》の反動政策で、彦九郎らの急進的尊皇思想に弾圧がくだりそうになっていた。  高山彦九郎の伝記を読むと、皇室の衰微をなげき、国家の前途を憂えて、いつでも、どこへ行っても、泣いてばかりいたようである。  乃木将軍の泣き顔については前に書いたが、声を出して泣くということはあまりなかった。禁欲に徹した将軍は、泣くことでさえも消極的で、腹の底にしまいこみ、おもてへ出ないようにつとめたのであろう。  これに反して彦九郎は、だれが見ていても平気で、手放しで泣いたらしい。�寛政の三奇人�中のトップとして、かわりものの域を脱し、だれの目にも異常とうつったのは、そのためである。そしてついに、王政復古の陽光さえも見ることなしに、いかにも彼らしい死にかたをしたのであるが、ほんとに発狂したのか、それとも周囲がめいわくを恐れて発狂ということにしてしまったのか、よくわからないけれど、どっちにしても紙ひとえで、いまのことばでいうと、�挫折�感から、精神的なよりどころを失ったことが、強いショックを与えたのであろう。  その後、水戸藩をはじめ、長州藩その他の雄藩内に、勤皇思想を奉じて、�国事に奔走�する人々の数が多くなり、近い将来に王政復古の実現する可能性が増大するにつれて、人間の型もちがってきた。性格や言動のはげしさの点ではかわりはないが、単なる�奇人�ではなくなった。�奇人�というのは、希少性から出たことばであるが、こういった存在がある程度普及し、大きな流れになってくると、その流れのなかで、一種の忠勤競争ともいうべき現象があらわれてくる。常識的、妥協的態度をとるものは、逆に�俗論�として排撃される。勤皇という方向はだいたい一致しているので、あとはただ理論や行動の激しさで、たがいに争うことになる。  左翼的な思想運動や労働運動においても、ある時期には、こういう現象があらわれた。�昭和維新�を唱えた少壮軍人や右翼のあいだでも、同じような事態が発生した。  安政から万延、文久、元治、慶応を経て明治にいたる十余年間、乃木将軍の人間形成がなされた時代の長州を包んでいたムードは、こういうものであった。これをリードして明治維新にまでもちこんだのは、どこの藩でもそうだったが、主として下級武士の子弟で、かれらの精神的ボルテージを高めるトランスの役割りを果たしたのが吉田松陰である。かれらは文字通りに�激徒�で、相互に激しさを競い、その相互作用によって、ぜんたいの激しさを高めて行ったのである。  こういった心理状態は、この時代の�激徒�たちが自ら好んでつけた名前に、端的に表現されている。のちの大勲位元帥公爵山県有朋は、幼名を辰之助といったが、国事に関心をもつにいたって狂介、狂輔と改め、素狂とも名のった。木戸孝允も、前にあげた名前のほかに、竿鈴、干令、松菊などと号したが、これをさらにもじって、干令狂夫、干令狂生、松菊狂生、松菊酔狂生、無埒狂生などとも名のっている。  高杉晋作も、暢夫、春風、東一、和助、東行、谷梅之助、谷潜蔵、紅屋助次郎、楠樹小史、致良知洞主人など、たくさんな名前をつかっているが、これらのほかに、東狂、西海一狂生、東洋一狂などという名を用いたこともある。  吉田松陰にしても、安政五年六月、江戸からかえってきた藩主毛利敏親に、献白書をささげたが、その題名は『狂夫の言』となっていた。  このように、この時代の長藩の�激徒�たちは、好んで�狂�という字を用いた。彦九郎は、周囲から狂人と断定されたのであるが、松陰および、その門下生たちは、自ら狂人をもって任じていたのである。  むろん、これは精神に異常があるという意味ではない。�俗論�すなわち、常識や妥協に基づく生ぬるい態度から脱することのできない保守主義者に反対し、抵抗し、これを排撃する意思表示として、�狂�と名のったにすぎない。これは悪源太義平の�悪�が道徳的な意味ではなくて、�強い��猛々《たけだけ》しい�ことを示していたのと同じように、非妥協的な急進性、忠誠心の強さ、何人もおさえることのできない行動意欲のはげしさを告白したものといえよう。むろん、このはげしさは、社会的変革期に、その目的を達するまでの過程において、いつもあらわれてくるものだ。  それにしても、変幻出没自在で、将来の見とおしも正確で、融通もきいた木戸や、後には頑固で、保守的で、慎重で、�元老�としてさいごまで権力の座にのこり、�長藩の家康�といわれた山県までが、かつては�狂�を自称しているところに、この時代の�狂�的性格がよくあらわれている。そこへ行くと高杉は、その�狂度�がずばぬけて高かったばかりでなく、これを失うことなくしてその生涯をおえた。したがってこの時代を象徴する人物を求めるならば、まず高杉ということになる。  戦後の日本で、全学連のリーダーとして登場した唐牛《かろうじ》健太郎、北小路|敏《さとし》、作品を通じて見た石原慎太郎、大江健三郎などは、それぞれ若い世代の�狂�的な面を代表しているように見られたが、人柄からいうと、いずれも申し分のない秀才タイプである。  [#小見出し]四分のズルさ  戦後は�大臣�と名のつくものが大量に生産されて、新聞記者のあいだにさえ名前のよく知られていないような大臣もたくさんいるが、戦前は政治家になっても、閣僚に列するのはたいへんだった。ある人がある政界の長老に、あなたが大臣にならないのはどういうわけかときいたところ、つぎのように答えたという。 「大臣になるには、三分の能力と三分の運と四分のズルさが必要である。わしにはそのズルさが欠けているのだ」  明治政府の重要な地位をほとんど独占していた薩長人についても、同じことがいえそうである。  ズルさということも、見方によっては、能力の一種だともいえる。このズルさのなかには、時の権力の見わけかた、将来の見通しの確かさ、危険にたいする自己防衛力といったようなものもふくまれている。ひとくちにいって明哲保身の術だ。  そうなると、三分の能力、四分のズルさというのはまちがいで、これらをあわせた七分が実力で、あとの三分が運ということになる。  松陰はいつも、「高杉の識、久坂の才」といっていたが、能力の点で、高杉晋作と久坂玄瑞《くさかげんずい》が、他をぬきんでていた。松陰がいかに久坂の才を認め、これを愛していたかは、久坂の妻に松陰の妹をめあわせたのを見てもわかる。しかし久坂は前にのべた通り、同藩の来島《きじま》又兵衛、久留米の神官|真木《まき》和泉《いずみ》などとともに、元治元年、�禁門の変�と呼ばれている無謀な京都進発を強行し、これが大失敗に帰して、いずれも命をすてた。  高杉は松陰から「識見|気魄《きはく》他人の及ぶなく、大の駕馭《がぎよ》を受けざる高等の人物」なりとまでいわれたが、生活態度は不規則そのもので、ついに結核にかかり、二十九歳でなくなった。これも見方によっては、自分の生命を自分で放棄したものだともいえよう。松陰も、ほぼ同じ年齢で世を去ったが、これまた結核をわずらっていたというから、安政の大獄で刑死していなくても、維新政府に列するまで生きのこることはむずかしかったであろう。  自分の生命を大切にしないような生きかた、仕事と生命を引きかえにするような生きかたは、自殺もしくは他殺の一種である。マスコミに殺されたという林芙美子、坂口安吾、織田作之助などの死は、太宰治や田中英光の自殺と比べて、本質的にそうちがうものではない。  そこへ行くと、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、井上馨などは、さすがに要領がよかった。かれらが幕末のアラシをのりこえて、明治時代まで生きのこったのは、たしかに運も手つだってはいるが、決してそれだけではない。 �禁門の変�の際、木戸も京都にいたが、いちはやく危険地帯を脱出し、但馬の出石《いずし》で荒物屋の主人にバケて潜伏していた。そのうちに長州藩の情勢が一変し、彼の行くえを探《さが》して対馬《つしま》まで行った愛人の芸者|幾松《いくまつ》に迎えられ、途中いくたびか虎口をのがれて下関にたどりつき、さっそく藩の要職についたということになっている。この話はいかにも大衆文芸的で、そのままうけとれないが、彼の思慮深い性格と機敏な行動力を物語っている。その点、ガムシャラな久坂や来島とはまったくちがう。  幼にして父を失い、十三歳で母にも死なれて、他家に引きとられて育った木戸は、単なる�激徒�ではなかった。松陰系の人物のなかでは、年長でもあり、苦労もつんでいたから、松陰のいうことにも批判的で、雷同するようなことはなかった。彼のもっとも得意とするところは、情報とりと情勢判断で、藩の重役で進歩派を代表する周布《すふ》政之助にも信頼された。そこで、松陰の死後は、木戸がそのあとをつぎ、長州藩の若手を統率して明治政府に重きをなすにいたったのである。  伊藤も山県も、普通だと武家の仲間入りもできないほど低い身分のものだが、それだけに、いくたびも危機にのぞみながら、それを切りぬける動物的本能といったようなものを身につけていた。  井上の生家は禄高八十石、志道《しじ》家をつぎ、若いころは志道|聞多《もんた》と名のっていたが、養家は二百石で地門が高かった。そのためか、彼はわがままで、強情で、かんしゃくもちで、坊ちゃん気質がぬけなかった。元治元年、君前会議をおえて自宅にかえる途中、反対派におそわれて、胸を切りつけられたが、ふところに鏡がはいっていたおかげで急所をそれ、あやうく一命をとりとめた。この鏡は、彼が前の年、伊藤博文らとともに欧州遊学に出発する際、祇園の芸者君尾から餞別にもらったものだという。  太平洋戦争でも、シガレット・ケースやライターで命びろいをしたという例もある。これは当人の実力や心がけと関係のないことだ。人生においては、このような形で�運�とよばれる偶然性に支配されることもある。 「維新前における長州の志士を順序立てむに、まず吉田松陰なり。つぎに高杉晋作、久坂|通武《みちたけ》(玄瑞)なり。つぎに木戸孝允なり。つぎに山県有朋、伊藤博文なり」  これは大町|桂月《けいげつ》の長州系人物論であるが、これでみると、トップ級はみな維新前に死んでしまって、二流以下が生きのこったようにもみえる。  日本最初の軍歌といわれる「宮さん、宮さん、お馬の前にひらひらするのは、なんじゃいな」の作者で、明治二十四年、松方|正義《まさよし》内閣の内相として、空前絶後の選挙干渉をおこなった品川弥二郎は、松陰門下で傑出した人物は誰かときかれて、つぎのごとく語っている。 「吉田|稔麿《としまろ》が第一じゃ。今ごろまで生きていたら、押しも押されもせぬ総理大臣だ。つぎは杉山松助、これは大蔵大臣だ。久坂は万能に通じ、高杉は奇知に長《た》け、佐世八十郎(前原一誠)は勇。入江九一に寺島忠三郎、このふたりも偉かった。まず、この七人が傑出の人物であろう」  吉田稔麿と杉山松助は、元治元年池田屋で、近藤勇のひきいる新選組に襲われ、傷ついて自刃した。久坂、入江、寺島の三人は、�蛤御門の変�で倒れた。高杉は病死し、前原一誠は�萩の乱�をおこして処刑された。  こんなふうに、品川が死んだ人間ばかりをほめているところがおもしろい。この人たちは、彼にとって、もはや競争者ではないし、将来ボロを出す心配もないから、安心してほめられるのであろう。  しかし、こういった人物が生きのこっていたとすれば、明治政府で相当重要な地位についたであろうと推定できるデータがないわけではない。  入江九一の実弟に和作《わさく》というのがいた。安政五年、松陰が密出国に失敗して、萩で入獄しているとき、水戸の�正義派�がとてつもない計画を立てて、その援助を求めてきた。それは毛利藩主の参覲交代の途中、伏見で待ち伏せてこれを説得し、大原三位その他の勤皇派の公卿と組んで、攘夷を断行させるとともに、�安政の大獄�の下手人である間部詮勝《まなべあきかつ》に�天誅�を加えようというのである。これをきいた松陰はさっそく賛成し、獄中からその門下生に呼びかけて、この�壮挙�に参加するようにすすめたが、みなしりごみした。見かねて、これに応じたのが入江兄弟である。  しかし、これを決行するには、まず脱藩しなければならない。脱藩すれば知行が没収される。家には年とった母と幼い妹がふたりいて、たちまち生活に困る。これらを見殺しにすることはできないというので、兄の九一は家にのこり、弟の和作だけが参加することにきめた。松陰にもわかれをつげて、いよいよ出発というとき、萩政府の知るところとなり、兄弟とも捕えられて投獄された。一方、伏見では、各藩の勤皇派が毛利藩主の京都入りを待ちうけていたが、三条実美、中山|忠能《ただよし》など、自重派の公卿が大原三位らの軽挙をおさえて、けっきょく中止ということになった。この話はアイゼンハワー大統領の訪日を阻止したころの全学連や、これを指導した清水幾太郎などの動きを思わせる。  それはさておいて、あとでこのことを知った松陰は、自分の思慮の足りなさから、門下生に大きな犠牲をもたらしたことを深く恥じるとともに、ハンストをおこなって藩主に訴え、入江兄弟の釈放に成功したという。  明治政府に仕えて、枢密顧問官、内相、逓相などを歴任して子爵を授けられた野村靖は、弟の和作の後身である。兄の九一は、松陰が一目も二目もおいて、「ことごとくわれ入江にはかる」といっていたくらいの人物だから、長く生きていたならば、弟以上の地位についたと見てよい。  これだけの事実に基づいて、吉田松陰というのは、それほどの大人物でないと見るのはまちがいであろう。しかし、のちに世にでて権力をほしいままにした多くの門下生たちによって、神聖視され、偶像化され、過大評価されている面のあることは明らかである。松陰の性格をもってすれば、あの激しい時代の波を無事にのりきることはできなかったし、のりきったとしても、時代が建設期にはいれば、無用であるばかりでなく、むしろじゃまものあつかいされたかもしれない。  その点は、松陰自身も悟っていたらしく、門下生たちに、 「ぼくは忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり」 と、いいきっている。このように徹底した自己犠牲の精神は日本人特有のもので、外国人には理解しにくいであろう。これに似た忠誠心をうけついで、明治まで生きのびたのが乃木将軍であるが、将軍の場合は、その忠誠心がもっと沈潜した形であらわれた。  [#小見出し]徹底した抵抗精神  維新のヒノキ舞台で三番叟《さんばそう》をつとめたのは、高杉晋作だといわれている。  プロ野球にたとえていうと、松陰は長州�勤皇チーム�の監督というよりも、打撃コーチで、一番打者は高杉ということになる。長打はないが、出塁率は高く、選球と走塁は天下一品である。投手のモーションを盗んだり、敵失を誘発したりして、相手がたの陣営をカク乱することもうまい。ときには暴走の失敗もあるが、長島や王とはちがった形で人気をさらったであろう。  大町桂月にいわせると、 「薩の西郷(隆盛)、大久保(利通)、土の坂本(龍馬)など、みな百代の偉人なれど、余はもっとも高杉晋作の奇抜なるを愛す。高杉は天下の奇才なり。少なくとも当時第一流の人物なり」  また、高杉の記念碑に伊藤博文が書いた文章によると、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目|駭然《がいぜん》あえて正視するなきもの、これ東行高杉君にあらずや」(東行は高杉の号)  松陰も高杉には一目おいて、 「暢夫《のぶお》(高杉のあざ名)の識見気魄、他人のおよぶところにあらず」  しかし、木戸孝允となると、早くから高杉のマイナス面もちゃんと見ぬいて、 「俊邁《しゆんまい》の少年なり、惜しむらくは少しく頑質あり、後来その人言を容れざるを恐る。老兄(松陰のこと)何ぞ今におよんで一言せざる」 と勧告している。松陰もこれを認めて、 「しかり、僕もこれを思う」 といいながらも、 「暢夫は後に必ずや成すあらん。今みだりにその頑質を矯《た》めば、人と成らず。暢夫他年成すあらん。たとえ、人言を容れずとも、必ずやその言をすてず。十年の後、あるいは僕なすあらば、必ずこれを暢夫に謀《はか》らん。必ずやわれにそむかず、二人相すくえば大過なかるべし」 というわけで、松陰は高杉に忠告することをことわっている。これは松陰が生まれながらに人の師たる資格をそなえていることを立証するデータとしてあげられるのだが、わたくしの見るところでは、決してケタをはずさない木戸よりは、天衣無縫の高杉のほうが、松陰の気に入っていたのであろう。だが、松陰と高杉が組んで事をはかれば、�大過�ないどころか、大失敗を演じる公算のほうが大きい。  がいして長州系の人物に大衆的人気がわかないのは、要領のよすぎるものが多いからである。そのなかでの例外が高杉だ。高杉が西郷などとはちがった面で、後世まで全国的な人気を博しているのも、思いきってケタがはずれているところからきていると思う。  高杉は名前その他に�狂�という字をさかんにつかった。これは合理主義、日和見主義への抵抗精神から出たもので、この時代の若い世代に共通した風潮であったことは前にのべたが、高杉の人となりを一語で表現するとすれば、�狂�よりはむしろ�奇�をもってすべきであろう。高杉は�寛政の三奇人�などとはぜんぜんちがった型の�奇人�であった。無軌道のなかに、しばしば鋭い天才的な奇知、英知がスパークしてとび出してくるのだ。  武士という世襲的な職業軍人制度がまだ幅をきかしていた長州藩で、百姓町人を主とする近代的な民兵組織をつくったのは高杉だといわれているが、これを�奇兵隊�と名づけたところに、高杉の性格がよくあらわれている。�正�にたいする批判というよりも、意識的な反発が�奇�だ。  高杉の�奇行�はあれこれと伝説化されて伝えられている。陣中に茶器をもちこんで煎茶をたてたとか、兵舎内に芸者の愛人をつれこみ、衣桁《いこう》にもえるような色の長じゅばんをかけていたとかいうのがそれだ。現在もあるかどうか知らないが、遊就館(現在は靖国神社宝物遺品館)に高杉の遺物なるものが保存されていて、そのなかに、彼の創案にかかるポータブルの三味線があった。陣中でも手放さずに愛用したものだ。  彼はまた、白リンズの衣服をまとい、キンランのハカマをつけ、蛇の目のカサをもち、高ゲタをはいて、馬関の芸者六、七人をしたがえ、大きな声で伊勢音頭を唱え、踊りながら陣営にのりこんできたこともあるという。  彼は�俗論�派に抵抗したばかりでなく、まじめくさった�正論�派にも反発した。それがこういう形であらわれたのだ。  これに似た人物を現代に求めるならば、若かりしころの尾崎士郎、林房雄に、いくらかこれに通じるものがあった。  乃木将軍の人間形成の上に、もっとも大きな影響を与えたのは、いうまでもなく、父の希次である。そのつぎは乃木家の親類で、吉田松陰の師にあたる玉木文之進である。しかし、乃木はかぞえ年の十八歳で、長府の報国隊にはいり、はじめて軍務に服したのであるが、その隊長は山県狂介(のちの有朋)で、その上に奇兵隊の総監として諸隊を指揮していたのが高杉晋作である。  したがって、乃木は軍人としての手ほどきを山県、高杉のふたりからうけたことになる。しかし、乃木が報国隊にはいったのは慶応二年四月で、翌年の四月には高杉が死亡しているから、影響下にあったといっても、たった一年にすぎない。それでも、諸隊には高杉イズムといったようなものが深く浸透していたにちがいないから、間接の影響は大きかったと見るべきであろう。とくに山県の場合は、乃木にとっては同郷の先輩として、特別の指導と恩顧をうけたことは明らかである。  ところが、人柄からいうと、高杉も山県も、乃木とは極端にちがっている。もっとも、若いころの乃木は、意識的に高杉や山県の真似をしたと思われるフシがないでもなかったが、けっきょく、それはつけ焼き刃にすぎなかった。年をとるにつれて、本来の乃木にかえり、希次や文之進の明治版ともいうべき形で、その生涯をおえた。  そこで、高杉や山県について語ることは、かれらが乃木にいかに大きな影響を与えたかということよりも、その影響が意外に小さかったというところに、興味がかかっている。そして、中年以後の乃木に、反高杉、反山県的な面が強く出てきたとしても、それはいわば反動であり、免疫であって、これまた影響の一種といえないことはない。大酒呑みのむすこにアルコールぎらいが出るようなものだ。  そういった点からいって、乃木の人間形成期における高杉や山県の動きを見ることは無意義ではない。とくに文久以後の日本変革劇のクライマックス、徳川政府崩壊の大団円を高杉晋作という豪快な人物の動きを通じてながめるのは、スリルとサスペンスに富み、興味深いものがある。  [#小見出し]すべてが父と反対  高杉は天保十年萩に生まれた。乃木よりはちょうど十年上、山県よりは一年下である。高杉の父は小忠太といったが、その名が示しているように、小心な謹直そのもののような人物で、毛利|斉広《なりひろ》、敬親《よしちか》、定広(のちの元徳)三代の藩主に仕え、とくに定広のお守役として忠勤をぬきんでて、直目付《じきめつ》けにまですすんだ。人柄や経歴からいうと、乃木の父希次に近い。  さて、晋作は、型通り藩校の明倫館に学んだが、途中からいや気がさして、松陰の松下村塾にうつったのは十八歳のときだ。当時、松陰は最大の危険人物になっていたから、父に相談すれば許してくれるはずはないので、無断で入門し、家人の目をぬすんで一里の夜道を通ったという。 「某《それがし》若くして無頼《ぶらい》、撃剣を好み、一個の武人たらんことを期す」というのが、松陰に接して「初めて書を読み、道を行うの理を聞く」ことによって、国事に関心をよせる人物になったのである。大正、昭和の社会運動開花期にも三輪寿壮、志賀義雄、木下半治などは、旧制高校生時代には柔道の選手だったのが、東大の「新人会」にはいって社会主義者や共産主義者になったのと似ている。 「僕一人の愚父をもちおり、日夜僕をよびつけ、俗論を申しきかせ、先だって死に候大父(祖父)なども、毎事僕をよびよせ、何卒《なにとぞ》大なることをいたしてくれるな、父様の役にもかかわるからと申しつけ候故、松下塾へ参るさいも、かくしており候くらいのことに候。これにそむき候えば不孝となり、それというても天下のことは、議論仕らずしてはおれず、大きに心中に苦しんでおる。それ故尊公様にも議論ばかりいたし、行うことはできぬといわれても、一言半句も御座なく候」  これは高杉が久坂玄瑞などの同門の士にあてた手紙の一部で、実直につとめあげてやっと部課長級になった父親が、むすこの�赤く�なるのを恐れる気持ちと同じである。こういった�父と子�の対立は、ツルゲーネフの有名な小説に描かれているように、社会的変革期には、どこでもおこるものらしい。 �観樹《かんじゆ》将軍�で通っている三浦梧楼中将は、『豪快録』のなかで、高杉についてつぎのごとく語っている。 「丈《たけ》がすらりとして、男前も立派だった。平生はやさしい目をしていたが、それがどうかするとギロリと光ったものだ。そのときの恐ろしさは身にしみるようだったよ。すべてが親と反対で、あの親からああいう男が生まれたのは天じゃのう。それで高杉は�カラスの白糞�ということで、長州じゅうの評判になったものじゃ」  この�天�ということばは、�時代�を意味している。  安政五年七月、高杉の父は、藩政府に願い出て、彼を江戸に留学させた。これは自費ではあるが、「万一異変の節はお雇い」という条件がついていた。今でも会社員の海外留学によくつかう手だ。いずれにしても、高杉の父としては、むすこを松陰の影響下から引きはなしたかったのであろう。  高杉のこの第一回江戸留学は、わずか一年三か月であったが、そのあいだに彼は、兵学を大村益次郎に学び、剣は斎藤弥九郎にきたえられた。当時の東大ともいうべき昌平黌《しようへいこう》にも学んだ。大橋順蔵(訥庵《とつあん》)の塾にもはいって、もりもり勉強した。  翌六年五月、松陰から高杉へ出した手紙に、 「貴兄関東の遊び甚だ妙。それからは、就官蓄妾ならびに妙。子生れ官達すれば、一通り父母への孝は立つなり。それからは君に忠をせねばならず、お小姓にても、同志両三人ほどあらば、時をもってお上へ、赤心を徹しおき、さてそれから、同僚と大喧嘩にてもして、役目を退き、それより大いに、修業をいたしかえ、真人物になり、その上にて、真の忠義する手段もあらん」 といっている。高杉が江戸に出て、また官職についたり、愛人をもったりしているのを多少皮肉っているわけだ。このとき高杉は、やっと二十歳になったばかりで、正式に結婚したのは、翌万延元年のことだから、相手の女は�妾�ではなくて、今のガール・フレンドのようなものだったろう。  それにしても、松陰のこの手紙の後半は、高杉のその後の生きかたをズバリといいあてている。今でいうと、まず社長秘書にでもなって自分をうまく売りこみ、のちに同僚と意見があわぬとかいうことで、他の職場に転じ、そこで腕をみがいて実力者となり、いざというときに経営陣にのりこむというのである。むろん、松陰はこのような卑俗な立身出世主義を説いたのではないが、そののち高杉は、藩の重役に列するチャンスは、何度もあったし、現に列しもしたが、すぐとび出してしまった。彼は非常事態が発生したときの陣頭指揮にはうってつけだけれど、地道に経営を担当していくには、血の気が多すぎて、もっとも不むきな人物であった。  この年五月二十六日、�安政の大獄�に連座した松陰は、萩から江戸に送られた。途中でどういう事件がおこらぬとも限らぬというので、四、五十人に警護されていたが、その大部分は松陰に同情をよせている人々であった。その道中において松陰は、口述でいろんな著作をしたが、なかでも「正気《せいき》の歌」は、文天祥のものや藤田東湖のものとともに志士たちの血をわかせたものだ。内容は、共産党の「赤旗の歌」とまったく反対だが、闘志をあおり、スタミナを高める点で、相通ずるものがある。  一行はまる一か月かかって、六月二十五日江戸につき、松陰は伝馬町の牢屋に入れられた。これは未決監で、身分によって区別されていた。禄高干石以上の武士は、�お座敷�といって六畳に二畳の控えの間のついたところに入れられ、千石以下の武士は�揚屋《あがりや》�に、百姓、町人は普通の牢に入れられた。  獄中の松陰は、寛大なあつかいをうけた。書物、硯、筆、紙などの差し入れがきいて、著作をしたり、手紙を書いたりすることも自由であった。有名な『留魂録』は獄中の作だ。  それというのも、江戸の毛利藩邸には、高杉その他の門下生がいて、獄吏へのつけとどけがゆきとどいていたからである。食べものでも、金さえ出せば、ほしいものが手にはいった。そのかわり、スシひとつが一朱、いまの金にして五、六百円もとられたという。  松陰が検挙された理由は、当時最大の危険人物としてにらまれていた梅田雲浜に、松下村塾の門札を書いてもらったとか、京都の御所内に幕府転覆をねらう�落とし文�、宣伝ビラのようなものをまいたが、これはてっきり、雲浜の煽動にのせられたのであろうとかいったようなことで、確実な証拠をにぎられていたわけではなかった。  しかるに、松陰のほうでは、すべて自分の信念に基づいてやったことだと見栄《みえ》をきったので、ついに有罪と決定したのである。昭和初期の共産党事件でも、これに似たケースがあった。  それでも、評定所の�罪文�(判決書)では、「遠島を申しつくるものなり」となっていた。これが大老井伊直弼のところへまわってきたときに、「これは軽い」とひとこといって、「遠島」を「斬罪」と訂正したのだといわれている。橋本左内も同じめにあった。  このウワサがたちまち勤皇の志士たちのあいだにひろがって、かれらを憤激させた。そして翌万延元年三月三日、こんどは井伊が水戸の浪士らによって血祭りにあげられた。  松陰が処刑されたのは安政六年十月二十七日で、その十日前に、高杉は藩命により江戸を立って萩へかえった。そして、翌年三月、井伊が殺されて間もないころ、高杉はまた藩の命令で、こんどは蒸汽科の留学生として、航海術実習のため、毛利藩の軍艦第一号である「丙辰《へいしん》丸」にのりこんで、海路江戸にむかって出帆した。  [#小見出し]松陰の密書を携行  高杉が二度目に江戸へ出たのは、航海術を身につけるのが目的であったが、もともと自分は性格が�疎狂�、つまり、大ざっぱで、精緻《せいち》な機械や技術の研究にはむかない、というよりも、政治性、実行欲が強すぎるということに気がついた。  そこで、もっと学問や剣術の修業をするため、江戸にのこりたいと藩政府に願い出たが、許可にならず、一方、父のほうからはさかんに帰国をうながしてくる。といって命ぜられた使命を果たさずにかえったのでは、藩主にあわす顔がないというわけで、思いついたのが東北巡遊である。吉田松陰も、二十一歳で軍学修業のため江戸に出て、無断で藩邸をぬけ出し、東北各地をまわって歩いた。  武者修行で諸国をまわるのは、古くからおこなわれていたが、徳川時代も末期に近づくにつれて、思想的な諸国|行脚《あんぎや》が多くなった。全国的に知られている学者志士、奇人烈士をたずね、ヒザをまじえて議論をたたかわすとともに、各地の名所、旧跡、人情風俗、地勢、産業などを見て歩いて、他日にそなえようというわけだ。多分に思想性、政治性をおびたレクリエーションであるが、のちにはこれが勤皇のためのアジ・プロ、共産党のオルグのような役割りを果たすことになった。  高杉のねらった人物は、笠間の加藤|有隣《ゆうりん》、信州の佐久間象山、越前の横井小楠、安芸《あき》の吉村秋陽などで、いずれもこの時代の人気者である。松陰のばあいは、思想的な鍛錬が主であったが、剣道を得意とする高杉は、古い型の武者修行を兼ねていた。そして行く先々で道場を見つけ、試合を申しこんだ。いわば文武の二刀流である。  万延元年八月二十八日、出発にあたって、浅草の料亭で壮行会を催したが、これには数十人あつまったというから、今の海外旅行以上である。千住で、道が奥州街道と日光街道にわかれるが、そこまで久坂玄瑞、桂小五郎、楢崎《ならさき》弥八郎などが見送ってきた。  つかれると馬をやとい、「蕩然《とうぜん》として吟誦し、馬奴と相応じて歌い、これまた遊中の一奇事なり」と日記に書いている。いい気持ちで馬子とともに歌いながら行く彼の姿が目にみえるようである。  日光の束照宮を見て、 「神祠宏大無辺、金銀金具、唐木の彫り物、そのほか石塔、諸大名のへつらいのために、奉るものかぞうべからざるなり。このところ、少しく議論あり」 と書いている。内心大いにふんがいしていることは明らかだが、「少しく議論あり」と表現をやわらげているのは、だれかに見られたばあいを考えてのカムフラージュであろう。  信州松代につくと、さっそく佐久間象山をたずねた。象山は松陰の密出国をそそのかしたというので江戸でつかまったが、釈放されて松代にかえり謹慎中だったので、面会をことわられた。そこで高杉は、その晩おそく仮病をつかい、宿の主人に、ここには象山という名医がいるそうだが、ぜひその先生を迎えてくれということで、象山を呼びにやり、ふたりで語りあかしたという。  一説によると、高杉が貧乏書生の姿で面会を求めると、カミシモをつけてこいといった。やむなく宿にかえり、主人にカミシモを借りて出かけた。そして、やっと面会はできたが、その態度が尊大で、いきなり、世界中の学者に知られていない星を七つも発見したといい出した。これをきいて高杉は、象山というのはとてつもないホラふきだと思ったらしい。松陰が、江戸木挽町の象山の塾へ、はじめてたずねて行ったときにも、服装が見すぼらしかったので、一喝をくらったということである。象山の門人は数千人、そのなかには勝海舟、河井継之助、加藤弘之などもいた。  ところが、実はそうでなくて、高杉の象山訪問は、松陰が獄中で書いた手紙をとどけるのが目的であった。この手紙は、紹介状という形をとっているが、ほんとは密書であった。その内容は、「高杉生は、僕より若きこと十年なり。学いまだ充たず、経歴また浅し。しかれども、強質精識、凡倫に卓絶す。つねに僕をみて師のごとくし、しかして僕またこれを重んじて兄となす」  ここまでは紹介状で、そのあと松陰は、つぎの三項について象山に質問している。 「幕府諸侯、いずれのところをかたのむべき、神州の恢復、いずれのところより手を下さん、丈夫の死所、いずれのところか最も当れる、先生もしいまだ僕をすてられずんば、願わくば僕に語るものをもって、この生に語られよ」  松陰の求めているものは、確固たる原則綱領ならびに実践綱領で、彼の身がわりである高杉に、これを指示してほしいというわけだ。このような形をとって松陰は、高杉にその志をつがせようとしたのである。  [#小見出し]和宮降嫁で一波乱  文久元年六月、高杉が三度目に江戸へ出たときには、情勢がよほどかわっていた。  井伊直弼のあとをうけた安藤信正は、井伊の独裁的弾圧主義を改めて、緩和政策をとった。外交問題、国防問題、対皇室問題など、すべてが行きづまって、何から手をつけていいかわからぬ状態にあったが、まず国内における対立を緩和することが急務だということになったのだ。  そのための妙手として思いついたのが、将軍|家茂《いえもち》の夫人として、仁孝天皇の第八皇女|和宮《かずのみや》のご降嫁を願い出るということである。これが成功すれば�公武合体�には絶好のクサビになるというので、その実現のために幕府はあらゆる手をうった。その結果、ヒョウタンから駒が出るように、高杉の上海渡航ということになったのである。そのいきさつはこうだ。  和宮降嫁の件が世間につたわると、勤皇の志士たちのあいだに、反対の声が猛然とわきおこり、ヤブをつついてヘビを出したような形となった。その中心となったのが、水戸藩と長州藩である。といっても�御三家�の水戸藩のほうは、重役のむすこが労組の指導者となってストを煽動するようなものだけれど、雄藩でも外様《とざま》の長州藩としては、そうはいかない。�朝廷への忠節�とともに�幕府への信義�を示すのはこのときとばかり、藩主以下、重役陣が江戸に出てきて、�公武一和�の�周旋�にひとはだぬぐことになった。  一方、京都のほうでも、これまで尊皇攘夷派の旗がしらと見られていた岩倉具視などが先頭に立って、幕府のために動いた。その裏では、井伊の腹心長野主膳のような影武者の活躍もあったが、幕府が公卿たちのあいだに、巨額の金をバラまいたことも事実である。当時の贈賄法は、たとえば公卿の家をたずねて、机の上にあった書物を借りうけ、あとでこれに金をはさんでかえすというのも、そのひとつであった。  このころ流行したことばに、�三奸二嬪《さんかんにひん》�というのがある。これは岩倉具視、千種有文《ちぐさありぶみ》、久我|建通《たけみち》、それから後宮に勢力のあった少将局|今城重子《いまきしげこ》、衛門内侍堀河|紀子《のりこ》のことで、勤皇派の志士たちのあいだでは、かれらが目のかたきにされたことはいうまでもない。紀子は岩倉の妹、重子は千種の妹で、いずれも孝明天皇の寵姫であった。志士たちは、千種家の家令、賀川肇《かがわはじめ》がその妾宅にかえったところを待ちうけて、その首をはね、両腕をきりおとし、首はおりから上洛中の一橋|慶喜《よしのぶ》の宿へ、腕は岩倉と千種の家へ、斬奸状をそえて投げこむという事件もあった。  毛利藩では、藩士の長井|雅楽《うた》が�公武周旋�の手段として�航海遠略�の策を藩主に献言して、重く用いられていた。�航海遠略�というのは、外国と通商条約が結ばれた以上、攘夷などということはやめて、日本も積極的に外国へのり出して国威を輝かすべきだというのである。 「およそ攻守は一にして二にあらず。すなわち、攻むるの力あるにあらざれば、守ること能わず。守るの力あるにあらざれば、攻むること能わず。開鎮(開国、鎖国)のこと、また大いに然り。鎖すこと能わざれば、開くべからず。開くこと能わざれば、鎖すべからず。日本の国力を充実して、開鎖ともに時のよろしきにしたごうて実行すべき国勢に達せずんば、鎖も真の鎖にあらず。開も真の開にあらず。しかるに今日のごとく公武の間、たがいに確執し、上下の見を異にするにあっては、断じてわが国の強大を計る能わず」 というわけで、よく筋の通った、りっぱな議論である。そこで「朝廷は鎖攘(鎖国攘夷)の説をすてさせたまい、幕府は尊皇の実をあげ、相頼り相助けて、ともに国力を伸張するに如《し》かず」ということになるのだが、これが打倒幕府でいきりたっている勤皇派の�激徒�たちには気にくわぬのだ。そのリーダーが高杉で、桂小五郎、久坂玄瑞、楢崎弥八郎、伊藤俊輔(博文)などとともに、長井排撃運動を展開していたが、ついに高杉は、長井暗殺の計画を同志にうちあけた。  驚いたのは、このグループでいちばん思慮分別のある桂だ。さっそく、自分と親しい重役の周布政之助にこれを知らせた。その対策についてふたりで相談の結果、高杉に長井暗殺を思いとどまらせる交換条件として、上海視察に送りこむことになったのである。現代に例をとれば都留重人や石垣綾子の親たちが、かれらを�赤�から引きはなすために、アメリカヘ留学させたようなものだ。  周布も長井も、思想そのものには大してちがいはなかった。ただし、周布は�激徒�のあいだにも人気があったのに反し、長井はすっかり�ダラ幹�あつかいされた。そして、さいごはどっちも自刃せざるをえないところまで追いつめられた。今の人物にたとえていうと、周布が大内兵衛なら、長井は西尾末広にあたる。  長井の説は堂々たるもので、どこにもまちがいのないことは、これらの�激徒�たちが、明治政府の実権をにぎるとともに、これをそのまま政策として実行にうつし、新しい日本の基礎を築いたのを見てもわかる。ただし、同じ理論でも、これを唱えるものの人柄と時期によって、まったく別なものとなり、別な役割りを果たすというひとつの例である。  [#小見出し]根強い大陸雄飛熱  海外雄飛、とくに大陸への進出は、長州系政治家、軍人の伝統的な政策である。  吉田松陰の攘夷論にしても、保守的な排外思想から出たものではなく、開国にそなえての攘夷、和せんがために軍事力の充実を計れというのであって、それには外国を知ることが先決問題となっていた。ロシアの軍艦が長崎にきたというので、これにのりこもうとしてわざわざ江戸から出向いたり、下田にきたアメリカの軍艦に便乗を求めて失敗したりしたのも、この目的から出たものだ。書物を通じての海外事情の研究にも、松陰が大いに力をそそいでいたことはいうまでもない。  松陰の門下生はみなその志をうけついでいた。久坂玄瑞はつとに黒竜江方面を探索しようとする考えをいだき、その機会をねらっていたが、これまた実現しなかった。しかし、日本人で欧州留学のトップをきったのは、井上馨、伊藤博文、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の五人で、いずれも長州藩士である。これは文久三年のことだが、一行がロンドンについてまもなく、長州藩が攘夷をはじめたという新聞記事を読んで、あわてて日本へかえった。  翌元治元年、下関が英米仏蘭の連合艦隊に攻撃されてさんざんな目にあったうえ、幕府から征長軍をむけられて、長州藩が窮地におちいったとき、高杉は同藩の刺客《しかく》をさけて農家に潜伏していたが、そこから井上(馨)へおくった手紙のなかで、つぎのようなことをのべている。 「このままでいくと、毛利家は滅亡するにちがいない。そこで、毛利家の血統を絶えさせないようにするには、朝鮮かどこかへ行って、将来の計画を立てねばならぬ。それにしても、先立つものは金だから、ぜひ相談にのってもらいたい」  その後、情勢がさらに切迫して、高杉が大坂方面に逃げたとき、伊藤は対馬を経て朝鮮に亡命する計画を立てていた。  朝鮮半島と長州のあいだは、壱岐、対馬が飛び石の役目を果たしているし、海流の関係もあって、かんたんに往来ができる。相互に漁民の漂着もしばしばあって、長州人は朝鮮を身近に感じている。したがって、長州系の政治家や軍人には、朝鮮や大陸に特別の関心をよせているものが多い。  明治になってからも、三浦梧楼中将は特命全権公使として韓国に駐留中、王妃殺害事件に関係ありとみられ、投獄されたりしているが、伊藤博文にいたっては、日韓併合の立て役者として、十八回も玄界灘をわたっている。彼の二女は、明治九年朝鮮問題が廟議《びようぎ》にのぼったときに生まれたというので、「朝子」と命名された。のちの西源四郎夫人だ。これほど朝鮮と深いつながりをもっていた伊藤は、ついにハルビン駅頭で、安重根《あんじゆうこん》という朝鮮人のために殺された。  シベリア出兵と田中義一大将の関係は知られすぎている。しかし、田中内閣の逓信大臣となった久原房之助が、昭和二年�経済使節�としてモスクワを訪れ、スターリンを相手に、アジアに中立の緩衝国家をつくる案について話しあったことは、あまり知られていない。この中立国は、ソ連が沿海州を、中国が満洲を、日本が朝鮮を供出してつくられるもので、三国が共同で管理し、開発や投資は自由だが、軍隊は絶対におかぬという建て前である。スターリンもこの計画に、原則的に賛成したと久原はいっている。  戦後においても、日本の歴代首相で、日韓関係の打開に、もっとも強い熱意を示したのは岸信介である。その際、日本政府代表にえらばれた杉道助が、萩の出身で、吉田松陰と同じ血でつながっていることは、前にものべた通りである。  一昨年、わたしはモスクワで、安重根のパトロンになっていた朝鮮人のむすこというのに会った。彼はロマン・キム(朝鮮名は金基劉《きんきりゆう》)といって、ソ連文壇における唯一の推理小説作家である。金は慶応普通部に学び、日本語も日本人なみに話し、日本の雑誌や書物もたいてい読んでいる。志賀直哉の弟の直三が慶応時代の金の親友で、直三の著書『阿呆伝』のなかにも金のことが出ている。そのころ金は恋愛をしたが、その相手がなんと、杉浦|重剛《しげたけ》の娘であった。  その後、金はロシアに呼びかえされ、赤軍の通訳などをしていたが、シベリア出兵のとき、日本軍にとらえられ、あやうく処刑されるところを大竹博吉に助けられた。  話は余談にわたったが、俗論派の巨頭と見られた長井雅楽の暗殺を中止する交換条件に、上海視察をもち出されて、高杉がふたつ返事でこれに応じたというのも、長い鎖国のあとをうけて、海外に出られるということは、とくに長州人にとってたいへんな魅力だったのだ。これで松陰の遺志をつぐこともできると考えたにちがいない。  鎖国後の日本の外国貿易はオランダ人とシナ人の独占になっていて、かれらが不当の利益を得ていることは、幕府のほうにもよくわかっていたが、どうにもならなかった。しかし、いやいやながらも、諸外国と通商条約を結んだ以上、おくればせながら、国際市場にのり出すことになった。その手はじめに、幕府はイギリスの帆船アーミスチス号を買い上げ、「千歳丸」と改名、手近な上海に送る計画を立て、これに諸藩士の便乗を許したのである。 [#地付き](昭和三十九年二月、文藝春秋新社) [#地付き]〈炎は流れる一 了〉 〈底 本〉文春文庫 昭和五十年九月二十五日刊